した。律令制と荘園制を認めたのである。このことは、坂東の開墾地主たちを失望させた。 かれらは頼朝を擁して挙兵し、やがて鎌倉を根拠地とした。つづいて、源平の対決がお こなわれた。 頼朝が駆り催した坂東の大軍と、西方からきた平家の大軍とが、富士川 ( 静岡県 ) をは さんで対陣したのが、治承四年十月のことであった。 - 一れもり きんだち 平家の公達たちにとって関東勢は異国びとにちかかった。平家の総大将だった平維盛一一 べっとうさねもり 十三歳 ( 清盛の孫 ) が、関東にくわしい斎藤別当実盛という老武者に質問するくだりが、 「平家物語』にある。 せいびよう 実盛は、よく強弓をひいた。そういう者のことを当時、精兵といった。 「汝ほどの精兵が、八カ国 ( 坂東のこと ) にどれほどいるか」 ふう 、さらに坂東の風について語った。 実盛はあざわらって、ざらにおります、と言い 「平家物語』のなかの実盛のことばづかいは当時のロ語に近いようで、きびきびとしてい しかばね 倉る。親が討たれようが子が討たれようが、かれらは屍を乗りこえてすすむ、という。 おや ( 親 ) もうた ( 討 ) れよ、子もうたれよ、死ぬればのりこへ ( 乗り越え ) / 、たゝか きト - うト會つくよう もうす ふ候。西国のいくさと申は、おや ( 親 ) うたれぬれば孝養 ( 供養 ) し、子うたれぬれば、 キ ) い′一く つよゆみ 3
そのおもひなげ ( 歎 ) きに、よ ( 寄 ) せ候はず。 : : : 夏はあっしといひ、冬はさむしと その きら ( 嫌 ) ひ候。東国にはすべて其儀候はず。 実盛が実際にそういったかどうかはべっとして、当時すでにそんなふうに坂東の風が常 識になっていたにちがいない。 累代、鎌倉幕府がつづくうちに、坂東の有力な御家大の多くが、中国や九州に所領をも ならい らって西へうつった。そのことによって、坂東武士の慣習や気風、あるいはことばが全国 化したといっていし ちぎ・よう′ たとえば、鎌倉幕府の総務長官というべき大江広元が相模の毛利庄を知行し、その子孫 が南北朝のころ安芸国 ( 広島県 ) 吉田郷を領して、はるかのち江戸期にあっては長州藩が 形成される。 薩摩島津氏の祖については諸説があるが、伝承としては頼朝の時代に薩摩に下向したと 島津家は、とくに鎌倉の風を慕った。とくに戦国から江戸期にかけ、意識して家士を教 育し、鎌倉風に仕立てた。 る ふう ふう
いさぎよ かれらは潔さを愛し、そのことにおのれの一身を賭けた。つねに名を汚すまいとし、 ' 名こそ惜しけれ。ということばをもって倫理的気分の基本においた。 一、二世紀前までは京の公家に抑圧されていただけの、いわば働く道具だったかとおも りつりよう ばんどう われた律令体制の農民が、坂東にあってはこのような倫理像としてあらわれ出たのであ くりかえすが、武士とはいえ、京の公家からみればただの庶民にすぎなかった。 平安時代は、詩歌によってかがやかしい。あるいは『源氏物語』や『枕草子』といった 文学作品によって後世をたのしませてくれるが、反覆すると、当時の農民の精神像がどん なものであったかはよくわからない。 律令体制の闇がふかく籠めていたなかで、関八州といわれる坂東の地にあっては、開墾 ひら 地主が山野を拓き、相互に武装し、郎党をやしない、京の制度の不条理に耐えてきた。そ れが、源頼朝の挙兵によって一挙に姿をあらわした。 よく源氏と平家が対比される。 平家も武士ではあったが、主として西日本を根拠地とし、清盛が政権を得ると、公家化 2
