のだ。 ( まともでもなんでもないような気もするけれど ) 道徳的にはともかく、父の 哲学には筋があった。父はウソを言っていない、と私は確信した。 「お父さん。」私はたずねた。「お母さんにもそんな態度で接してるの ? 」 「あったりまえだ。じゃあな。」 勢いよく電話は切れた。 しばらくの間、私は奇妙な感情に満ちて、すわったまま、電話に手をかけたままで はんすう 「一今の会話の意味を反芻していた。 チ 父と初めてまともに会話した恐怖と、妙な喜びの気持ち。息が詰まるほどの緊張。 / ああ、私はまだ子供なんだ。なんだかんだいってまだこんなに幼い。そう思った。 た そして、案の定、知恵熱のような状態になってしまった母のこと。 た 私と、あの冴えた目をした青年が、まるで家族のようであっても兄妹ではないとい うこと。嵐も私を気にかけて、父に血のつながりを問い合わせていたこと。 混乱した気持ちがそんなふうにわかりはじめた時、特に最後のは私の心の中にふわ っと甘い気持ちを湧き上がらせた。不思議な解放感があった。母のいない、私ひとり の家はますます私の勝手気ままな世界になっていた。今は、私の背の高さに合わせて 低く口ープが張ってあり、現像した後の写真がずらりと万国旗のように止めてあった。
そのくらいの会話でも、そう言って電話を切ったら私は、がつくりきてしまった。 なにもやる気が起こらなくなってしまった。 人を好きになることは本当にかなしい。かなしさのあまり、その他のいろんなかな さび いなくてももっと淋し しいことまで知ってしまう。果てがない。嵐がいても淋しい、 いっか別の恋をするかもしれないことも、ごはんを食。へるのも、散歩するのもみ うれ んなかなしい。 これを全部 " 嬉しい。に置き換えることができることも、ものすごい た まるでぬくもりが残っているかのような電話を見つめながら、私は思った。 そしてただうとうとと夢の中で眠っていればよかった嵐と出会う前の日々にたまら いい、なんにも傷つかない幸 たない郷愁を感じた。あの頃の私は本当になにもしなくて せな子供だったのだ。 その日、夕方の > を観ながら、ポンカレーを食。へて寝そ。へっていたら、ビンポー ン、とドアチャイムが鳴った。さゆりったらなんなの、あ、夕飯に呼んでくれるのか な、えへへ、と言いながら玄関に出ていったら、カギが勝手にガチャガチャ開いて、 「ただいま。」 と大荷物の母がやつれた顔をして人ってきたのだ。私はしばらく口もきけなかった。
実はとっくに乾いているのだが、 そのがさがさと落ち着かない感じがあまりにもかっ こ良いので放っておいたのだ。ライトがそれを照らしていくつもの淡い影を作り、こ ろがるポリタンクと、山のように買いあさった写真の本がじゅうたんの上に点在して はじまりの景色、その時の私にはなにもかもが妙にくつきりと明るく見えた。全て のことが、この手のひらで押せば大きく動くような、そんな気さえした。なにもかも、 たどんな細かいことも、 いっせいに未来に向かって開いているようだった。嵐に買って かもらったコスモスが、私の好きな背の高いガラスの花びんに柔らかに咲いていた。 私は、すぐに嵐に電話をかけた。 「おお、妹よ。」 もしもし人魚です、と言った私に、嵐は上機嫌でそう言った。 「本当に、そこに遊びに行っても、 私は言った。 「うん、いつでも、 いよ。明日だろうが、今日だろうが」 「うん、今日はもう夜になっちゃうから、明日学校の帰りに寄るわ。 私は、二人がずっと前からこんな会話をしていたように自然な感じで言った。 すべ
うたかた / サンクチュアリ り なものすごい音がした。 私はかがんだままで思わずウェイトレスと暗い笑顔を交わし、しかし心の内ではあ と思っていた。 あもうなにもかも面倒くさい、二度と立ち上がりたくない。 その時、突然名を呼ばれた。 「お客様に鳥海さんはいらっしゃいますか。」 受話器を手にしたウェイトレスが店の人口の所でそう言った。私はさっと立ち上が つかっかとそちらへ歩み寄り「私です。」と言って受話器を受け取った。 「もしもし ? 」 誰だろう、と私が出ると、 「人魚。」 と嵐の声がした。 「嵐 ? 」私は大声で言った。「どこなの ? 」 「国際電話だ。」 その後続けて嵐はなにか言ったのだが、電話がひどく遠く、その店のかすかな音楽 やざわめきにさえまぎれてしまった。私はえ ? え ? と言いながら近くにあったト イレのドアを開け、電話のコードを引っぱり込んでドアを閉めてしまった。ふいに訪
ようにも思えた。そのことは、ほんの ながっているのならばもう会わないほうがいい 小さなしこりではあったが、、いに小さくひっかかったまま残った。 ある日私は、しばらく連絡のない母がカトマンズでどうしているのか気になって電 一日をかけてみた。 着いた時と、その後一回、明るい声で近況と家のことを心配してかかってきたのだ 「一が、それつきりなので気になったのだ。なんとなくかけるとはいっても三分で何千円 チ 冖とか、そういうお値段なので、受話器を持つ手が緊張した。「国際電話のかけ方」を サ 片手にしているのも情けなかった。やっとホテルが出て、母の名を呼び出したのに、 電話に出たのは父だった。「もしもし。」と、どなるような低い声が聞こえた時、私は た ぎよっとして「え ? 」と言ってしまった。 「なんだって ? どこの店の人魚だって。」 父の巨大な声は距離を埋めた。すぐそこにいるように聞こえた。 「高いお金でかけてるんだから、そういうつまらない冗談言わないでよ。お母さん は ? 」 私の強い態度は緊張からだった。私は国際電話も、父と取りつぎより長く話したこ
