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検索対象: この国のかたち 3 (1990~1991)
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1. この国のかたち 3 (1990~1991)

んその革命は自前であった。どの国のヒモもっかず、いかなる選択も日本自身がした。 ここで、遊びとしての作業をしてみたい。まず、 「江戸時代をそのままつづけていてもよかったのではないか」 ということである。答えは、その場合、十中八九、どこかの植民地になっていたろう。 時代にはその時代にしかないという気分があり、当時、植民地になりたくないという共 通の気分がわき立っていた。この感情の爆発が明治維新をおこさせ、ひるがえっては、そ の後の欧化をも許容したといっていい。 「それなら、なじみのあるオランダをモデルにすべきではなかったか」 という言いかたもなりたつ。 江戸期、日本にとってオランダがヨーロッパ文明そのものだった。医学も理化学もオラ ンダ語によって知ったし、またペリー来航以後、幕府が長崎に設けた海軍教育機関も、オ ランダ式だった。 オランダ王国の政体もよく知られていた。たとえば、当時土佐の高知城下の小さな蘭学 塾でさえ教材としてオランダの政体に関する本がっかわれていて、若い坂本龍馬の開明思 想にすくなからぬ影響をあたえた。また幕府は人文科学系の留学生もオランダに派遣した。 にしあまね 留学生の一人であった西周はライデン大学で法学と哲学をまなび、明治初年における文

2. この国のかたち 3 (1990~1991)

宋学 平安の世は末期になって、平家の世になる。 だじようだいじん 平家の世は、清盛の太政大臣就任 ( 一一六七年 ) ではじまり、その死 ( 一一八一年 ) でお わる。わずか十四年間ながら、清盛ははじめて南宋と国家としての貿易をおこなった。 おおわだとまり 清盛は福原 ( 神戸 ) の大輪田の泊に大規模な港湾工事を施し、宋船を招きよせた。 たいへいぎよらん かれが輸入した品物で圧倒的なものは、『太平御覧』という、千巻におよぶ百科全書で あった。 すりほを とくにそれが全巻摺本 ( 印刷本 ) であったことも、ひとびとをおどろかせた。 宋代は印刷術が大いに発達した時代で、こんにちなお、日本の印刷業界に、 " 宋朝活字。 という書体が残っていることでも想像できる。方正で、肉の痩せた、品のいい活字である。 平家没落後は、私貿易の時代に入る。南宋の商人は日本人が書物を好むというので、つ ぎつぎにもちこんできた。 げんえ 玄慧 ( ? ~ 一三五〇 ) という天台僧が京にいて、出羽の出身ともいわれた。町住まいを して、宮廷人ともっきあい、才学無双といわれた。この人が、日本における初期宋学思想 の受容者だったようで、宮廷人に影響をあたえた。 巧 9

3. この国のかたち 3 (1990~1991)

七 ) についてである。その辛すぎる漫画から、明治の滑稽と悲しみがにおいとれる。 ビゴーの事歴については、私は清水勲氏とクリスチャン・ボラック氏による「小伝」 (r ビゴー日本素描集』岩波文庫 ) から多くを知った。 ジャポニスム 日本が幕末だったころに。ハリでうまれ、十二歳で美術学校に入った。おりから日本趣味 の流行時代であり、かれは浮世絵を知り、その国にゆきたいとおもい、困難を排して来日 した。ただしそのときは、浮世絵も、またビゴーにとってなっかしい浮世絵時代も幕府と ともに去っていたから、かれの感情は明治日本に対し、最初から愛憎ともにはげしかった のにちがいない。 主として横浜居留地を根拠地として、明治日本の新風俗を、戯画をもって痛烈に揶揄し その作品のひとつに、鹿鳴館ふうの豪華な洋装姿の夫婦が、下品な顔をして、大きな鏡 にむかってわが身をうっしている図がある。鏡にうつっているのは、二頭の猿であった。 ビゴーにはどうやら条約改正をして半植民地からぬけだしたいという日本のかなしみが 感じられなかったのかと思える。 それよりも、かれは治外法権のほうを愛した。治外法権こそかれが日本を風刺しつづけ る自由の場だった。 から

4. この国のかたち 3 (1990~1991)

