私たち - みる会図書館


検索対象: うたかた
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1. うたかた

マンションの階段を駆け上がり、カギを取り出してがちゃがちゃ回して、私ははあ たはあ息をついて部屋へ駆け込んだ。 あん ツ。 ( をはいて台所に立っている母の姿が目に人った時、私は安 寝まきのままでスリ いつもきち た堵のあまり人さわがせな嵐のことをぶつ殺したくなった。しかし母は んと束ねている髪を肩にたらしたままなのでよく見えなかったのだけれど、なにひと つのっていないまな板を前にして、手首を見つめていた。右手には包丁を持っていた。 私は凍りついた。本当に、体中が、がちがちにこわばってゆくのがわかった。 「お母さん。」 私は声をかけた。 初めて私に気がついて、母はゆっくりこちらを見たがその表情はあとひと押し、と っ決意のような、迷いのようなものをみなぎらせていた。私は台所のテープルにゆ 私は家へ向かった。祈るような、どきどきした恐ろしい気持ちがす「かり私をとらえ て、私は息もろくにできないくらいはやっていた。窓の外をタ方のオレンジに満ちた 風景が雑然と流れてゆく。私は、お金を払った状態のままで財布を強く握りしめてい

2. うたかた

それから二人で、駅のそばにある立派な点心の店で、中華をたらふく食べた。外に 出ると夜道は雨上がりで黒く光っていたが、びかびか星が出ていた。私たちはすっか り、本当にすっかりうちとけていてなんとなく別れがたく、その後お茶を飲みに行っ 地下にあるその店はちょうど食後のお茶を楽しむ人々で混んでいて、私と嵐はカウ ンターにすわった。薄暗い店内は淡く流れる音楽とざわめきに満ちていた。私の横に 、ちょうど貝のシェードのランプがあり、手元を明るく照らしていた。お互いの今まで チ の暮らしぶりをおもしろおかしくずっと話していたら、なんだかものすごーく長い長 ン サ 一緒にいたような気がした。 た 「嵐はなんになりたいの ? お父さんみたいな、なんでもない人になるの ? 」 た 私は言った。 「おまえは ? 」 嵐は言った。 「私 ? 私は 私のなるようなものになるわ、きっと。」私は言った。なんだそり や、と嵐が言うので、私は考えた。「おめかけ以外のものならなんでもいいわ。お母 さんのことは大好きだけどね。」

3. うたかた

のだ。 ( まともでもなんでもないような気もするけれど ) 道徳的にはともかく、父の 哲学には筋があった。父はウソを言っていない、と私は確信した。 「お父さん。」私はたずねた。「お母さんにもそんな態度で接してるの ? 」 「あったりまえだ。じゃあな。」 勢いよく電話は切れた。 しばらくの間、私は奇妙な感情に満ちて、すわったまま、電話に手をかけたままで はんすう 「一今の会話の意味を反芻していた。 チ 父と初めてまともに会話した恐怖と、妙な喜びの気持ち。息が詰まるほどの緊張。 / ああ、私はまだ子供なんだ。なんだかんだいってまだこんなに幼い。そう思った。 た そして、案の定、知恵熱のような状態になってしまった母のこと。 た 私と、あの冴えた目をした青年が、まるで家族のようであっても兄妹ではないとい うこと。嵐も私を気にかけて、父に血のつながりを問い合わせていたこと。 混乱した気持ちがそんなふうにわかりはじめた時、特に最後のは私の心の中にふわ っと甘い気持ちを湧き上がらせた。不思議な解放感があった。母のいない、私ひとり の家はますます私の勝手気ままな世界になっていた。今は、私の背の高さに合わせて 低く口ープが張ってあり、現像した後の写真がずらりと万国旗のように止めてあった。

