「浜野さんじゃないですか。」 振り向くと、三十代前半くらいの、がっちりしてひげを生やした男が立っていた。 「お久しぶりです、高野さん。」 と言った。これらの写真を撮ったカメラマンの名だった。言われてみると、 もカメラマンという感じのいでたちだった。 「御主人、残念でした。話、聞きました。今日は ? 」 、「あ、この、お友達の時田智明くんに誘われて、高野さんの写真を見に来ました。智 チ ク明くん、こちらは『ウイナーズ』のカメラマ、ンの高野さんです。ここにある写真を撮 った人よ。」 た よく知っているスポーツ雑誌の名だった。聲とのつながりがよくつかめないまま、 た 、つ 「初めまして。」とあいさつをした。彼は感じの良い笑顔で答えてから、聲を見て言っ 「浜野さんはやはり、こういう写真が懐かしいですか。」 「ええ。」 少しメガネがずり落ちたまま、馨はにつこりした。 「 : : : あのですね、少し先のビルにうちの編集部があります。よろしければ、ヾッ 134 なっ ク
野は小さなダンボール箱を持ってきてどすん、と床に置いた。 「さあ、好きなだけ持ってって下さい。」 彼は笑った。箱を開けると古い雑誌がぎっしり人っていた。薄暗い蛍光灯の明かり の下で、智明も″浜野鉄男。の写真を見た。 「これが、この人のデビュー作だよ。」 ジには、「人選」と書いてある、剣道の写真があ と高野が開いて見せてくれたペー った。試合中ではなく、庭先かどこかで素振りをしている彼女の夫の写真だった。東 ア い写真だった。 、京都、浜野聲、二十一歳、と下に書いてあった。不思議と強い、 ク「これが女の子だっていうんで編集部はびつくりしたんだ。それで電話して今まで撮 った写真を見せてもらったら、みんなだんなさん : : : ってもその頃はまだ交際中だっ サ いから本に載せようって言ったら、この たけど、彼を写したものばかりで、すごく、 人が、できれば他のスポーツを撮りたい、名前も変えて発表するって言うんだ。 しろうと とにかく写真がね、あくまで素人のうまさだけど、うまいし、独特の視点なんだよね。 まっすぐ、っていうか集中しきってるっていうのかな。ただものじゃないっていうこ とで、いろんなスポーツの試合に同行してもらって、写真撮ってもらって、見開きで ワクを持ってもらったんだよ。結婚するまで、一年くらいね。」
136 「この人は結婚する前、ちょっとした有名カメラマンだったんだよ。知ってたか 「知りませんでした。」 智明はびつくりして言った。確かにうまい写真だったが、この前。ハネルを見た時、 そんなことはひとことも言っていなかったのだ。 「だって、昔のことですから。」 ア 少し恥ずかしそうに聲は言った。 チ 「男まさりのきびしい写真をさ、すごく大きなカメラでばしばし撮るんだ。読者は誰 / も女性だって思わなかったんじゃないかな。ぶつ。」高野は吹き出した。「なんていっ た てもペンネームが浜野、鉄男だもんな。」 智明も思わず吹き出してしまった。 馨は真っ赤になって、 「だって、強そうな感じがしていいでしよ。女性カメラマンだって、思われたくなか ったの。」 と弁解した。 しんと静まり返った地下の一室のカギを開け、ずらりと並ぶ棚の奥のほうから、高
105 智明は一一 = ロった。 「ええ、 << 区。」 「俺も。」 「うそでしょ ? 」 「本当だってば。」 「じゃあ、また会うかもね。私は、浜野聲といいます」 彼女は言った。 ア 智明は自分の名を名のり、しかしもう会うこともないだろうと思った。 チ 会えばこの夜の心地良い、奇妙な感じが消えてしまう。 サ彼女もそう思ったのだろう、それ以上の約束をせず、ただあまり話もせず、静かに お茶を飲んで別れた。 笑顔で手を振り、エレベーターに消えてゆく後ろ姿を見た時、智明は部屋に誘おう か、と迷った。誘えば必ず来ると思った。 しかしこわくてびるんでしまった。行きずりの関係が、ではなくて後ろ姿の彼女に はある種の異様な凄味があり、海にいる美しい魔物を思わせたのだ。 そしてその、一瞬のこわさをやはり貴重に思ったのだ。 すごみ
141 サンクチュアリ 「もう、撮んないの ? 」 智明は言った。彼女の写真は、才能というほどのものではなかったかもしれないが そこがまたよく、彼女と同じくらい魅力的だった。 「 : : : そうね。なんだか本当に懐かしくなってきちゃった。淋しいことを思い出さな くなったら、いっか、また浜野鉄男を取り戻したいな。やつばり、スポーツを撮りた いな。」 馨は夢のように楽しそうに言った。 「俺が剣道してるところ撮ってよ。」 「いいわよ、うん、きっと : と言いかけた髞は、歩道のちょっと先を見て言葉を止めた。遠くの車の音に混じっ て、どこかでセミの声がした。前から歩いてくるやせた中年の女性をきよとんと見つ めて、馨は言った。 「お母さん。」 げげ、と智明は思った。未亡人がこんな真昼に若い男と歩いているのは感じ悪くな いだろうか。という心配をよそに、彼女は無邪気に母親に駆け寄っていった。 「うわあ、ぐうぜん。買物なの ? 」