113 もなんとなく、そういう景色を見ながら黙って歩いた。わけもわからずしんみりした。 駅の人口で友子は言った。 「また、電話しても、 ℃ワ・」 「おう、 いつでもしてきな。」 智明は言った。 彼女はびかっと音がするほど明るく笑い 「じゃ、またね ! 」 ア と言った。その時のことを思い返すと、今も胸がずきずきする。地下鉄の駅の明る チ い階段を降りながら浴衣のたもとをびらびらさせて振り向いた彼女や、手を振るしぐ サさを思うと、目の前が真っ暗になる。あの時、 。君は人妻なんだからさ。」 「いや、電話はよしたほうがい とか言えたらよかったのかもしれなかった。でもきっと今すぐ、そっくりあの場面 つでもしてきな。」と言うと思う。性格とは、運命とは、そう に戻っても「おう、 いうものだからだ。
ア チ ある日、剣道の練習の帰り、 O がスポーツ写真の展示会のチケットを配っていた。 サ すぐに浮かんだのは聲の顔だった。電話をかけてみたら、一も二もなくすぐ行く、と た 言うので駅で待ち合わせをした。電話から飛び出してきそうな勢いだったので、自分 うれ に会うのが嬉しいのかな、と思ったら違うのだ。彼女は、本当に写真が好きらしかっ 、、 0 待ち合わせ場所に走って来た聲は、赤いふちのメガネをかけていた。 「あれ、目、悪かったつけ。」 「出がけにあせってコンタクト失くしちゃって。」 132 そしてわかった。自分が実は友子を恨んでいるということ。あの夜彼女は自分の言 たいことだけ言い、田 5 い残すことなくこの世を去り、智明の心だけがあの夜の中に 置き去りにされたこと。誰にも理解されることなく、友子にすら届くことなかった叫 びがあるとい、つこと。 あの冬、馨もそういう日 場所にいたのだろうか。
おやし 「もしもし、今、親父になんか言った ? 」 「うん。嵐は、お母さんのこと言った ? 昨日、自殺を図ろうとしていたことを。」 自殺、と一言葉にするとずっしりきた。晴れた秋の陽光が、ガラスを透かして私のい る電話ポックスを照らしていた。空がはるかに青かった。 「やつばりそうだったか。電話してみてよかった。」嵐は言った。「今は、どうして る ? 」 ア 「うん、それがね、すごい勢いでおばあちゃんが飛んできちゃったものだから今は、 チ いしかりなべ ク和気あいあいなの。二人で石狩鍋作ってるわ。うん、お母さんはもうきっと大丈夫だ サ と思、つ。」 と思わないし、親父は親父の 「俺、親父に言ったよ。別に今さら真人間になればい、 た . し ままでいいんだけどさあ、人の命がかかわるような時は、まわりの者が言っても、 と思うんだ。俺たち、もう子供じゃないんだから。」 嵐は言った。 「うん、私もそう思った。」 私は言った。 「でも、とにかく無事でよかったな。それにこしたことはなにもないよ。」
うたかた / サンクチュアリ 嵐は落ち着いた調子で肯定した。 「どうして ? どうしてそんな気がするのよ。」 私は信じたくなかった。少し元気のない日本の秋の夕暮れに、ただの日常に、どう して異国のこの人はこんな大変なことを割り込ませようとするのか。 おまえ、 いから ! 」嵐はどなった。「確かめるだけでいいんだってば。早く びとりばっちになってしまうかもしれないんだよ ! 」 ただごとではない気分がずっしりと私にも伝わってきた。そして、そんな不確かな 予感さえ無視できずに私をなにがなんでも探し出す、そんな彼の心ばえがとにかく愛 , レ、つこ。 「わかったわ。また連絡する。」と私は言った。「ありがとう、嵐。」 「うん、じゃあ。」 嵐は言った。電話が切れた後、私はトイレのドアからおどり出てあわてて家に電話 をしたが二十回コールしても母は出なかった。にわかに不安がこみ上げてきて、私は 大あわてで席に戻り、伝票と荷物をつかんでレジへ走った。そういえば、と店の階段 を泣きそうな勢いで駆け上がりながらも私は思った。割れたものはみんな片づいてい たわ、店の人々はみんな私のことを奇人だと思ったわ、きっと。タクシーをつかまえ、
方をしていた。足元の落葉を靴の先でがさがさかきわけて遊びながら、長いまっげで 遠くの青空やビルを見ていた。 「何日も、続けて家に帰ってこないの。初めのうちは残業かな、と思って会社に電話 をすると、もう退社しました。ってね。今はそんなことしないけど、あの、受話器を 置いた瞬間のがつくりくる感じ、忘れられない。たまに帰ってくると、着替えを取り に来ていたりするのよ。あ、久しぶりってあいさっしたりするんだけど、なによりも いやなのは、そういう異常な情況に慣れてしまった自分の心なの。女の人から電話が ア かかってきても、あ、そうかと思って普通に取りついでしまうの。そして、びそひそ チ 声のやりとりを、 > を観ながら普通に納得できてしまう。」 サ「そう言っている君も、冷え切ってるじゃないか。夫を愛していたらこんな所で俺と 会ってないよ、今頃。」 智明は言った。その言葉ではうまく表現できなかったと思う。彼女にはスキがあっ た。夫と続けるにしても、智明に熱中しているにしてもその決定権が本人になかった。 あるのは、ただ磁石が必ず北を指すように、今から抜け出すというふわふわした勢い だけで、本人がそれに振り回されているという感じだった。しかし、そんなことはど 旧うでもよく、智明はその時、ただ友子を好きだった。話し方や、本人が振り回されて