4. うたかた

「うふふ。」と笑って母は言った。「愛し合うお父さんとお母さんの想いをありったけ 込めて、私たちの娘が地上の万物に愛されるように、って、鳥も海も人も魚も名前に 人れちゃったの。そしてね、お母さんとしては、人魚には人魚姫のように、好きな人 のために命さえ投げてしまうような女性になってほしくってね。」 そういう、うそのような本当のようなことを真顔でうっとりと言うような母だった。 そんな時、母の表情は輝いていてとても美しかった。だから私は母のそういう話がと ても好きだった。 「そうだったの、すてきね。」と私は言った。 「お母さん、さっき元気なかった。」 「うん、お父さんがね。」 と、とたんに母はまた瞳を曇らせてしまった。またか、と私は思った。私は、私の 父であるという人物をものすごく嫌っていた。その気質を廿やかす財さえあれば、人 はいくらでも変わり者になれるらしい。父は、親の残した資産を食いつぶして、若い うちから好き放題に生きてきたという。彼は未婚で、定職がなく、となり町にある廃 屋のような家で暮らしていた。、 ずっと母は父の恋人で、結婚せずに私を産んだ。私と

5. うたかた

うたかた / サンクチュアリ 母の生活費は全て父から出ている。強いて言うなら母の立場はおめかけさんなのだろ うか。私は父と同居したことがない上、たまに会えばいつも、お酒も飲んでいないく せに酔っぱらったような大声で話す大男、という印象しかなく、子供心にはただとに かくこわいだけの人物だった。 「お父さんとなにかあったの ? 」 と私は眉をびそめて言った。 「そんな、いやな顔しないで。人魚ったら。本当にあの人が嫌いなのね。」 母はおかしそうにくすくす笑い、続けた。 「あのね、人魚。人魚にお兄さんができても、 母子二人で暮らしているから、母はなんでもかんでも私に話した。時々は、子供の 私に理解できないこともあった。だから私は、意味がわからなくても、色で母の言葉 うれ を感じ取った。明るい色、暗い色、嬉しさの色、悲しみの色、そういう風に、それが 子供なりの知恵だった。そしてその時の言葉は私の無垢な心の海に透明に響いた。し んと波紋が広がるような感じだった。 「弟じゃないの ? 」 と私はたずねた。私よりも後にできた赤ちゃんは弟だよねえ、と思った。 まゆ む

6. うたかた

うたかた / サンクチュアリ 嵐は落ち着いた調子で肯定した。 「どうして ? どうしてそんな気がするのよ。」 私は信じたくなかった。少し元気のない日本の秋の夕暮れに、ただの日常に、どう して異国のこの人はこんな大変なことを割り込ませようとするのか。 おまえ、 いから ! 」嵐はどなった。「確かめるだけでいいんだってば。早く びとりばっちになってしまうかもしれないんだよ ! 」 ただごとではない気分がずっしりと私にも伝わってきた。そして、そんな不確かな 予感さえ無視できずに私をなにがなんでも探し出す、そんな彼の心ばえがとにかく愛 , レ、つこ。 「わかったわ。また連絡する。」と私は言った。「ありがとう、嵐。」 「うん、じゃあ。」 嵐は言った。電話が切れた後、私はトイレのドアからおどり出てあわてて家に電話 をしたが二十回コールしても母は出なかった。にわかに不安がこみ上げてきて、私は 大あわてで席に戻り、伝票と荷物をつかんでレジへ走った。そういえば、と店の階段 を泣きそうな勢いで駆け上がりながらも私は思った。割れたものはみんな片づいてい たわ、店の人々はみんな私のことを奇人だと思ったわ、きっと。タクシーをつかまえ、

7. うたかた

うな気がした。写真のその人に、私の細いうでや長くてちぢれた髪の感じはほんの少 やみ しだけ似ているかもしれなかった。そういうことが少しずつ、 いつの間にかその闇に 届くことがあるとしたら、それはとても、 いことかもしれないと私は感じた。そう思 「私の髪の毛を百万回くらい触っても、 もいよ。本当よ。」 と私は言った。 「おまえ、なんだかわかんないけど、話が全然関係ないよ。」 チ と嵐は笑ったが、なにかが伝わったに違いなかった。ちょっと見つめ合ってから、 / どちらともなく近づいて、私たちは一回だけ軽いキスをした。ほんの短い た それでも今度は兄妹としてではなかった。 た 、つ 「続きは帰ってきてからな。」 と言って、嵐は笑い、私はうん、とうなずいた。 夕方、タクシーを呼んで私は湿った空気の中、多くなってしまった荷物を抱えて車 に乗り込み、住所を告げた。嵐にじゃあね、と笑ってドアが閉まり、車は走り出した。 濡れた車窓を振り向くと、門の所でセーター一枚の嵐がポケットに手を突っ込んで 立ちつくし、雨に打たれて見送っているのが見えた。私はその時、遠去かる車の中で