華 き、清となんの関係ももたなかった。 要するに、片鱗も華ではなく、〃蛮夷〃でありつづけた。韓国人がいまも日本のことを ウェ / ム 倭奴と蔑称しつづけているのは、一つには〃小華〃としての伝統的な虚構が深層にあって のことにちがいない さらに〃虚構〃についてつづける。 以下のことは、どうも日本のほうが気の毒である。 当時の日本は、ペリ ・ショック以来、十五年の苦しみのあげくに明治維新をおこし、 近代化の第一歩を踏みだした。 八六八年 ) の年 当然ながら、隣国の李氏朝鮮にこのことを通告した。明治維新成立 ( 一 の九月のことで、あくまでも動機は善隣だった。 これに対し、朝鮮は冷然と一蹴した。 と 朝詳は日本の革命になんの関心も理解も示さず、文書の字句が礼にかなっていない、 いうだけで突きかえしたのである。 このごろ たとえば、その日本の文書に、「本邦 ( 註・日本 ) 、頃、時勢一変、政権一、ニ皇室ニ帰 ス」とあったのだが、 朝鮮側は、〃皇とはなんだ、皇たるお人は北京におわすだけではな

5. この国のかたち 3 (1990~1991)

華 その宦官は学才があるため、当然ながら明の宮中で出世をする。 明のほうもよく心得ていて、朝国王の代がかわるとき、冊封のための勅使としてその 朝鮮系宦官をその母国に派遣するのである。プラック・ユーモアといっていい。 きまま 天朝の勅使になったその朝鮮系宦官は道中、ほしいままな気儘をはたらき、賄賂をふと ころにいれつづけ、ついに母国の王城にいたる。朝鮮国王は城門のそとでその宦官に拝跪 するのである。壮大な虚構ではないか。 このような " 小華。の世界からみれば、日本など、えたいが知れない。物知らずにも ( ? ) 日本は古くから独立した年号をもってきた。 ようだい 七世紀初頭、はじめて ( 古代のことは措く ) 中国 ( ) の皇帝煬帝に使いを送 0 た ( 「日本 たりしひこ 書紀』では小野妹子 ) 。「隋書』では、このときの日本の王は、多利思比孤とある。「日本書 紀』では推古天皇・聖徳太子の時期で、国使派遣のとしは双方六〇七年で、一致している。 むろん、日本が中国から冊封をうけているわけではないから、日本の国書の内容も、滑 ところ 稽なほど " 野蛮。で、非礼だった。「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す。 つつが 恙なきや」 : : : 同格である。

6. この国のかたち 3 (1990~1991)

多かった。 要するに、日本史は室町時代から、ゼニの世がはじまった。 貿易には官と私があり、私貿易ことに倭寇貿易がさかんだった。 官私とも、明に対して日本からもってゆく品目としては、とくに銅がよろこばれたらし 日本刀も、さかんに輸出された。 扇 ( 扇子 ) も輸出品だった。扇は日本の発明品で、中国では宋代からすでにその工芸品 としての美しさが珍重されたようである。その他、金や硫黄などもあるが、ここではとく に銅についてふれたい。 日本は江戸期、産銅国としてオランダを通じてヨーロッパまで知 られるようになったが、 輸出品として登場するのは室町初期からである。 あら 明人が当時の日本銅をよろこんだのは製錬が粗くて、銀が入っていたことにもあるらし てんこうかいぶつ く、明代の技術百科全書ともいうべき「天工開物』には、「日本に産する銅には、銀の母 岩に包まれているのがある。これは炉に入れて製錬する時、表面に銀が集まり、銅は下に 沈む」 ( 藪内清訳・「東洋文庫」 ) とあって、なさけないほど、製錬はそまつだった。ついで ながら、銀を抜きとる″南蛮吹〃という製錬法がはじめられたのは、室町時代の最末期 ( 一五七二年 ) にうまれた蘇我理右衛門 ( 住友政友の義兄 ) が、南蛮人から伝授されたという ぶき

7. この国のかたち 3 (1990~1991)

