豆腐をかためるのに、ニガリが要る。 そのニガリの役割を、律令制が果たした。 おおあみ 日本全国に律令という大網を打ち、農地という農地、人間という人間を律令国家がまと めて所有し、統一国家が成立したのである。 まことにふしぎなほどで、この間、軍事力が用いられることなく、地方々々はその権利 を放棄した。 こういうふしぎな例は、はるか千数百年くだって明治四年 ( 一八七一年 ) の廃藩置県に もみられる。両方とも〃いまからはじまる世が、世界の普遍的な文明なのだ〃という国民 的気分があって、みなやむなく従ったものかとおもえる。島国だけに、普遍性へのあこが れがつよいのである。 かといって、律令国家は、一面からみれば、ひとびとにとってつらいものだった。班田 収授によって一定の耕地が農民に平等に貸しあたえられる。国家は平等に租税をとる。租 ろうえき 京税のほか、公用のための労役もある。 城要するに、人を個別的に、かつ人身まるごとに国家によって所有されるのである。所有 平 されるほうにとっては、つまらない制度で、生存するほか、私権というものがなかった。 唐も新羅もそうなのだ。これが、文明だ。 に 3
その死者に大漁を祈念するようになった。 いんどうじ たとえば、島一つで一国とされた壱岐 ( 長崎県 ) に印通寺浦という入江がある。 東端が小さな丘になっていて、丘上に小さな石の祠が苔むしている。 とうじんがみ 土地では「唐人神」といい、立札にみじかい説明文が書かれている。中世のころ若い唐 人 ( 高麗だったろう ) の下半身が流れつき、土地の漁師によってまつられたというのであ 漁村にかぎらず、日本の古信仰には、志が遂げられずに死んだ人をあがめる風があった。 そのことが、行き倒れになっている旅装の死者への尊崇にもなった。望みの地にゆけな ・一んばく かったため、魂魄がその地にのこっているだろうという想像があったのである。 浦々における漂着死体も同様の信仰によって葬られ、ねがいごとをきいてもらえる神に なった。漁民のねがいごとは、豊漁である。豊漁は福につながる。 漂着死体が異国人であれば、なおよかった。遥かな地をめざしながら途中海難のために えきえき 神ゆくことも帰ることもできなくなった死者の霊は、目的を遂げられなかっただけに奕々と かがやいているのである。そういう想像が、えびす信仰を生んだのに相違ない。 このくだりは、じつは千石船について書くつもりだった。
53 七福神 七福神のセットにして参詣人をさそうというのは、元来、江戸が本場である。 もっとも、福神信仰がうまれたのはおそらく鎌倉。室町のころの京で、この人は源流に さかのばりに行ったのかもしれない うとくじん 鎌倉末から室町にかけての京は、対明貿易でにぎわった。〃有徳人〃とよばれる大商人 ニンポー たちのゆくさきは、寧波 ( 浙江省の港 ) だった。 そのころ、寧波港は日本船に対する明側の指定港であり、入国と貿易事務をあっかう市 舶司もおかれていた。 そのあたりには大小の寺が多く、上陸した日本人たちは当然参詣したはずである。とこ ろがたいていの寺に「布袋」と土地の人がよんでいる肥満漢の像がおかれ、ひとびとが拝 礼していた。きくと、招福の神だという。 みろく 「弥勒菩薩でもあります」 当時の日本人はびつくりしたろう。 ほそみ ふつう弥勒といえば透きとおるような細身のお姿である。天上でひとびとをどう救済す はんかし るかを考えていらっしやって、たとえば飛鳥時代の半跏思惟像 ( 京都・広隆寺 ) がその代 表的なイメージになっている。 プーダイ
