東京大学 - みる会図書館


検索対象: この国のかたち 3 (1990~1991)
10件見つかりました。

1. この国のかたち 3 (1990~1991)

62 文明の配電盤 律学校も、そういうぐあいだった。どの法律学校も夜に開講したのは、学生の都合もさる ことながら、東京大学教授の都合によった。かれらは夜しか私的な時間がなかったのであ る。 この点、私立医学校においても事情はかわらなかった。東京大学から教授の来講を乞う たわけで、早朝の場合、起きぬけの丹前姿でやってくる医学部教授もいたという吉岡弥 生伝し。 明治末年、配電盤が京都におかれ、ついで東北と九州におかれた。 この時期になると、受容よりも独創が重んじられるようになった。京都大学の初代文科 かのうこうきち 大学長の狩野亨吉が教授陣を独創家でもってうずめ、また東北大学創設に影響力のつよか った前記の長岡半太郎が、徹頭徹尾創造を重んじたのも、その事情による。 文明受容についての明治政府の計画は、大したものだったというほかない。

2. この国のかたち 3 (1990~1991)

物理学の教授や研究には、実験用機械などに膨大なカネが要る。それらは当時東京大学 しか所有しておらず、維持同盟のひとたちの毎月一円以上の拠金でなりたっている東京物 理学校にあっては、そんなものを買う金はなかった。 この事情を東京大学理学部はよく理解した。 そこで、日中、大学がそれらを使用すると、夕方から物理学校へそれらを大学の使丁が 運掫したという。このことは、毎日、数年もつづけられた。官物が私的につかわれること はゆるされることではないのだが、あえて大学はこの便法をとった。配電盤が、国家の将 来のために志をもって漏電していたのである。 明治の文部省は、官公立学校を偏重した。 その理由は、国家のカネを投じて導入しつづける " 文明。を、公有物と考えたからにち くりかえすが、東京大学を通じて全国の各級官公立学校に分配しつづけ、それが構造に なっていた。この配電構造のために官公立偏重の風がうまれたのである。 ただし、神田の私学は地縁のおかげで、いわば私的に電流を流してもらった。 のちに、明治、法政、中央、専修、日本というような大学として発展してゆく神田の法

3. この国のかたち 3 (1990~1991)

62 文明の配電盤 なにぶん東京大学草創のころの御雇外国人による講義は、それそれの国のことばによっ たために、卒業生によって、用語は英語、フランス語、ドイツ語とまちまちだった。 かれらが無給講師として東京物理学校で教える場合、これを日本語に統一せざるをえな かった。そこで、維持同盟の十余人をふくめて三十余人の物理学者 ( おそらく、当時の物理 学者の全員だったろう ) があつまり、何度も用語会議をひらき、 「物理学術語和英仏独対訳字書」 ノ八八年 ) 刊であ という冊子を編んだ。これを博聞社から発行した。明治二十一年 ( 一、 った。ついでながら、前記『一〇〇年略史』に写真版として載っている冊子は、明治十五 年に東京大学理学部に入学した長岡半太郎 ( 後述する ) の蔵本である。 用語についてさらにふれると、右の冊子が発行される以前の明治十五年、東京物理学校 ; 印刷した学科課程の規則書によれば、いまの用語とすこしちがう。 重力学、聴学、電気学、熱学 重力学はいまの力学、聴学は音響学のことらしい

4. この国のかたち 3 (1990~1991)

デストリビューター 自動車などの内燃機関には、配電盤というものがついている。 プラグ いうまでもなく、気筒群のそれそれの点火栓に電気をくばる装置である。くばることに よって一定の順序で爆発させる。 まことに明治初年、西欧文明受容期の日本は一個の内燃機関だった。 その配電盤にあたるものが、東京帝国大学 ( 以下、東京大学 ) で、意識してそのようにつ 電くられた。いまでもこの大学に権威の残像がのこっているのは、そのせいである。 の 明治三十年 ( 一八九七年 ) 、京都帝大が設立されるまで三十年間、日本には右の " 配電 明 文 盤″は一つしかなかったが、じつによく作動した。 っム おやとい 6 当時におけるこの大学の諸学をかりに電流とすれば、当初はその電流の役目を " 御雇外 文明の配電盤 シリンダ . ー

5. この国のかたち 3 (1990~1991)

似ているではないか。むろん、百円は大変な高給であった。 話が、それた。 さきにふれた東京物理学校創設のいきさつは、まことにきよらかで、裏面に実利的な事 情などはない。 ただちょっとした ' 実利性。はうかがえる。万事草分けの時代だから、東京大学によっ て技師が生み出されても、いざ現場に就くと、手足になる中級以下の技術者がいなかった。 そこで一学校をおこした、という事情があった。拠金した上、夜になるとかれらがそこ へ無料で教えにゆくのである。 同校の明治十五年の規則書によると、 すべ 「教員ハ総テ給料ヲ受ケザルモノトス」 という一項があって、明治草創のひとびとの心意気がうかがえる。 以上は、東京理科大学から借り出した大学史に拠った。ただ、早々に返してしまったの で、いま手もとにある「東京理科大学一〇〇年略史』に拠っている。それによると、かれ ら維持会員は物理学の用語の統一までした。

6. この国のかたち 3 (1990~1991)

