175 智明は言った。、いから言った。 「あの時、結局つらくてすぐ帰ってきてしまったけれど、後になってよく、夜の海の こと考えたわ。私 : : : 。」うっとりと夢のように馨は言った。「夜の海があんなに果て しないものだなんて、知らなかった。闇の中で海を見ていると、不思議と幸福だった わ。 : : : 海からこっちへ帰ってくるまではそんなふうに感じなかったけれど、泣く度 に暗い海とあの波音を思い出すと安心したわ。夜の海があんなふうにはっきりと見え てくるまでひとりですわっていたことも、初めてだった。あんなに悲しい気持ちだっ ア たのに、波の寄せてくる重い水の感じゃ、砂浜のうっすら見える目の前の景色のこわ チ いくらいのきれいさを、ちゃんと見ていたの。」 サ馨は永久に話し続けそうだった。そして、永遠に話させてやりたいような気がした。 聞いていても仕方のないはずの他人の思い出話が、こんな夜の底ではびったりと心に 寄り添い、しみてくるのだ。夜中に近づいて、車はどんどんまばらになり、人通りも 減ってゆくアスファルトの歩道に、馨の声が響いていた。 「智明くん、疲れた ? 」 「いや、まさか。」 「日頃、きたえているものね。じゃ、やつばり家まで歩いて帰ろう ? 」
そんなある夜のことだ。 智明のいる小さなホテルの目の前は広い国道で、渡るとすぐそこに海が見えた。夜 の海は昼と迫力がまるつきり違う。ぼんやりと暗い浜から、波音が押してくるように やみ 巨大に響く。黒い島影が闇に浮かび、潮風は夜の香りを含んで吹き渡る。星がはるか にちかちかまたたく。そういうのを見ていると、、いはいつはいにふくらんだ帆のよう ア に落ち着かず、高い所へ駆けてゆけそうな感じを取り戻す。暗い海に沿って、どこま チ でも歩けそうになる。 うれ / それが、嬉しかったのだ。 た 智明は部屋の冷蔵庫から持ってきた缶ビールを飲みながら、乾いた堤防にもたれて 海のほうをなんとなく見ていた。すると、ふと女の泣き声が聞こえた。 ぞうっとした。 誰もいない暗闇の浜辺、振り向くと車もあまり通らない道にずらっとライトが浮か んでいるという状況である。空耳かと思った。しかし、波音にまぎれてそれはかすか に続いていた 智明は声のほうへ向かってぶらぶら歩きはじめた。するとやがて、浜へと降りてゆ
「そんなことないよ。散歩だってしてるし、だ、こ、、 まだ若いじゃないか。」 言ってはみたものの、とてもそんな言葉が相手の心に届くとは思えなかった。なに が、散歩だってしてるし、だ。そんなことは、きっとまわり中の誰もが言っただろう。 彼と彼女二人の間のことは、さかだちしたって二人にしかわからないのだ。自分と、 友子のことのように。だから、彼女は海であんなに泣いていたのに決まっているでは ア 「わたしも、そう思いたいわ。」 チ ていかん と言って、彼女は柔らかに徴笑んだ。諦観と生命の間で揺れる、彼女は時々、独特 ン / の雰囲気をかもしだした。するととたんに海でのことがよみがえってきた。うっとり くらやみ と死を夢見ているようでもあったし、暗闇の中で光を待っているようでもあった。そ ういう不思議な瞳をしていた。 「智明くんは、なにがあったの ? 」 彼女は言った。 「なにつて。」 「あの時、海で言ってたじゃない。自分にも悲しいことがあったって。」 「ああ、俺はね、つきあってた人が自殺してしまったんだよ。」智明は、初めて口外 122
176 智明の顔をのぞき込んで聲が言った。 「おお、今さらタクシーに乗るほどの距離じゃないからな。」 うれ 「うん。」聲は嬉しそうにうなずいて、続けた。「なんだか最近、楽しいね。なんとな く生きててよかった、っていう感じがする。」 「楽しいことなんか、まだいくらだってあるんだ。」 にこにこ笑いたいのか、さ 智明はたまらず言った。自分がわあわあ泣きたいのか、 つばりわからなくて表情が決まらなかった。ただ、月がビルの角の所で光っているの クをじっと見ていた。言葉は堂々と、そしてどんどん出てきた。 「祭りがもうすぐはじまるから、それに行こう。剣道の試合も見に来てよ。まだカメ ラなしでいいから。それから、そうだ、一緒にあの海に旅行しよう。夏の昼の海だ 0 てすごく、 しいかもしれないよ。今度こそちゃんと部屋に誘ってやるからさ、な ? 」 その言葉は、そしてそれから少し照れて瞳を細め、まぶしそうな顔でうん、と言っ た聲の赤いほほは、まるで闇夜のランプの明かりのようにほんのりと、はるかに未来 のほうまでを明るく照らしていた。
104 「死ぬつもりで海辺にいるわけじゃないんだろ ? 」 智明が言うと、彼女はにつこりうなずいて、 「ええ、ただ泣いてるだけ。泣きはじめると外に出たくなって海へ行っちゃうの。」 と言った。実にほんのりと安らかな笑顔だった。素顔に赤く映り、空気に溶けてゆ くようだ。ちょっと上向きの鼻が実にかわいかった。海で泣いていた時の激しさは消 ぎわ え失せて、さわさわと波打ち際に吸い込まれていく泡のような、やさしい瞳をしてい 、た。それでも強烈ななにか悲しいことに打ちひしがれた彼女の発散する、奇妙に明る チ 冖い光がこの妙な空間を作り出していた。彼女の表情に今、くり返しおとずれる、その、 サ 力のふっと抜けたような柔らかい笑顔は、さんざんな目にあってたどり着いた果ての た 疲れ果てた安らかさだった。 なぜこんなに彼女のことがよくわかるのだろう。なぜ同調したようにすんなりと目 に映るのだろう ? ライトに照らされた目の前の人のかたちが、旅先の遊離した魂に 拍車をかけるのだ。ここは彼岸だ、と智明は思った。打ち寄せられた材木のように、 ここに流れ着いてしまった。こんな、わけのわからないところに。淋しく淡く光ると ころに。 「東京から来た ? 」 さび ひとみ
