ハカじゃないな、おまえ。」 父は言った。その、ゆっくりと大声で話す調子は相変わらずで、懐かしくさえ思え て、 「どうしようもないわね。」 と私は苦笑した。それでも父の手に抱えられた茶の紙袋の中には、母の大好物のい ちごがたくさん人っていて、父の一言葉やなりよりもたくさんのことを語っているよう たな気がした。 黙っている私を見て、 た「よし、助言をしてやろう。」 と父が言った。彼のパーカーのフード が風にはためいた。昔、幼い私に対する父の まゆ 助言はいつも下世話で下品なことばかりだったので私は眉をしかめて「なに。」と言 っこ 0 「幸せっていうのはな、死ぬまで走り続けることなんだぞ。」風の中で優しく目を細 めて父は言った。「それに家族はどこにいてもひとつだけど、人は死ぬまでひとりだ、 わかったか。」 「お父さん。」びつくりして私は言った。「言ってることにあんまり筋が通ってない なっ
「そんな大変なことするくらいなら引っ越すほうが早い。」 と言った。二人は意味もなく上機嫌だった。彼が育った家の中を嵐は案内してくれ た。私はあらためて父の人生を考えてしまった。父が私たちを巻き込んでいるのか、 私たちが父にひきつけられているのか。でも、あまりにもデータが足りなくて、よく わからなかった。ただ家の中のちょっとした所、たとえばとても大きな画面の > や、 きちんとハンガーにかかった大きなコートや、テープルに積まれた本や、そういうも のに父の影を感じた。それはものとしてではなく、確かに私の住むあの部屋にもある かように思えた。そして私は今までのように、父を単なる邪魔者としては見なくなって たいることを知った。 彼の部屋は二階のつきあたりで、扉がなかった。 嵐の部屋はまだ、ましだった。 - 「こわれちゃったからはずしちゃったんだよな。」と嵐は笑った。部屋の中には巨大 なオーディオセットと、がっちりした木の机と、たくさんの本があった。窓辺に固く て大きなべッドがあるのに、窓ガラスは古びてひびが人り、ゆがみで全部閉まらず少 し開いていた。雨とか人ってこないの ? とたずねたら、雨に降られて目覚める時が ある、冬なんか窓のさんとかべッ トの頭の所に雪が積もるぞ、と笑った。 野外生活のような人生だわ、と私は思った。こんなの住居じゃない。 すまい
私はびつくりした。急に心の中のことと現実のビントが合いはじめた気がした。 「再びお答えしよう。俺は、あいつの母親の真砂子とはやってない。いっぺんもだ。 手を握ったことすら、ない。それでガキができっこないだろう。あの女は色気違いだ ったから、嵐が誰の子供かなんて、きっと本人にもわからないんじゃないかな。俺の 所に捨てたのは俺に金があったことと、おまえの母親にあてつけたんだろう。あの女 たは俺と違って少しも優しいところのない奴だった。とにかく正直言って、美しかった かから、頼んだことはあった。酔ったはずみかなんかで。でも、結局、やらせてくれな たかった。だから、違う。気味は悪いが、おまえらができてしまってもいっこうにかま わんよ。」 父は語った。 「そんなに、いっぺんにあからさまに教えてくれなくても : : : 。」 と答えに困った私が言うと、 このガキ。」 「気どるんじゃない、 と父は笑った。私と父の間に、生まれて初めてある種の親密さが生まれたような気 がした。私が思っていたよりもずっと父は、まともではないか、と思って私は驚いた やっ
うたかた / サンクチュアリ と私は言った。 「うん、今からお母さんとデートだ。驚かせてやろうと思って黙って帰国してみた。」 父は無邪気な笑顔を見せた。 「お母さん死んじゃったら、どうするつもりだったのよ。」 笑いをこらえ切れずに私は言った。 「おまえの面倒くらい見てやるよ。」 父は言った。 「男に売って金をとったりしてさ。」 「違うの、私のことじゃないのよ。」 私は言った。 「ああ、あいつのことか。なに、女なんてまた、作ればいいんだよ、死んじまった ら。」父は笑った。「でも、あれほど根性ある女はもう見つからないだろうなあ。点滴 打ってるのに、日本に帰らないって言い張ってさ。大変だったぞ。あの、ロのうまい 嵐が来なんだら、ガンジス川に流しちゃうところだった。」 「それは、インドのお話でしよう。」 あきれた私は言った。
のだ。 ( まともでもなんでもないような気もするけれど ) 道徳的にはともかく、父の 哲学には筋があった。父はウソを言っていない、と私は確信した。 「お父さん。」私はたずねた。「お母さんにもそんな態度で接してるの ? 」 「あったりまえだ。じゃあな。」 勢いよく電話は切れた。 しばらくの間、私は奇妙な感情に満ちて、すわったまま、電話に手をかけたままで はんすう 「一今の会話の意味を反芻していた。 チ 父と初めてまともに会話した恐怖と、妙な喜びの気持ち。息が詰まるほどの緊張。 / ああ、私はまだ子供なんだ。なんだかんだいってまだこんなに幼い。そう思った。 た そして、案の定、知恵熱のような状態になってしまった母のこと。 た 私と、あの冴えた目をした青年が、まるで家族のようであっても兄妹ではないとい うこと。嵐も私を気にかけて、父に血のつながりを問い合わせていたこと。 混乱した気持ちがそんなふうにわかりはじめた時、特に最後のは私の心の中にふわ っと甘い気持ちを湧き上がらせた。不思議な解放感があった。母のいない、私ひとり の家はますます私の勝手気ままな世界になっていた。今は、私の背の高さに合わせて 低く口ープが張ってあり、現像した後の写真がずらりと万国旗のように止めてあった。