鎌倉 かちゅう たとえば、島津の家中にあっては捕吏は無用といわれた。罪をえた者が、捕吏がむかう なわめ より早く、縄目の恥を避けて自刃した、というのである。 鎌倉の世に話を戻す。 鎌倉幕府にあっては、やがて頼朝の世系が絶え、権力は北条執権家にうつった。しかし 前掲の「鉢木」でもみられるように、坂東の士風はおとろえなかった。「鉢木」は室町時 ぜあみ 代の世阿弥の作といわれるものだが、ありうべきはなしとして書かれたのである。 北条執権家は、一三三三年、高時の代でほろび、鎌倉幕府は幕を閉じた。体制が、すで に世に適わなくなっていた。 うつ 最後の執権である高時が虚けであることは、世に知らぬ者はなかった。遊宴がすきで、 さらには田楽法師どもをよびあつめておのれも舞いくるい、また何百頭もの犬を追い籠め て咬みあいをさせたりした。 きか そのようにとりとめない人間でありながら、麾下はかれを捨てず、高時と鎌倉の府を守 るために侵入軍に対し、全滅するまで戦った。さらには高時の側近はかれとともにこぞっ て自刃した。 145
鎌倉 やましな 途中、時益は京を出てほどなく山科で戦死した。 ばんば 仲時はようやく近江 ( 滋賀県 ) の番場まできたとき、四方ことごとく敵であることを知 って、覚悟した。 なかせんどう まいばら 番場はいまの新幹線米原駅の東方にあり、小さな谷をなし、古くから中山道の宿場だっ ′一しよう いっこうどう れんげ た。そこに蓮華寺という浄土念仏の寺があり、一向堂という後生をねがうお堂があった。 その堂前で、四百三十二人という人数が仲時とともにいっせいに腹を切った。かれらの名 はこのとき「番場蓮華寺過去帳」にとどめられ、いまも残っている。 かれらの鎌倉ぶりの心は、信でもって支えられていた。信というのは、のち室町や江戸 の世で商業が栄えると、商人の倫理になった。カネを借りれば必す返すという倫理である。 それと同様、鎌倉の世の信は、北条執権家から恩をうけると、死をもって返すというも のであった。さらには、返す場合、ためらいをみせないことが潔いとされた。 ばんどうむしゃ 坂東武者が日本人の形成にはたした役割は大きい。 7
ふていふそん 不逞不遜のそしりをまぬがれなかった。 じちまさはる そんななかで、まず薩摩の兵学者伊地知正治が大坂への遷都を論じ、意見書を書いた。 徳川慶喜が大政奉還をした直後の慶応三年十一月のことで、まだ慶喜そのひとは大坂城 じんききようあい 伊地知建白書は、まず京都が「土地偏少、人気狭隘」であることをのべ、ついで京都 御所がちいさすぎることにおよぶ。 このひとは軍略家として西郷隆盛に買われていたのだが、さほどに大きな構想力や想像 力をもつひとではなかった。 意見書では、大坂城の本丸を皇居とする、としている。さらには二ノ丸に百寮を設ける、 という。おそらく伊地知の脳裏に太閤伝説があって、大坂城を買いかぶっていたのにちが いない。伊地知が百寮を設けるといったあたりに、大阪府庁やがある。 じもく 大坂城は、十六世紀の秀吉の時代でこそこの城は世界の耳目をおどろかすほどに大きか ったが、江戸二百数十年の経済社会の成長をへた慶応三年の日本のサイズにはとても適い そうになく、とくに大坂城二ノ丸に多くの政府機関を置くなどは、ベビー服を関取に着せ よ , っとい , つにひとし、 「大和に遷都しよう」 136
70 甲 胄 ( 上 ) 安田という名の荘園は、いまの山梨市の笛吹川左岸の小原西にあった。 梶原というのも、荘園の名である。いまの鎌倉市の梶原あたりにひろがっていた大きな 田園であり、また佐々木というのも荘園の名で、近江の湖東平野のいまの安土町あたりに 所在していた。 渋谷というのも、いまの神奈川県藤沢市あたりに所在していた荘園の名で、平安末期に 拓かれた。 法皇は、これらの名字 ( 荘園の名 ) をきくだけで、義経の軍が関東ばかりか、近江以東 の勢力を駆り催したものであることに気づいたに相違ない。 なおざね くまがやの それら大領のもちぬしからいえば、熊谷次郎直実の所領は、小ぶりなものだったよう である。 熊谷という田園は、し 、まの埼玉県熊谷市の市域にあった。 「平家物語』では、一ノ谷のくだりで、熊谷次郎直実のいでたちをのべている。 がわ 熊谷はかち ( 褐 ) のひたゝれ ( 直垂 ) に、あか皮おどしの ( 茜草で染めた革でおどした ) くれない 鎧きて、紅のほろ ( 幌 ) をかけ、ごんだ栗毛といふきこゆる名馬にぞの ( ッ ) たりけ る。 あかね じ 7