古代中国の社が、社という意味の基本であった。そこから性格がふくらんだ。 周は、里の社をふくらませて王室としての社をつくった。 ほうど また春秋戦国のころ、諸侯までがそれぞれの首都に封土の象徴としての社を置いた。 王や諸侯の社もまたごく小さな空間だったらしく、殿舎のようなものはなかった。王も 侯も、自分の社によって豊穣を祈った。その場合、土地の神の在す社に、五穀の神もまね しよく き、あわせて祭ったのである。その場合の穀神のことを、とくに「稷」とよんだ。 社と稷をあわせると、社稷になる。のち、転じて国家のことを気どっていう場合、社稷 王朝が亡びると、社稷にペンペン草がはえる。社稷亡ぶ、ということになる。 最後の王朝の清にも社稷は存在したが、北京にある " 社稷跡。の写真をみると、石段三 段の段になっていて、上は平らになっている。それだけのもので、とくに印象的な構造で この場合、日本の伊勢神宮が思いあわされる。この神宮がいつできたのか、その起源に すじんすいにん ついての典拠は『日本書紀』『古事記』の崇神や垂仁天皇のくだりにあるだけで、まこと に古いとしか一一 = ロいよ , つがない。
っ かれは、やがてその所領を嗣ぐ嫡男小次郎とともに従軍している。次郎の息子だから小 次郎なのである。『平家物語』は、ト次郎のいでたちについても、たかだかと述べる。 ひと ・ : おもだかを一しほす ( ッ ) たる直垂 ( おもだかの葉の模様で、それを一回だけ染料に せいろう しらっきげ つけて淡く着色させた直垂 ) に、ふしなわめ ( 節縄目 ) の鎧きて、西楼といふ白月毛なる 馬にの ( ッ ) たりけり。 この時代の鎧というのは、小札のかたまりである。 小札は、さび止めと美しさの表現のために、一枚ずつ丹念に漆がけされている。甲冑は、 日本の誇るべき漆工芸品でもあった。 さね それら多くの札を、糸や革で綴ってゆくことを、おどす、といった。名詞は、おどし。 〃緒通し〃の意味らしいが、それよりも、鎧の毛 ( 毛は、糸や革の配列のこと ) の色でもって おど 敵を脅すところから出た、という解釈のほうが、当時の甲冑の思想にふさわしい おど おど げんに、漢字では、威す、縅す ( 国字 ) という字があてられた。 縅には色によってさまざまな種類があり、緋縅、小桜縅、黒革縅、卯の花縅などで、ほ こぎね け 8
まとも " 真艫。というのである。転じて、正道であること、まっとうであることの意になった。 大坂の機能が、日本じゅうを商品経済の海にした。 また銅の精錬も大坂が一手にひきうけていた。主として長崎での清国・オランダ貿易の ふきや あらどう 決済につかわれた。諸国の銅山の荒銅はすべて大坂の吹屋 ( 精錬所 ) にまわされ、不純物 さおどうちょうどう ( しばしば銀がまじっていた ) をぬいて棹銅、丁銅などに仕たてられた。 大坂は、都市としては江戸より小さかった。人口も江戸が百万 ( 町人の人口はその半分 ) を越えたろうといわれる十八世紀初頭で、大坂は三、四十万であった。 てんま 面積も広くなく、市街地は〃大坂三郷〃 ( 北組・南組・天満組 ) 六百二十町 ( 江戸末期 ) に すぎなかった。 この規模で前述したような全国経済の機能をまかなっていたために、大坂が封建制のも とでやや異質な地域になったのもやむをえない。商品経済が、地域で蒸溜され、思想化し 坂たのである。 大 商品経済の思想とは、モノを観念でみずにモノとしてみる考え方である。 モノには、質と量がある。質と量でモノを見、学問や思想までをそのように見なおすと
物理学の教授や研究には、実験用機械などに膨大なカネが要る。それらは当時東京大学 しか所有しておらず、維持同盟のひとたちの毎月一円以上の拠金でなりたっている東京物 理学校にあっては、そんなものを買う金はなかった。 この事情を東京大学理学部はよく理解した。 そこで、日中、大学がそれらを使用すると、夕方から物理学校へそれらを大学の使丁が 運掫したという。このことは、毎日、数年もつづけられた。官物が私的につかわれること はゆるされることではないのだが、あえて大学はこの便法をとった。配電盤が、国家の将 来のために志をもって漏電していたのである。 明治の文部省は、官公立学校を偏重した。 その理由は、国家のカネを投じて導入しつづける " 文明。を、公有物と考えたからにち くりかえすが、東京大学を通じて全国の各級官公立学校に分配しつづけ、それが構造に なっていた。この配電構造のために官公立偏重の風がうまれたのである。 ただし、神田の私学は地縁のおかげで、いわば私的に電流を流してもらった。 のちに、明治、法政、中央、専修、日本というような大学として発展してゆく神田の法