105 智明は一一 = ロった。 「ええ、 << 区。」 「俺も。」 「うそでしょ ? 」 「本当だってば。」 「じゃあ、また会うかもね。私は、浜野聲といいます」 彼女は言った。 ア 智明は自分の名を名のり、しかしもう会うこともないだろうと思った。 チ 会えばこの夜の心地良い、奇妙な感じが消えてしまう。 サ彼女もそう思ったのだろう、それ以上の約束をせず、ただあまり話もせず、静かに お茶を飲んで別れた。 笑顔で手を振り、エレベーターに消えてゆく後ろ姿を見た時、智明は部屋に誘おう か、と迷った。誘えば必ず来ると思った。 しかしこわくてびるんでしまった。行きずりの関係が、ではなくて後ろ姿の彼女に はある種の異様な凄味があり、海にいる美しい魔物を思わせたのだ。 そしてその、一瞬のこわさをやはり貴重に思ったのだ。 すごみ
嵐とは一回キスしただけだ。 ここが日本だからまだよかったが、外国だったらそんなのほとんど友達以前の範 ちゅう た疇だ。そしてすぐに彼は遠い所に行ってしまった。だから、私にはまだこれが恋かど かうかも本当にはわからない。 さつばり、わかっていない。 それでも嵐を好きになってから私は、恋というものを桜や花火のようだと思わなく よっこ 0 たとえるならそれは、海の底だ。 白い砂地の潮の流れに揺られて、すわったまま私は澄んだ水に透けるはるかな空の 青に見とれている。そこではなにもかもが、悲しいくらい、等しい 目を閉じて走っても、全く違う所を目指したつもりでも、気持ちはいつの間にかく り返しそこへたどり着く。そこはいつもとても静かで、いつも彼の面影に満ちている ので、私は目を覚ますことなく、ずっと、そこでそのまま眠っていたくなる。 はん
まいってるらしいし、あの親父がそう言うくらいだから、相当なんだと思う。それで ・ : 俺が行って、人れ替わり も帰らないっていう決意だけはものすごいらしくてね。 に帰らせることにした。」 嵐は寝ころんだまま空を見つめて言った。 「嵐が行くの ? 」 その事実はいきなり私を不安の海へ押し出した。 「うん、俺が行って、二人の間に人って、親父の『心の一 = ロ葉』みたいなのをいちいち 翻訳してやれば、おまえのお母さんも少しは安心するんじゃないかな。親父はバカだ たから、心配して日本へ帰そうとして、ますます口が悪くなってるんだろうな。自分が 心配していることすら認めたくないのかもな。それが裏目に出てお母さんはますます 意地になってるんだよ、きっと。とにかく放っておいたら悪いことになるのは確実オ と言って嵐は横顔で少し笑った。 「お母さんも、意気込みがから回りしたのね。あの人は山の生活にむいてないもの。」 と言ってみてから私は気づいた。 「嵐、外国は日本じゃないのよ。」
157 「ああ、あなたが。」 と言ったきり黙ってしまうほかなかった。本当は今すぐ逃げ出したい気持ちだった。 「よろしかったら、お茶か食事でも。」 と大友は言った。 「お仕事中では ? 」 スーツ姿の大友を見て智明は言った。 「いや、今日はもう終わりなんです。よかったらちょっと一杯やりますか。一度、あ ア 、なたと話せたらと思っていたんです。」 チ 彼はもの静かに、しかしそのかすれた低い声でびとことひとことをはっきりと一言う サ人だった。なにもかもを知った上で言っているのだろう、と智明は直感した。仕方な と腹をくくって立ち上がった。 「そうですね、飲みに行きましよう。」 その、スーツ姿の中年と、たくましい学生という本物のホモのような取り合わせで マンと トの屋上の、ビャガーデンに行った。周囲は退社直後のサラリー 近所のデパ あお O の海だった。蒼く沈んでゆく街並に、笑い声が響く。金網の向こうに高層ビルが 並んでそびえ立ち、夜風が色とりどりのちょうちんを揺らした。
すか。」 その言い草がよかったらしい 彼女はそっと立ち上がり砂をはらい、猫のようにひっそりと階段を登ってきた。そ れで、妙なことになったと思いながらも、並んで歩きはじめた。夜景が美しかった。 湾をふちどる街明かりが、ちらちらと海に映っていた。 「いっから、 いたの ? 」 彼女は言った。太ってはいないが、ふくよかで白い。丸い顔に形の整った目鼻やく ア 「一ちびるがちょこんとついている。完全に歳上だった。二六、七くらいだろうか、と、 チ ク明かりの下を通る度に、ふいにきちんと姿を表すその全身を見て思った。 サ 「三日かな、ずいぶん前から見かけてた。うまく言えないんだけど、あんまりつらそ うなので、とにかくなんでも、 いから泣くのを中断したくなったんです。」 智明は言った。 うれ 「ええ、とにかく中断できて、嬉しいわ。」 彼女は泣きはらした目でちょっと笑ってそう言った。 「あなたも、きっとなにか悲しいことでもあるのね。」 101 「まあ、そんなところです。」 とし - っ - ん