そのなかで高貴ともいうべき例がある。神田に設けられた私学の一つ東京物理学校 ( こ んにちの東京理科大学 ) のことである。 明治初年、東京大学の理工系を出た人達には、国家のカネによって学問をさずかったと いうことで、国恩を感ずる人が多かったらしい とくに明治十二年 ( 一八七九年 ) 前後の理学部物理学科の卒業生にその意識がつよかっ かれら二十一人は、同盟を結び、報恩のために一私学を興そうと申しあわせた。ただし、 金がないために当初は他の学校の校舎を間借りした。さらには、夜学にした。 明治十四年における東京物理学校の出発である。 資金はすべて " 配電盤。である右の学部の卒業生たちの拠金によった。かれらは維持同 盟を結び、その規約のなかで、 「会員は三十円を寄付すべし」 、いほうだったから、この という項目を設けた。当時、下級官吏が月に十数円もとればし 額は安くなかった。ただ月賦もゆるした。月賦の場合、一円以上は納めよ、とある。むろ ん寄付の見返りはなく、まったく無償のものであった。

7. この国のかたち 3 (1990~1991)

明受容のための日本語 ( 対訳語 ) を大量につくった。 、維新の翌年の明治二年 ( 一八六九年 ) という早い時期に、日本政府はオランダ医学 を捨ててしまう。 さがら そのようにすべく政府の要路に対し物狂いしたように説いてまわったのは、相良知安 ( 佐賀藩 ) と岩佐純 ( 越前福井藩 ) という一一人の蘭学者だった。 かれらは役人として現在の東京大学医学部の建設にあたっていたのだが、オランダ医学 書の多くがドイツ医学書からの翻訳であることを知り、 「だから、ドイツ医学に転換すべきだ」 と、主張した。 それほどドイツびいきの二人でさえ、ドイツ語を知らず、またなまのドイツ人を知らな の幕末における日独関係はまことに稀薄で、わずかに万延元年 ( 一八六〇年 ) プロイセン へ 王国の小さな艦隊が江戸湾に入ったこと、条約が結ばれたこと、代理公使がかの国からや ってきたぐらいのかかわりでしかなかった。 8 でありながら、明治政府は二人の献策を入れ、すぐさまプロイセンから二人の医学教授

8. この国のかたち 3 (1990~1991)

もっとも、理学部卒業生は官庁などに就職していて、すくなくとも四十円はとっていた から、月々一円割くことは、過重とはいえなかった。 当時、官庁の技術畑に、技師と技手 ( まぎらわしいために " ぎて。ともいった ) の区別があ 技師は、西洋の工学技術を身につけた人で、具体的には明治中期までは東京大学の理工 系の出身者にして官庁に奉職している人のことをいった。ついでながら、明治三十一年の 「技術官俸給令」では " 技師は奏任とし、技手は判任とす。とあり、まことにおもおもし おめみえ 技師は高等官であり、高等官とは、旧幕府の制度でいうと、将軍に御目見得できる身分 のことで、旗本がそうであった。 おなじ幕臣でも御は御目見得できないから、明治の判任官にあたる。 電右の奏任というのは高等官の一階級で、内閣が天皇に奏上して任命する身分のことをい の う。くりかえすが、官庁の技師がそうである。尾崎紅葉の明治二十四年発表の『二人女 明 文 房』のなかに、 " 当人は奏任の百円といふ身分で。という文章があり、 " 百円の身分。とい 5 う言い方に、旧幕府のにおいがする。 " 当人は御目見得の百石という身分で。というのと つつ ) 0 ぎしゅ ぎし

9. この国のかたち 3 (1990~1991)

しますよ〃と忠告すると、 私が一日休めば、日本は一日遅れるのです。 レ ) いつ」 A い , っ 。、かにも明治初年の留学生らしい 古市公威は、配電盤そのものだった。帰朝した明治十三年以来、内務省土木局に関係し て現場設計などに従事する一方、同十九年から工学部 ( 正しくは工科大学 ) 教授を兼ね、後 進を育成した。いわばフランスで得た″電流〃を学生たちにくばった。 私はちかごろ東京にくると、よく神田界隈を歩く。古本屋と私学のまちである。 神田には江戸時代から文武の私塾が密集していて、明治後、いっそうふえた。そのうち のいくつかが、こんにちでは総合大学、もしくは単科大学になっている。 これは、明治の配電盤と関係があるのではないか。 幕府の洋学機関開成所は神田一ッ橋におかれ、それが明治後、東京大学に発展した。や 電 がて本郷台にうつるこの大学は、明治初年は右の神田一ッ橋から出発した。神田はいわば 配 の地元だった。 文 自然、国力を傾けてつくられたこの巨大な配電盤は、地元の神田の私学に、いわば漏電 するようにして〃新文明第をこばした。 かいわし

10. この国のかたち 3 (1990~1991)

坪内逍遙 ( 一八五九 ~ 一九三五 ) でさえそうであった。 逍遙は明治十六年 ( 一八 八三年 ) 東京大学を出てほどもなく、小説とはなにかについて 『小説神髄』 ( 明治十八年 ) を書き、世問の蒙をひらいた。またその新概念の実例を示すべ かたぎ く『当世書生気質』 ( 同 ) を書いた。でありつつも、逍遙は美文から離れることができず、 ついに小説の筆を折った。 このことはかれが旧尾張藩の出身で、在来、方一一一一口使用者であったことと無関係ではない。 もっとも、長谷川如是閑の『ある心の自叙伝』によると、少年の如是閑が逍遙に接した印 象では、もうすっかりあの猛烈な名古屋弁を克服して、純江戸ッ子語になっていたそうで ある。それでもなお、文章語としてのロ語体を創りだすほどの自信はなかったかとおもえ る。 ただ逍遙のえらさは、ロ語文があたらしい明治の文学のために必要であることを知って いたことであった。 かれは同藩出身の二葉亭四迷 ( 一八六四 ~ 一九〇九 ) が訪ねてきたとき ( 明治十九年 ) 、四 迷がきれいな江戸弁をつかうのをきいておどろいた。きいてみると、自分とおなじ尾張藩 ながら、江戸詰の子だという。 に 8