うたかた / サンクチュアリ 嵐は落ち着いた調子で肯定した。 「どうして ? どうしてそんな気がするのよ。」 私は信じたくなかった。少し元気のない日本の秋の夕暮れに、ただの日常に、どう して異国のこの人はこんな大変なことを割り込ませようとするのか。 おまえ、 いから ! 」嵐はどなった。「確かめるだけでいいんだってば。早く びとりばっちになってしまうかもしれないんだよ ! 」 ただごとではない気分がずっしりと私にも伝わってきた。そして、そんな不確かな 予感さえ無視できずに私をなにがなんでも探し出す、そんな彼の心ばえがとにかく愛 , レ、つこ。 「わかったわ。また連絡する。」と私は言った。「ありがとう、嵐。」 「うん、じゃあ。」 嵐は言った。電話が切れた後、私はトイレのドアからおどり出てあわてて家に電話 をしたが二十回コールしても母は出なかった。にわかに不安がこみ上げてきて、私は 大あわてで席に戻り、伝票と荷物をつかんでレジへ走った。そういえば、と店の階段 を泣きそうな勢いで駆け上がりながらも私は思った。割れたものはみんな片づいてい たわ、店の人々はみんな私のことを奇人だと思ったわ、きっと。タクシーをつかまえ、
実はとっくに乾いているのだが、 そのがさがさと落ち着かない感じがあまりにもかっ こ良いので放っておいたのだ。ライトがそれを照らしていくつもの淡い影を作り、こ ろがるポリタンクと、山のように買いあさった写真の本がじゅうたんの上に点在して はじまりの景色、その時の私にはなにもかもが妙にくつきりと明るく見えた。全て のことが、この手のひらで押せば大きく動くような、そんな気さえした。なにもかも、 たどんな細かいことも、 いっせいに未来に向かって開いているようだった。嵐に買って かもらったコスモスが、私の好きな背の高いガラスの花びんに柔らかに咲いていた。 私は、すぐに嵐に電話をかけた。 「おお、妹よ。」 もしもし人魚です、と言った私に、嵐は上機嫌でそう言った。 「本当に、そこに遊びに行っても、 私は言った。 「うん、いつでも、 いよ。明日だろうが、今日だろうが」 「うん、今日はもう夜になっちゃうから、明日学校の帰りに寄るわ。 私は、二人がずっと前からこんな会話をしていたように自然な感じで言った。 すべ
133 と笑った彼女はほほが赤く、目がきらきらしていて、全然落ち着きがなかった。 今にも走り出しそうな彼女に、 「そんなに嬉しい ? 」 とたずねると、 「うん、そのカメラマンの人、知ってる人なの。その人の写真、好きだったの。」 とはきはき答えた。そんな彼女はいつもよりずっと快活で、新しい人のようだった。 その少し上向きの鼻にひっかかるメガネも可愛かった。昔の、ただはつらっとしてい ア た、それこそが自分だと信じていた頃の彼女がどんなだったか、よくわかる気がした。 チ ビルのワンフロアーを借り切ったその会場は、かなり混んでいたがひんやりとして サいて静かだった。いろいろなスポーツの、あらゆる場面をとらえたカラー写真がたく さん展示されていた。智明には写真のことはよくわからなかったが、その一枚をとら えるためにどれだけたくさんシャッターが切られたかはわかった。どれも力の人った い写真だった。髞は、もっと熱心だった。会場に入ったとたん、びとことも口をき かず、遠くから見つめたり、近くに寄ったり、解説をじっくり読んだりして、前かが みでていねいに一枚ずつ見た。泣いている時と同じくらい熱心なのでおかしかった。 出口の所で署名していたら、男が声をかけた。 かわい