8. うたかた

私は言った。その意味は伝わらなかったとは思うけれど嵐は、 「会えてよかったね。」 と目を細めた。 「うん。」 私は言った。本当に会えてよかったとあらためて思い、涙が出た。嵐は黙って私の 肩を抱いたがそれは本当の兄妹としての感情に満ちた温かいしぐさだった。私は心か 、ら彼を兄だと思った。やっとめぐり合えた兄だと。 チ 店の中はまるで珊瑚礁の海のように明るく澄んで静かだった。私はしばらく嵐の肩 サ / にもたれて、棚に並ぶ缶詰めの色彩を見ていた。 た そして私は、父も、母も、嵐も、私も同じように業の深い、切ない人間だと思った。 た その時もそうだった。出会った時からずっと、二人はいつでも二人きりで満天の星 空の下にいるような気がした。暗く光るオーロラに照らされて、遠い氷河を見つめて いるようだった。毎日が普通に過ぎてゆくのとは全く違う所で、その感情はいつもあ った。二人でいると、なにもしていなくても、ただ歩いていることも極めて重要なシ ンなように思えた。そしていつもなんとなく悲しいような感じがした。 かけ値なしの、そんな感情を私は他人に対して初めて抱いた。なんのフィルターも、 さんごしよう ごう

9. うたかた

「ああ、あなたが ? 」 初対面でおまえ呼ばわりされても、大して腹も立たなかった。彼の正体を私は、聞 く前からよく知っていたような気さえした。全然、異和感がなかった。 「うん。」 にこにこして彼はうなずいた。細めた瞳が深く輝いていた。 「どうして、私を知っていたの。」 私はたずねた。 「家に、写真があるんだ。おまえのお母さんと、おまえの。写真のおまえは小学生く らいだったけど、全然変わってないんですぐにわかったよ。」 「うん、私、成長していないから。」 ハカみたいに私は笑ってそう答えた。なんて感じのいい人なんだろう、と私は思っ た。人によっては彼をひと目見て、その押してくるような率直なもの言いに不快を感 おおかみ じるかもしれなかった。しかし、私は″父に育てられた少年″に、サルや狼に育てら れたそれのような悪い先人観を持っていたので、全く、気にならず、なによりあの父 親に教育されたというのに、ちゃんと礼儀正しい彼を見て、父に対する見方さえも少 し変わりそうなくらいにびつくりしていた。

10. うたかた

うたかた / サンクチアリ でもそこだけは決してはき違えない。 私にとっては現実の嵐のほうがずっと大切だ。瞳を見開き、心に海を抱えたままで、 嵐と生きてゆこう。 私の名は、鳥海人魚という。 とりうみ、にんぎよと読むのだ。 私が初めて嵐の名前を耳にしたのは、母に私のこの、とんでもない名前の由来を聞 、いた時だった。 まだ小学校に上がったばかりの頃だ。 寒い寒い、真冬の夜更けだった。 おやすみを言いに行く時、母がストープの前でびざを抱えている後姿がなんとなく 、ヾファリンのコマ ーシャルみたい 暗い感じだったので「どうしたの ? ママ。」と ほほえ に、声をかけてみたのだ。母は振り向いて徴笑み、 「人魚、まだ起きてたの ? 」 と言った。いつもの母の笑顔だったので、私は安心した。 「ねえお母さん、どうして私、こういう名前なの ? 」 と私はたずねた。その頃は、できた友達に名を名のる度に、由来を聞かれていたの よふ ひとみ