「日本における武家政権 ( 鎌倉幕府 ) が、宋学でいう夷にあたります」 と、当然、いったであろう。つまり鎌倉幕府を、異民族王朝の遼や金に見立てた。外国 の理論〃を日本の実状にあてはめても仕方がないのだが、あてはめるほうがモダニズム だったのである。 やがて後醍醐天皇 ( 一二八 ~ 一三三九 ) の若い側近たちが " 革命化第し、宋学研究会と もいうべき会合をかさねた。 「王」 といっても、日本と中国とは、その内容がちがっている。が、若い公家たちにとって ″異〃よりもが同〃にあてはめるほうが魅力的だった。このあたり、大正末年から昭和初 年の左翼学者や左傾青年に似ていた ( かれらは日本史の発展をむりやりにマルクス史観にあては めようとした ) 。 また、宋にあっては皇帝は絶対独裁という存在なのである。やがて後醍醐天皇の側近た ちは、日本の「みかど」もそうあるべきだと思うようになった。 やがて建武中興 ( 一三三四年 ) が成立した。 結果として後醍醐天皇は、日本史上空前絶後の、中国皇帝に酷似した存在になるという 滑稽なかたちになった。ま、 カわずか二年で破綻した。

8. この国のかたち 3 (1990~1991)

精密な条約などっくる気がしなかったのだろう。 その後、幕府は右の日米条約を範として、露、英、蘭、仏などと同様の条約をむすんだ。 その結果、半植民地になった。 なにしろ日本国の領土のなかに " 外国領。 ( 居留地 ) ができ、外国の警察や軍隊が駐留す るというぐあいになったのである。居留地にはむろん日本の主権はおよばず、外国の領土 といってよかった。 横浜居留地を例にとると、万延元年 ( 一八六〇年 ) 、各国の領事があつまり、日本政府に は断りなしに " 神奈川地所規定。というものを成文化した。すでに植民地化されていた中 国の上海租界を参考にしたといわれる。 また外国人が犯罪をおかした場合も、幕府 ( それにつづく明治政府 ) は、手出しができな かった。犯人が属する国の領事が裁判をするわけで、居留地においては、各国は治外法権 服 ( 領事裁判制度 ) を得ていた。 洋 さらには関税についても、日本側はみじめこの上なかった。 関税の税率をきめる自治権を日本はもたされていない上に、各国には最恵国待遇を約束

9. この国のかたち 3 (1990~1991)

由来、思弁哲学から出たものが実際の政治・経済に適うはずがなく、よく考えてみると、 朱子学は本場の中国でさえーー明・清の官学だったとはいえーー・清朝の滅亡 ( 一九一二年 ) までこれが実際に適合していたかどうか、うたがわしい。空論の徒を生み、停滞をつくり あげただけだったのではないか。 日本では、建武中興の崩壊後、六十年の南北朝戦争がつづいた。争乱の結果、朱子学史 観 ( 大義名分論 ) とおよそ別な方向へ日本史は発展した。 ー ) よくほう 室町幕府、織豊政権、それに徳川幕府とつづくのだが、この三つの政治的営みがなけ れば、日本文化も日本的気分も育たなかったに相違ない。 ところが、徳川幕府は、朱子学をもって官学とした。 十七世紀にはもはや、体系的な儒学は、ほかに見あたらなかったのである。また明・清 学や朝鯡もこれを官学としていたからでもあった。 効用もあった。日本の明治維新 ( 一八六八年 ) の成立に、朱子学が役立った。尊王攘夷 という単純明快なスローガンによって国論が統一したこと。そのことによって欧米の植民 地になることからまぬがれたことなどである。 161

10. この国のかたち 3 (1990~1991)

61 「脱亜論」 丹念に読んでみることにする。 福沢がいうところのアジアとは、その人民をささず、その政府をさしている。国でいえ ば、中国と朝鮮、それに日本のことである。 とくに日本については旧幕府をもって " アジア。としている。明治後の日本は旧幕府と いうアジアから脱し、その十八年目にこの論文をかれは書いているのである。明治の日本 についてこのようにいう。「主義とする所は脱亜の二字に在るのみ」 ( 「脱亜論し 福沢はアジアの諸政府というより、その政府がもつイデオロギーをさしている。つまり 漢学的な文明体系 ( 儒教 ) を指しているのである。 儒教体制から脱せよ、 ' というのが、「脱亜論」の趣旨といっていい。脱しなければ「数 その 年を出でずして亡国と為り、其国土は世界文明の諸国の分割に帰す可きこと、一点の疑あ ることなし」 ( 同右 ) 。 かれにおける儒教体制批判は小気味いいほど明快である。 「一より十に蛩るまで外見の虚飾のみを事として」 ( 同右 ) いるという。実状はそのとお ろうだい りで、当時の韓・清の政府はいたずらに老大を気取り、それをもって礼教であるとしてき たきらいがないではない。日本の旧幕府もそうであった。 川 3