「だって、本当に遠い昔のことなの。」聲は言った。影になった横顔が少し悲しそう だった。「もう、あんな体力ないわ。」 「そんなにきついもんなのかい。」 てくてくと歩いてゆきながら、栄光の昔話を聞いた。 「そう、あのね、結婚前になにかこれ、っていうものに集中したかったの。ちょうど そういう時のお話でね、私、自分ではスポ 1 ツやらないからあんまりわからなかった んだけど、ルールとかね、チームの人たちの性格とかがわかればわかるほど面白いの チ クよ。高校の女子バレー部の合宿に同行したりもしたしね。みんなと友達になって、決 いろんなことがあったの。ああ、懐か / 勝で負けたら一緒に泣いちゃったりとかね : かしいな。」優しい目で智明の持っダンポールを見て髞は続けた。「冬なんて、大変なの 、つ よ、寒いの ! それで、雨が降ったりするの。でも、カメラから目が離せないのよ。 自分にもカメラにもビニールかぶせて、なにもかもどうでもよくなっちゃうの。なに もかも冷たくかじかんで、どこでなにしてるのかわからなくなってしまうの。後で熱 いシャワー浴びても、しはらく歯がカチカチ言うのが止まらないのよね。そういうこ とがみんな、笑っちゃうほど楽しくて。」 身ぶり手ぶりを混じえてそう語った。 140
163 の友子だろうか。後者ならいいと智明は思った。友子自身がいちばん好きな頃の友子 が、智明を求めていたのなら全てが明るい。そんな気がした。そうでないならそれは ものすごくつらいことだった。夫にかくれてつきあいはじめてから、アルバムから写 真をはがして集めていたとしたら。でも多分、後者だろう。彼女はそういう人だった。 「だいたい、そんな努力ができるんだったら、智明くんに相談なんてしてない。」 「じゃ、どうするんだ。」 「そっと、とっておくの。とっておきにしてたまに電話して、『元気 ? 』って言って ア 、お茶を飲んで、にこにこ笑ってばいばいってして、家に帰るだけ。智明くんは私にと チ って、ずっとそういう人だったのよ。プールの頃からずっと。」 サ友子は言った。 君が結婚をはやまったんだ、それが間違ってたんだよ、と思ったが言わなかった。 その時は、取り返しのつくことだと思い込んでいたのだ。自分ならなんとかできるだ ろ、つし J 。 : あの、どこまでも抜けてゆく空の色の青。冷々と足元のじゃり道に舞い降りて くる落葉のかたち。深まりゆく秋の中でもうすでに、友子は死にはじめていた。友子 の心にはもう誰のどんな言葉もちゃんと届かず、友子しかいなかった。それがわかっ
きました』みたいな感じ、適当だけどな。本当はもっと細かくて、泣かせるんだ。」 「うん。」 私はうなずいた。嵐は続けた。 「それでその百匹が森に向かう描写がえんえん、また続くわけさ。それでみんな暗い 湖のほとりに置いていくの。顔を合わせちゃう奴とか、森の悪者が来てるのを物陰か ら見て感動する奴とか、いろいろあって、翌朝わにがたくさんのお金を見つけて感激 するんだ。しかもお金がバラバラで、お札もあれば、小銭もあるでしよ、だから『こ れは森のみんながくれた』って涙しながら妻に打ち明けるの、お金を見せてね。それ たでその日、わにの奥さんが森のみんなにお花を配って歩くんだよ。そういう話だっ 、、 0 「いいお話ね。」私は言った。なんだか涙がこばれそうな気持ちになった。彼の生い たちが、そういう夢を見させるとしたなら、私は彼の心がけがとても愛しかった。だ から、そんな物語を心に抱えていた幼い嵐があの時、やつばり家に引き取られてきて、 ずっと一緒にいてあげられたらよかったのにと思った。 「だろう ? なあ、 いいお話だよな ! 」 大きく瞳を見開いて、大きな声で言いながら彼は私を見た。 やっ
Ⅷもすごくいやあな感じでね、反発をおばえて、すっかり哲学のようにこの子には泣く ことだけはおしませなかったの。泣きたい時はいくらでもお泣きなさい、それはいい ことよ、そのかわり泣くのも泣きやむ時もひとりよって言ってね。」ゆっくりとお茶 を飲みながら彼女の母親は笑った。「だからってねえ、こんなふうにまで正直にその とおり育っちゃうなんてねえ。」 「失礼ね、そんなのってずるいわ。高校の頃とかに比、へたら大人になったのよ。」 ア 聲も笑った。 チ さっきから智明はもうびとつひっかかりを感じていた。こんなこ中ゞ、、 ~ イカのになせ / この人は実家に戻らず、びとり暮らしをしているのだろうか。 た しかし、なんとなく聞いてはいけない気がして、ロに出さなかった。これもカンだ た つ、 ) 0 「それにあんたまた少し太って : さっき道で会った時は別人かと思ったわよ。少 し、おやせなさい。」 「あら、太ったって、二、三キロよ。」 、、ナど、あんたはただでさえお父さんに似て太りやす 「高校くらいの頃に比、へたらし ~ いんだから。」