65 東京遷都 だい ただこの十五代将軍は、日本国の政権という大荷物を京都御所の塀のなかに投げこんだ 金や役所 だけで、さっさと大坂城に去り、ついで江戸へ帰った。あたりまえのことだが、 までつけて政権をわたしたわけではない。 このため、京にいる薩長など各藩の首脳は、政権という大荷物をとりまいて、一時当惑 した。もともと薩摩の西郷や大久保の予定では、討幕によって革命を果たすつもりだった が、慶喜の大政奉還によって肩すかしされたのである。 京には役所もなかった。 だじようかん せやくいん 当座、御所のなかの施薬院をつかったり、また公家筆頭の九条家の屋敷を、〃太政官 代″とよんで、寄合いにつかったりした。 さかいまちごもん 九条邸は堺町御門のそばにあり、公家屋敷としてはいちばん広かった。それでも江戸 の大名屋敷の大きさとはくらべようもない。 この小さな九条邸が革命政権のいわば最初の政庁だった。 「どうも、手ぜまだ」 と、なげくうちに、遷都論が私かに論ぜられるようになった。 むろん、公然とは議論できない。古来、みやこは京都だったし、遷都を考えるだけでも ひそ 135
しよう 生として唐に派遣し、かれが好んだ天台体系をもちかえらせ、比叡山延暦寺をひらかせ て、平安京の大寺とした。 つづいて空海が唐から帰朝し、真一一一一口宗をひらいた。宮廷ではこの両派を平安仏教の両輪 としつつも、その本拠地を遠くへ置かせた。 平安京にあっては、都市形成からして長安の模倣の域を脱していた。 たとえば、平安京の南のはしの羅城門をはさんで、東に東寺、西に西寺が置かれるべく 設計されたが、これも脱長安だったといえる。 この場合のグ寺をはテラではなく、どの漢字辞書にもあるように、本来の意味である が役所みと解するほうがいい 9 つまり東寺・西寺という名の国賓用の官立ホテル ( 鴻臚寺・ 鴻臚館 ) を二棟置くつもりであった。 が、工事がすすまず、ついにはこれ ( 東寺 ) を空海にあたえ、かれの私寺とした。 たいさっきよみずでら ともかくも、京には官寺が置かれなかった。たとえば京の大刹の清水寺なども平安遷都 さかのうえ 都早々に建てられた寺だが、これは坂上田村麻呂による私寺だったし、おなじころにたて 気られた高雄山寺 ( 神護寺 ) も和気氏の私寺であった。 ともあれ、首都が奈良をすてて京にうつったのは、当時としては高度な政治行動だった のである。 133
カムナビのほうは、たとえば松江市の市域に入る茶臼山という標高一七一メートルの独 立丘陵である。まわりが平坦な水田地帯 ( 宇平野 ) である点、カムナビの典型かとおも える。 しんじ・一 あさひやま 宍道湖北岸の朝日山もふるくから神名火山と称されてきた。中世以前、ふもとに神社が さだおおかみやしろ つくられて、佐太大神の社とよばれる。 おおふねやま かむなびやま 出雲平野の北東部の平田にある大船山 ( 古称・神名樋山 ) は南からみるとうつくしい鉢伏 がた 形をなしている。 なんといってもカムナビヤマの理想的な形状は、近江 ( 滋賀県 ) の湖東平野に、富士の ひながた みかみやまやすまち 雛形のように孤立する三上山 ( 野洲町 ) だろう。 むろん、神体山であることはいうまでもなし 、。「己紀』には、このあたりの農業の開拓 あまのみかげのみこと 神である天之御影命がその神の名だというが、そのように神名をつけたり、ふもとに社 殿を設けたりするのは八世紀あたりのひとびとの好みであり、さきにのべたように、本来、 神名や神社は伴わず、山じたいが神であった。 これは独断だが、 神体山 ( カムナビやミムロ ) の信仰は、稲作が展開する弥生時代の中・ 後期ぐらいからはじまったような気がしている。 かむなびやま はちぶせ