138 うたかた / サンクチュアリ 「すごいな。」 智明は次々に雑誌を手に取ってみた。その曖味な照明の下でも、彼女の写真ははっ きりと押してくるようだった。写真に添えられた文章も男性的な、クールな視点から その試合を切り取っていた。バレーポールの時も、ラグビーのも、きちんとルールを たいこの人にはいくつの面があるのだろうか、と 勉強してから行ったのだろう。 智明は感動をおばえた。 「浜野さん。」 ふい娯びつくりした声で高野が言った。智明が雑誌から顔を上げると、開いたペ ジをしつかりと胸に抱えたままで馨が真っ赤な顔で涙をぼろぼろこばしていた。 「本当に、これ持って帰っていいですか。」 とまっすぐに高野を見上げて馨は言った。 「もちろんです。」 静かな声で高野が言った。 「懐かしくて。」 手の甲で涙をぬぐいながら、馨は言った。高野も智明も、しんとしてしまいオオ うなすいた。 あいまい
135 ナンバーをお持ちになりませんか。先日、倉庫のほうを整理していたら、浜野さんの がたくさん出てきまして、おつらくなるようなら、と連絡しなかったのですが、とに かく処分せずにとっておいたんです。」高野がそう一言うと、馨はみるみるうちにはっ と華やいだ表情になって、 「ええ、ぜひ ! 」 と言った。胸の前で固く手を握り合わせていた。「ああ、嬉しい。私、パネル以外 のものはネガから全部捨ててしまったんです。見るのがつらい時に、思わず。最近そ ア たくさんあります のことを、すごく後悔していたところだったんです。そんなに、 チ ク、かワ・」 サ「そうですね、一箱分くらいかな。」 高野が言った。それを聞いて馨が悲しそうにしたので、 「俺が運んでやるよ。」 と智明はすかさず言った。髞は本当に嬉しそうに「おねがい。」と言った。 「よし、決まった、行きましよう。」 と、高野が言い、ぞろぞろとそのビルへ向かって歩いた。 地下の倉庫へ降りて行く薄暗い階段の途中で高野は言った。
143 え、とことわるすきもなく、 「そ、つしましよ、つ、智明くん。」 と満面笑顔の髞が賛成した。妙なことになったと思いながらも、二人について歩い て行った。 馨の実家はそこからすぐ近くの路地裏にあった。大きな庭に確かに梅の木がある、 古い造りの家だった。二階に台所と、広々とぶち抜きになった板の間があり、そこで 冷たい ( 浜野家の秘伝なのだろう ) 梅ジュースをごくごく飲んだ。いっかこの人たち ア 、と全然会わなくなっても、この甘い梅ジュースのことは絶対忘れられないだろうなと チ ク智明は田 5 った。 サ クーラーもないのに、青々とした涼しい風が通って気持ちが良かった。全てがよく 使い込まれた居心地のいい家だった。適当にごちやごちゃしていて、なにもかもが使 いやすく配置されていて、落ち着きがあった。家具もみな古くどっしりしたものばか りで、木目がつやつやとみがき込まれて見えた。台所のカウンターの向こうで馨が母 親と夢中で話し込んでいる間にずっとその見飽きない室内を見回していた智明は、な にかしつくりこないものを感じた。さりげなくまぎれているもの。すぐにわかった。 べランダの手前で物置きと化したベビーベッドと、その足元にころがるタオル地の、
うたかた / サンクチュアリ 母に別れを告げて家を出た智明は、家のすぐ裏手の階段を降りて行った。その急な 階段は古くからあり、高台のそのあたりに住む人々は、うんと遠まわりして長い坂道 を下るか、その階段を降りないとにぎやかな界隈に出ることができない。足元ばかり 見ていないと落っこちてしまう、まるで絶壁のようにがくん、と見降ろす景色はジェ ットコースターを思わせた。赤茶けた手すり、ところどころ欠けて雑草の生えた石段。 足元ばかり見ていて、前から来た人に全然、気づかなかった。 「時田、智明さん ? 」 急に真下から呼びかけられて、はっと見ると見おぼえのある女性が満面にこにこし て見上げていた。思わぬ人物がそこにいこ。 「浜野髞さんか ? 」 びつくりして智明は言った。うっすら雲の浮かぶ青空の下で、彼女は笑って、 「散歩してたの。このへんに住んでるって知っていたから会えるかな、と思ってたら、 本当に会えちゃった。」 と言った。あの海での暗い面影はまるでなく、あれのほうが幻だったような明るさ だった。現実はいいな、と智明は思った。あのシー ンは心の中でストップしたまま永 遠に動かないが、登場人物は前よりずっと華やかにこうして明日にやってくる。ああ、
情をした。まさに幽霊を見たというような表情だった。 「なにか ? 」 と智明が言うと、 と言って彼はすわった。四十代前半くらいだろうか、骨ばってがっちりして、妙に 老け込んだ、おとなしい感じの男だった。グレーのスーツを着ていた。どう考えても ア 知りもしない男だったが、 彼は映画の合間にちらり、ちらりと智明を見た。ホモだろ チ 冖うかと気味悪くなり、映画が終わ「たら素早く席を立っぞと思。ているうちに筋にひ サ き込まれてしまった。字幕が終わり、ばっと明かりがついた時、彼は言った。 た 「智明くんじゃないですか。」 た 「はい、そうです。」 とっさ 咄嗟のことにとりあえずそう答えてはみたが、やはり見知らぬ人だった。だいたい なぜ姓をすっとばして名を呼ぶのか。そこがこわかった。けげんな顔でじろじろ見つ める智明に向かって、彼はどういったものか、という感じで苦笑してから、こう告げ 「私は大友と言います。中野友子の夫だったものですよ。」 156