と称した。あるいは " 東方礼義ノ国〃などといわれた。この場合の礼義とは儒教という イデオロギーをさす。日本の室町時代における「武家礼式」や「公家礼式」といった意味 の礼ではない。 礼は、国際秩序でもある。 李氏朝鮮では、中国 ( 明 ) のことを「天朝」とよんで尊んだ。中国皇帝が天命によって 地上を支配する唯一人であるがために、支の国としてそうよぶのが礼であった。 すいふく さてすでにが小華〃である以上、その徳に綏服する蛮 ( 蕃 ) 国をもたねばならない。 オランケ 前述したように、太祖李成桂の即位のとしの九月、琉球国の国使と、吾良哈 ( 北方の女 真人 ) が、それそれ参朝した、と『太祖実録』にある。朝鮮としてはかれらが参朝せねば 〃華″をなさないから、おそらくたれか知恵者がそのようにしむけたに相違ない。 以下は筆者の地声になる。じつは華も礼も虚構にすぎない。 かんがん たとえば、李氏朝鮮の場合、社会の底にいる聡明な小児をえらび、男根を断って宦官に し、宮廷で秀才教育を施した。明の宮廷への工作のためだった。ありようは、朝詳国王か ら〃天朝〃に美姫を献ずるとき、お付きとしてその宦官をも贈り、入りこませるのである。 ゆいつじん
歴史的″華〃についてのべたい。 華が文明であるかぎりは野蛮 ( 夷 ) が存在せねばならない。具体的にーーー政治地理的に いえば、華はまわりを野蛮国でかこまれていてこそ華である。 中国人が、世界を「華と夷」という二元的風景でとらえてきたのは紀元前からだが、と くに漢の武帝 ( 紀元前一五九 ~ 八七 ) の儒教国教化以後、思想として体質化された。 華にとっては、周辺の国々とは対等の関係がなく、従って外交は成立せず、十九世紀の ある時期まで朝貢関係のみ存在した。 じづら 華夷は、字面でわかる。中国内部で成立する王朝は、秦、漢、隋、唐といったように一 字である。 それにひきかえ、周辺の蛮 ( 蕃 ) 国は二字で表記された。 うがん きったんとつけっとつばんうい 前漢のころでいえば、匈奴、鮮卑、東胡、烏桓。唐代でいえば、契丹、突厥、吐蕃、回 しらぎ 鶻、渤海、新羅、日本といったようにである。 むしへんけものへん ぜんぜんロロ ときに、異国名が、虫偏や偏であらわされた。蠕蠕や課猩といったふうにである。 話題を変える。 ぐる
これすなわ 「其の形を変じ、俗 ( 服制 ) を易ゅ。此則ち日本の人と謂ふ可らず。 : : : 無法の国と謂ふ 可し」 とまでいった。 朝鮮の態度はいわば文明批評ふうで、これに対し明治政府は政治学的だったというほか 明治政府の要人の意識をたえず支配していたのは " 条約改正〃ということだったのであ 以後、三十年ほどもかかったこの難問題の解決のためには急速な欧化が必要であるとい とっぴ うのが明治政府の考えで、服装改革はあるいは突飛すぎた ( 旧幕臣の開明家福地桜痴のこと ば ) とはいえ、かれらの気分はそれほどさしせまっていた。 じつは、徳川幕府を継承した維新政府の要人たちが、いざ国をうけとってみると、意外 服なおもいがした。 幕府が各国とむすんだ条約におそるべき欠陥があって、じつは日本は半独立国であると 洋 いう、いわばおもわぬ正体を知ったのである。 この内実を明治政府はむろん朝鮮にも明かさず、国内に対しても政府人は一時期、公然 る。 く べか
外征のことは、秀吉当人の主観のなかでにわかに育ったものではないにせよ、世間の目 からみれば唐突なことだった。 うちい 秀吉自身、大明国に打入るなどといいながら、明や朝鮮の事情を知らず、これを調べよ うともしなかった。朝鮮をもって道案内させるなどと言いつつも、陸路明国に入るための 最大の難関である長城、なかんずく山海関をどうするかなどは考えもしなかった。それ以 前の秀吉とは別人のようである。 天正十八年仲冬の日付のある秀吉の朝鮮国王への国書も、これをどのように読んでも、 まともな神経の文章ではない。 「わが慈母が自分を懐胎したとき、日輪が懐ろに入る夢をみた」というようなことを、国 書のなかでのべているのである。こういう奇跡のおかげで六十余州を討ち平らげたのだ、 という。だからおれには恐れ入らねばならない、といわんばかりの調子だった。 さんか っ これに対し、秀吉の傘下に入って、秀吉からつねに一目置かれていた徳川家康は、、 さいこのことについて論評した気配がない。 かれは、秀吉から朝鮮入りについての報を江戸でうけとったとき、独り書院にすわって
これによって、幕末、攘夷論が津々浦々に充満した。幕府が開国をしたのに、在野は鎖 国を維持せよ、というのである。 知識人ほどその徒になった。過激志士はそのために身命を賭して奔走した。 「鎖国こそ古来の法だ」 、 ' 、むろん鎖国が〃古来″であろうはずがない。わずか二世紀前、 と彼らは信じてしたが、 徳川三代将軍家光のころはじまっただけのものなのである。 かれらがべつに無学であるわけではなかった。 なにしろ日本は奈良朝以来、書物を中国から輸入しつづけた国なのである。室町時代は 官私の貿易において輸入品目の筆頭が本であり、江戸期も長崎を通じて本を輸入しつづけ、 国じゅうが漢籍であふれるほどになった。 約 また、江戸期、国学もさかんだった。古い日本語や日本思想の研究は庄屋・町人層にま 里でおよび、一方和歌や俳句の流行によって詞藻がみがかれた。 巴 さらにいうと、物語ふうの史伝や秤史のたぐいも多く、また戦国期にほろんだ大名の家 言が江一尸期に多く書かれた。
