129 がじんとして泣きたくなるような明るくてきれいな場所があなたの中にあるのね。き っといっか、そこをわかち合える女の人とめぐり合うのね。」 言っていることが、変だった。態度も変だった。 「なに言ってんだ友子、おまえ自分の立場というものをわかってないな。」 友子から離れて智明が言うと、 「高校の頃に戻りたい。」 と友子はぼんやりした瞳で言った。 ア 、その夜の、友子の顔が思い出せない。不思議なことだった。他のことは皆、克明に チ ク思い出せる。 雪がどんどん降り積もり、時おり屋根からどさっと落ちる音、しんと防音された白 サ 、、ツドで眠ったはずな い闇の景色、ストープをつけっ放しにした暗い部屋で、ひとっへ のに、雪明かりとストープの赤にばんやり照らし出された白い額も、ひそめた眉も、 肩のつけねのところにあるほくろも、その、妙に集中しておだやかなセックスも、ス ッパをはいて立ち上がる白い足首もみんなはっきりしていたのに、表情が思い出せ な。印象だけだった。 昔、子供の頃母親が言った。 まゆ
150 とちょっと目を細めた彼女の、汗ですっかりセットがくずれた前髪が、子供のよう にさらさらそろって額をかくしていた。 「馨さん、弟さんか妹さんがいるのかい。」 思い切って智明はたずねてしまった。 「どうして ? 」 にわかに驚きの表情を浮か。へて聲は智明を見上げた。 ア 「いや、子供のものがあったから。」 チ クそれは死別の手ごたえで、やつばりまずかったんだなと思いながらしぶしぶ智明は / そう答えた。聲は言った。 た 「私の子なの。」 た 「え ? 」 と言ったまま、智明は思わず立ち止まってしまった。 「死んじゃったけど。」 一緒になって立ち止まり、うっすら微笑んで聲は言った。 「うそだろ ? 」 「ほんとよう。」
106 「智明、疲れてるんじゃないの ? 」 母親がふいに言った。 「そんなことないよ、よく寝てるし。」 智明は五目ごはんをもりもり食。へながらそう答えた。母親の目はいつも鋭いものだ。 チ ク「ちゃんと食。へてるの ? 」 サ 「うん、料理は好きなんだ。」 でひとり暮らしをしていた。姉夫婦が実家 智明は一年くらい前から近所のア。ハート に越してきて、今まで智明のいた二階に住むというので追い出されたのだ。アパ とはいえ結構広く、キッチンもバスもついているのでなにも不自由していなかったが、 たまに実家に顔を出さないと母親がうるさく電話をかけてくるので、授業の帰りに寄 ったのだ。 「きっと栄養が片寄ってるのよ、あんた、これも食。へなさい。」 と言って母親はほうれん草のおひたしをテー。フルに出した。 かんべき 完璧だった。こわせなかった。
はずむような聲の笑顔に比。へると、彼女の母親は元気がなく、うつむき加減で、打 ちびしがれているようにさえ見えた。それでも聲がそばに行くとにつこりと明るく ほほえ 微笑んだ。笑顔がよく似ていた。 「なあに、若いお供を連れて。」 と母親が言うと、遠慮がちに自己紹介をしようと口を開きかけた智明をふくよかな 手のひらで押し出した聲が、 ア 「この人は、友達の時田智明くん。」 チ と言ってしまった。強い陽ざしの中に突然おどり出たような気分でダンポールをよ サ いしよ、と降ろして仕方なく智明は堂々と、 た 「初めまして。」 とおじぎをした。 「うちの娘が引っぱり回してるんでしよう、 すいませんねえ。」 と言って彼女の母親はくすくす笑った。娘に対する素直な愛情がにじむような言い 方だったのでほっとした。 「馨、うちに寄っておいきなさいよ。智明さんは汗だくじゃないの。その荷物を少し 置いて、休んでいってもらったら。」 142
138 うたかた / サンクチュアリ 「すごいな。」 智明は次々に雑誌を手に取ってみた。その曖味な照明の下でも、彼女の写真ははっ きりと押してくるようだった。写真に添えられた文章も男性的な、クールな視点から その試合を切り取っていた。バレーポールの時も、ラグビーのも、きちんとルールを たいこの人にはいくつの面があるのだろうか、と 勉強してから行ったのだろう。 智明は感動をおばえた。 「浜野さん。」 ふい娯びつくりした声で高野が言った。智明が雑誌から顔を上げると、開いたペ ジをしつかりと胸に抱えたままで馨が真っ赤な顔で涙をぼろぼろこばしていた。 「本当に、これ持って帰っていいですか。」 とまっすぐに高野を見上げて馨は言った。 「もちろんです。」 静かな声で高野が言った。 「懐かしくて。」 手の甲で涙をぬぐいながら、馨は言った。高野も智明も、しんとしてしまいオオ うなすいた。 あいまい
128 うたかた / サンクチュアリ 。、ジャマの上に、ジャージ素材のスカートをはいただけで、足ははだしだっこ。べッ ドから飛び起きて、思い詰めてタクシーで来たのだろう。夫の戻って来ないべッドで、 だんだん雪に閉ざされてゆく家の中でびとり、ランプの明かりの中でどんどん思考に 追い詰められてゆく彼女の夜中を考えた。 光景は胸にせまり、本当にぞっとするほど哀れだった。華やかだったはずの彼女の 人生や彼女の肉体の全てが、行き場をなくしつつあった。智明は彼女の小さな頭を抱 「今いっぺんに考えても仕方ないよ。時期を見よう。俺は別に逃げやしないから。」 と少し適当に、しかし本気で、ばかなオルゴールのようにくり返した。友子は間近 ほほ - ん で智明を見上げ、ふふふ、と透明な涙を浮か。へたまま微笑んだ。 「いいなあ、智明くんは。最強の友人ね。私がどうしたらしつかりするか、ちゃんと わかってくれてるのね。そういうのって少し冷たいけど、本当に頼りになって、安心 できるわ。私、智明くんのそんなところ、昔から知ってた。きっと、智明くんの中に とても清らかな場所があるんだわ。今、 は、誰も知らない、誰も犯すことのできない、 タクシーの中で雪景色を見てて、本当にそう思ったのよね。すごいのよ。今、真っ白 い雪がどんどん街を覆ってゆくところなの。あんなふうに落ち着いて、白くて、誰も おお