うたかた / サンクチュアリ はお父さんの子なの ? 本当のことを言って。お母さんには黙ってるから。」 私は言った。この質間ができたことで自分がこんなにほっとしたことに驚いたくら いだった。父は意地悪そうに、 「そんなことだと思ったんだよなあ、やつばり、おまえたち、会ったな。親の目を盗 んで。」 としみじみ言った。 「本当に、偶然だったのよ。」 まるでいいわけをしているようで、私は顔が赤くなった。 「全く、手の早い女だな、母親に言いつけてやるぞ。」 父の口調はまるで重々しく、嘆きのようだったので私は落胆して、 「よしてよ、具合が悪くなっちゃうわ。」 と言った。母が私と嵐を会わせないようにしていたことを聞いたばかりだったから 「ショック療法だ。」と父は笑った。「おまえたち全員、いったい俺をなんだと思って るんだ。これからはうそしかしゃべらないようにするぞ。あのな、そのお問い合わせ は嵐くん本人からもつい昨日きたんだよ。」
ものは私の中に全くなかった。それがネパールに限らないことに、私は気づいた。 私はずっと母と二人だったし、自分のことは自分でやってきたので、自分は歳より も大人びていると思い込んでいたし、まわりの人たちにもそう言われ続けてきた。で もその時、自分にとっては子供の頃からずっと、母が出かけていってしまう場所は霧 と知っ の中のままで、私には母のいる風景と、そしていない風景の二種類しかない、 たのだ。父の家だろうが、ネ。ハールだろうが、実感のなさは一緒だった。それはカギ たっ子の淋しい生活が産み出した「生活の知恵」だった。そのことにきちんと目を向け るとたったびとりの身よりである母が遠のいてしまう気がして淋しくなるから、父に たも、父の家にも、私たちの生活費を父が出していることからもすっかり目をそらし、 私は十九にもなって、 うただ家で母を待って生きてきてしまったのだ。この視野では くらやみ まだただのびとりばっちのカギっ子のままではないかーーびつくりした。暗闇の中で 窓がほんのちょっと開いて光が人ってきたような感じだった。ちょっとだけ高くから 見るとぐんと角度が変わって映る景色を見たようだった。突然にせまって見えてきた その人生の風景は私の今まで思っていたよりずっと生々しく、雑多で、こわかった。 でも目をそらしたくはなかった。それはなんとなく打ちひしがれるようないやな感じ ではあったが、 確かに「未来」に続く感じだった。
「ああ、あなたが ? 」 初対面でおまえ呼ばわりされても、大して腹も立たなかった。彼の正体を私は、聞 く前からよく知っていたような気さえした。全然、異和感がなかった。 「うん。」 にこにこして彼はうなずいた。細めた瞳が深く輝いていた。 「どうして、私を知っていたの。」 私はたずねた。 「家に、写真があるんだ。おまえのお母さんと、おまえの。写真のおまえは小学生く らいだったけど、全然変わってないんですぐにわかったよ。」 「うん、私、成長していないから。」 ハカみたいに私は笑ってそう答えた。なんて感じのいい人なんだろう、と私は思っ た。人によっては彼をひと目見て、その押してくるような率直なもの言いに不快を感 おおかみ じるかもしれなかった。しかし、私は″父に育てられた少年″に、サルや狼に育てら れたそれのような悪い先人観を持っていたので、全く、気にならず、なによりあの父 親に教育されたというのに、ちゃんと礼儀正しい彼を見て、父に対する見方さえも少 し変わりそうなくらいにびつくりしていた。
ア チ サ 父が、突然、ネパールへ行くことになった。ホテルを経営している友人の所へころ た がり込むとかで、いっ帰るかわからないのもいつものことであった。いつもと違うこ とがびとつあった。母が同行すると言い出したのだ。私は十九になり、大学に通って いて、ちょうど夏休みの終わり頃だった。 「だってお母さん、日本からろくに出たこともないのに ? 」 母の決心を聞いた時、私はびつくりして言った。あまり意外で、ほらかと思った。 「ええ、ちゃんとした観光用のホテルだっていうし、いざとなったら部屋から出なけ ればいいのよ。それより、人魚が心配よ。ひとりでしばらく、暮らせる ? 」 「うん。」 私はうなずいた。母も、それそうとうには間の抜けた、変な人だった。 その後、しばらくのごたごたを経て、結局嵐という名の男の子は父の家で育っこと になった。私は父の家には行かないので、きっと会うことはないだろう、と思った。 それでも幼い私の胸には、門にしがみついて泣く男の子が、その切ない気持ちが、そ の頃のことと一緒にくつきりと刻み込まれた。
「うふふ。」と笑って母は言った。「愛し合うお父さんとお母さんの想いをありったけ 込めて、私たちの娘が地上の万物に愛されるように、って、鳥も海も人も魚も名前に 人れちゃったの。そしてね、お母さんとしては、人魚には人魚姫のように、好きな人 のために命さえ投げてしまうような女性になってほしくってね。」 そういう、うそのような本当のようなことを真顔でうっとりと言うような母だった。 そんな時、母の表情は輝いていてとても美しかった。だから私は母のそういう話がと ても好きだった。 「そうだったの、すてきね。」と私は言った。 「お母さん、さっき元気なかった。」 「うん、お父さんがね。」 と、とたんに母はまた瞳を曇らせてしまった。またか、と私は思った。私は、私の 父であるという人物をものすごく嫌っていた。その気質を廿やかす財さえあれば、人 はいくらでも変わり者になれるらしい。父は、親の残した資産を食いつぶして、若い うちから好き放題に生きてきたという。彼は未婚で、定職がなく、となり町にある廃 屋のような家で暮らしていた。、 ずっと母は父の恋人で、結婚せずに私を産んだ。私と