精密な条約などっくる気がしなかったのだろう。 その後、幕府は右の日米条約を範として、露、英、蘭、仏などと同様の条約をむすんだ。 その結果、半植民地になった。 なにしろ日本国の領土のなかに " 外国領。 ( 居留地 ) ができ、外国の警察や軍隊が駐留す るというぐあいになったのである。居留地にはむろん日本の主権はおよばず、外国の領土 といってよかった。 横浜居留地を例にとると、万延元年 ( 一八六〇年 ) 、各国の領事があつまり、日本政府に は断りなしに " 神奈川地所規定。というものを成文化した。すでに植民地化されていた中 国の上海租界を参考にしたといわれる。 また外国人が犯罪をおかした場合も、幕府 ( それにつづく明治政府 ) は、手出しができな かった。犯人が属する国の領事が裁判をするわけで、居留地においては、各国は治外法権 服 ( 領事裁判制度 ) を得ていた。 洋 さらには関税についても、日本側はみじめこの上なかった。 関税の税率をきめる自治権を日本はもたされていない上に、各国には最恵国待遇を約束
ミンせん めいめいり 幕府そのものが官貿易によって明銭を得、それを流通させ、冥々裡に日本国の主要通貨 のようにあっかっていた。いまでいえばドルが通用しているようなものである。 そのくせ、当時の日本は、中国・朝詳という東アジアの文明国からみれば、まったくち がった国だった。政体、法慣習、軍事形態、生活文化のどれをとっても、ちがっていた。 しかも混沌をかさねつつ、他と異る文化にいよいよ光沢を加えていた。基本的には中国・ 朝鮮のような中央集権でなく、封建制だったことによるだろう。とくに応仁の乱 ( 一四六 七 ~ 七七年 ) 以後は、無数の豪族による割拠が常態化し、日本じゅうが、百千の破片にな 百千の破片どもが、自分が破片であることに不安を抱いたのが、かえって文化の統一を まねいた。 武家礼式が普及したのも、その一現象である。おそらく成りあがりの土豪劣紳が、人が ましくふるまいたいために、〃中央の作法〃という普遍性を身につけたがったのにちがい さらには、共通語の成立がすすんだ。中央でできあがった狂言や謡曲あるいは舞のたぐ いを、地方の豪族がすすんで身につけようとした。
華 大衆食堂などに入って、軽々に " 冷し中華 , などというべきでない。 「華」 とは文明という字義で、意味が重い。げんに中国人は、みすからを華人という。文明人 のことである。他に用例として、中華人民共和国、中華民国という国名がある。 中華とは、宇宙唯一の文明ということである。ずいぶんしよった国名だが、むろんつよ い屈折があっての呼称である。清末、西欧からの外圧のほかに、異民族王朝 ( 清 ) に支配 されているという屈辱から起ちあがって民国 ( 共和国のこと ) をおこした ( 一九一二年 ) ひ とびとの情念がこもっている。 7 5 華
むろ 三輪山は、いかにも神が籠っている室といった山容なので、古代から御室山 ( ときに御 諸・三諸 ) ともよばれた。 話は大和の三輪山から離れるが、ミムロヤマというのは特定の山をさすわけでなく、神 が籠っている神体山のことをそのようによんだ。 たとえば、埼玉県 ( 武蔵国 ) の浦和市の市域にも三室という台地があって、古くから神 みむろど みもり がまつられてきたし、また京都府の宇治にも三室戸がある。さらには福島県の三森 ( 白河 山市の東南 ) も、ミムロの転訛らし、 と ミムロは、カムナビと同じ語義だと思うが、ひょっとすると、景観として微妙な差異が あるのかもしれない。出雲には、地名として両方ある。 三輪山を神体山とする信仰は大和政権以前から存在した。八世紀に編まれた『古事記』 こも おおものぬし すじん の崇神天皇のくだりに、三輪山伝説が出てくる。それによると山に籠る神の名は大物主 あまかみ 神 ( 大国主命 ) であるという。この神が、天っ神系に対する国っ神集団の代表であること はいうまでもない。天っ神系に国譲りして出雲にしりぞき、出雲大社の祭神になるのであ る。 もろみもろ
70 甲 公民である農民は国家によって所有され、配分された公地を耕し、国の規定どおりの税 としての稲をおさめた。一種の一国社会主義であった。 こんでん この体制では、国家として耕地がふえにくいので、奈良朝の八世紀半ばごろ、墾田とい う特例が設けられた。この墾田という例外的な私有田が、平安朝になって社会を変えてゆ 貴族や社寺が山野を開墾して墾田をつくれば私有がみとめられ、しかも国に租税をおさ めなくてもすんだのである。 どこよりも、平安初期の関東平野が、多くのひとびとの目を惹きつけた。 大半が未耕地だったこの大きな平野をめざし、墾田をひらくべく力のある者がむらがり あつまってきた。かれらカのある者たちは諸国の浮浪人 ( 律令制からぬけ出た逃亡者 ) をあ つめ、つぎつぎに田地をひらいた。これが、律令制をゆるがすもとになった。 上 冑むろん、表むきの律令制はつづいていた。だから墾田には、京の貴族や社寺の名義が要 る。 かいほっ その地を " 開発〃した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで " 特例の私有〃を合 法化し、自分はかげにまわって経済権だけをにぎった。武士の発生であった。 173