情をした。まさに幽霊を見たというような表情だった。 「なにか ? 」 と智明が言うと、 と言って彼はすわった。四十代前半くらいだろうか、骨ばってがっちりして、妙に 老け込んだ、おとなしい感じの男だった。グレーのスーツを着ていた。どう考えても ア 知りもしない男だったが、 彼は映画の合間にちらり、ちらりと智明を見た。ホモだろ チ 冖うかと気味悪くなり、映画が終わ「たら素早く席を立っぞと思。ているうちに筋にひ サ き込まれてしまった。字幕が終わり、ばっと明かりがついた時、彼は言った。 た 「智明くんじゃないですか。」 た 「はい、そうです。」 とっさ 咄嗟のことにとりあえずそう答えてはみたが、やはり見知らぬ人だった。だいたい なぜ姓をすっとばして名を呼ぶのか。そこがこわかった。けげんな顔でじろじろ見つ める智明に向かって、彼はどういったものか、という感じで苦笑してから、こう告げ 「私は大友と言います。中野友子の夫だったものですよ。」 156
うたかた / サンクチュアリ 154 びつくりして、智明の涙はあっという間に引っ込んでしまった。そうやって泣きに 泣く聲の肩の線は、初めて馨に会った夜、闇に溶けそうだった時を思い出させた。今 すぐに波音もよみがえってくるようだった。人目がじろじろかすめてゆくその雑踏で 智明は、俺も泣いた、と思った。不思議だった。あんなにむつかしかったことが、こ こでは簡単だった。 聲はなかなか泣き止まなかったが、人前でも、外でも、相手が女でも少しも不快で はなかった。聲の涙はただびたむきに泣く心だった。誰かになんとかしてという不純 物がない、 まっさらの泣き方だったので、肩も抱かずに待っていてよかった。・ず んしてからやっと彼女は顔を上げ、真っ赤な目で鼻をすすりながら、 「今日はいっぺんにいろんなことがあったね。」 と言って笑った。 「うん、やたら長い一日だったね。」智明は言った。「実家でめしでも食って、ゆっく ふろ りしなよ。あのバックナン、、 ーでも見て、風呂に入って、ゆっくり寝な。」 「またね、また必ずね。」 馨は智明に徴笑みかけた。 なにかが、確実に変わりはじめていた。よどんでいた空気が流れた。流れる瞬間ま
125 本当に、永遠のように長くて寒い冬だった。いやなことはなにもかもその冬のうち にびとかたまりにイメージされた。悲しいことも、淋しいことも全て。そして気が変 になるほど懐かしいことも。 友子に最後に会ったのは大雪の晩だった。突然、夜中の三時に彼女が部屋を訪ねて きたのだ。ああいうのも虫の知らせと呼ぶのだろうか、ちょうど、絶望的に散らかっ ていた部屋を大そうじしている最中だった。 ふろ ドアチャイムが鳴り、なにごとだ ? と時計を見た時、ちょうど風呂を洗っていた。 ア 、ドアを開けると真っ赤に泣きはらした目で、深刻そうな友子が立っていた。溶けかけ チ クた雪が髪をきらきら濡らし、しずくが紺の厚いコートの肩にぼたぼた落ちていた。 サ 「なにごとだ ? 」 智明は言った。 「泊めて。」 友子は言った。また夫は外泊なんだなと智明は田 5 い、 タオルを投げた。彼女の夫に はずっと新しい恋人がいて、友子が智明とっきあいはじめてから、外泊が多くなった らしかった。どうせお互いうすうすわかっているなら同じ夜に外泊すりやい、 と智明は冗談で前に言ったが、こわれかけた男女はそんなふうにタイミングがずれて すべ
163 の友子だろうか。後者ならいいと智明は思った。友子自身がいちばん好きな頃の友子 が、智明を求めていたのなら全てが明るい。そんな気がした。そうでないならそれは ものすごくつらいことだった。夫にかくれてつきあいはじめてから、アルバムから写 真をはがして集めていたとしたら。でも多分、後者だろう。彼女はそういう人だった。 「だいたい、そんな努力ができるんだったら、智明くんに相談なんてしてない。」 「じゃ、どうするんだ。」 「そっと、とっておくの。とっておきにしてたまに電話して、『元気 ? 』って言って ア 、お茶を飲んで、にこにこ笑ってばいばいってして、家に帰るだけ。智明くんは私にと チ って、ずっとそういう人だったのよ。プールの頃からずっと。」 サ友子は言った。 君が結婚をはやまったんだ、それが間違ってたんだよ、と思ったが言わなかった。 その時は、取り返しのつくことだと思い込んでいたのだ。自分ならなんとかできるだ ろ、つし J 。 : あの、どこまでも抜けてゆく空の色の青。冷々と足元のじゃり道に舞い降りて くる落葉のかたち。深まりゆく秋の中でもうすでに、友子は死にはじめていた。友子 の心にはもう誰のどんな言葉もちゃんと届かず、友子しかいなかった。それがわかっ