153 母の前で平凡な娘に戻った彼女に失望したさっきの自分が恥ずかしかった。その平 凡さを、あの笑いころげていた母娘は死にもの狂いで取り戻したのだ。智明は今日一 日に新しく知ったたくさんの過去の、あらゆる瞬間の彼女に、息が詰まるほどの尊敬 をおばえた。 「よく、がんばったね。」 その時、自分の口から飛び出したその子供じみた言葉に智明はびつくりしたが、そ ほほえ れよりも、ほめられた子供のように照れて微笑み返した馨の笑顔がやり切れなかった。 ア 、なんでこんなに普通の人の上に、そんなことが起こるはずがあるのか。この人が、急 クにひとりきりになってしまうなんてことが。しかし、世の中とか運命は情け容赦なく、 サ人生はなんてバカなものなんだ。結局、なにがあってもこの人のように自分でやって いくしかないんだ、誰もほめてくれなくても、こんなふうに笑って。 ゅうやみ タ闇は次第に濃くあたりに満ち、そんなことを思いながら馨の笑顔を見ていたら涙 が出てしまった。あわてて顔をそむけて手のびらでかくしたが聲が気づかないわけが なかった。みるみるうちに暗い顔になり、 「泣かないでー。」 といった聲のほうが両手で顔を覆って、おおっぴらに泣きじゃくり出した。
方をしていた。足元の落葉を靴の先でがさがさかきわけて遊びながら、長いまっげで 遠くの青空やビルを見ていた。 「何日も、続けて家に帰ってこないの。初めのうちは残業かな、と思って会社に電話 をすると、もう退社しました。ってね。今はそんなことしないけど、あの、受話器を 置いた瞬間のがつくりくる感じ、忘れられない。たまに帰ってくると、着替えを取り に来ていたりするのよ。あ、久しぶりってあいさっしたりするんだけど、なによりも いやなのは、そういう異常な情況に慣れてしまった自分の心なの。女の人から電話が ア かかってきても、あ、そうかと思って普通に取りついでしまうの。そして、びそひそ チ 声のやりとりを、 > を観ながら普通に納得できてしまう。」 サ「そう言っている君も、冷え切ってるじゃないか。夫を愛していたらこんな所で俺と 会ってないよ、今頃。」 智明は言った。その言葉ではうまく表現できなかったと思う。彼女にはスキがあっ た。夫と続けるにしても、智明に熱中しているにしてもその決定権が本人になかった。 あるのは、ただ磁石が必ず北を指すように、今から抜け出すというふわふわした勢い だけで、本人がそれに振り回されているという感じだった。しかし、そんなことはど 旧うでもよく、智明はその時、ただ友子を好きだった。話し方や、本人が振り回されて
103 て銀のスプーンでくるくるかき混ぜる。目に映る全ての影が、乾いた光の黄に照らさ れて淡く映っていた。 「でもね、たとえ泣いていても、部屋にいるより海にいる時がいちばん安心なのよ。」 彼女は言った。「ずっと、できれば部屋に戻りたくなくて、毎日やっとの思いで立ち 上がるのに、今日はすんなり戻るきっかけができてよかった。」 「泣いたまま寝たり起きたりするのがこわいんだろ。」 智明はコーヒーを飲みながら適当に言った。眠気がぼんやりと膜のように心を覆っ ア ていた。 チ ク「そう、眠ったり起きたりする、私にとって大切な日常のことが、みんなひどいまま : あなた、ど サごっちゃになってなにがなんだかわからなくなるのが恐ろしいのよ。 うしてそんなこと知ってるの ? あなた、誰 ? 」 「通りすがりのものだよ。」 あんまり本当にそうだったので、智明は言ってから笑ってしまった。ノ 彼女もお茶を 飲みながら微笑んだ。夜半の空気が部屋中に濃く満ちて、息をびそめていた。遠くを 渡ってゆく風の音がしきりに聞こえた。それも全て現実の落とす影のようなこの空門 の外にあった。