と称した。あるいは " 東方礼義ノ国〃などといわれた。この場合の礼義とは儒教という イデオロギーをさす。日本の室町時代における「武家礼式」や「公家礼式」といった意味 の礼ではない。 礼は、国際秩序でもある。 李氏朝鮮では、中国 ( 明 ) のことを「天朝」とよんで尊んだ。中国皇帝が天命によって 地上を支配する唯一人であるがために、支の国としてそうよぶのが礼であった。 すいふく さてすでにが小華〃である以上、その徳に綏服する蛮 ( 蕃 ) 国をもたねばならない。 オランケ 前述したように、太祖李成桂の即位のとしの九月、琉球国の国使と、吾良哈 ( 北方の女 真人 ) が、それそれ参朝した、と『太祖実録』にある。朝鮮としてはかれらが参朝せねば 〃華″をなさないから、おそらくたれか知恵者がそのようにしむけたに相違ない。 以下は筆者の地声になる。じつは華も礼も虚構にすぎない。 かんがん たとえば、李氏朝鮮の場合、社会の底にいる聡明な小児をえらび、男根を断って宦官に し、宮廷で秀才教育を施した。明の宮廷への工作のためだった。ありようは、朝詳国王か ら〃天朝〃に美姫を献ずるとき、お付きとしてその宦官をも贈り、入りこませるのである。 ゆいつじん
歴史的″華〃についてのべたい。 華が文明であるかぎりは野蛮 ( 夷 ) が存在せねばならない。具体的にーーー政治地理的に いえば、華はまわりを野蛮国でかこまれていてこそ華である。 中国人が、世界を「華と夷」という二元的風景でとらえてきたのは紀元前からだが、と くに漢の武帝 ( 紀元前一五九 ~ 八七 ) の儒教国教化以後、思想として体質化された。 華にとっては、周辺の国々とは対等の関係がなく、従って外交は成立せず、十九世紀の ある時期まで朝貢関係のみ存在した。 じづら 華夷は、字面でわかる。中国内部で成立する王朝は、秦、漢、隋、唐といったように一 字である。 それにひきかえ、周辺の蛮 ( 蕃 ) 国は二字で表記された。 うがん きったんとつけっとつばんうい 前漢のころでいえば、匈奴、鮮卑、東胡、烏桓。唐代でいえば、契丹、突厥、吐蕃、回 しらぎ 鶻、渤海、新羅、日本といったようにである。 むしへんけものへん ぜんぜんロロ ときに、異国名が、虫偏や偏であらわされた。蠕蠕や課猩といったふうにである。 話題を変える。 ぐる
などというおふれは、、 しま見つけることができないが、、 おそらく存在したはずである。 それに、甲板を張ってしまえば荷を積みこむ量がすくなくなる。多くの荷を積みたいと思 えば甲板をはずして荷の山をきずけば、、。 さらにつらかったのは、帆を一枚にせざるをえなかったことである。多帆なら風をうま く操作して操船も楽になるのだが、多帆船は幕府の禁ずるところだったようで、一本マス ばくしゅ トの一枚帆であることを墨守せざるをえなかった。 一枚帆の場合、いきおい帆の面積が広 大にならざるをえない 広大なら、帆面にかかる風の力はすさまじく、比例的に梶 ( 舵 ) の面積も大きくせざる をえなかった。江戸期の大型和船の梶はべらばうに大きくて、子供がおすもうさんの下駄 をはいて走るようなかっこうをしているのは、右のように政治的理由による。 また、江戸期の海難の多くは波によってこの広大な梶が破壊されるところからおこった。 梶をうしなえば漂流せざるをえなかった。 その弱点を造船技術で補うべく、十八世紀ごろから船尾構造に遮浪性が加えられるのだ が、それでも限度があった。 江戸時代の経済と文化の伝播は、クナシリ、 エトロフをふくめた日本列島のまわりを、