この大船禁止の幕法は、幕末、ペリー来航 ( 一八五三年 ) の直後、この制約が解かれる まで、じつに二百四十四年もつづくのである。 諸大名は翼をもがれた鳥のように、地上を歩くしかなかった。 きようこ そのぶんだけ、幕府は鞏固になった。やがて号令される鎖国と、キリシタン禁制、それ さんきんこうたい に参覲交代の制にくわえ、この大船建造の禁止は、幕府をささえる強力な基礎工事用の矢 板になった。 ともかくも幕府が当初からおそれていたのは、西国の有力大名が伊勢の鳥羽湾に集結し、 そこから航洋船に乗って一挙に江戸湾を衝くということだった。 江戸の防衛は、西方の敵が陸路からくるなら箱根の嶮でふせぐこともできるが、 " 江戸 前〃 ( 江戸の海のこと ) からの敵がおそろしかった。 なにしろ鳥羽から江戸まで三百キロほどしかなく、航洋船の艦隊を組んだ敵が江戸湾に はいりこめば江戸は大混乱におちいる。 げんに嘉永六年 ( 一八五三年 ) 、ペリーがひきいるアメリカ艦隊が江戸湾に侵入しただけ で幕閣はお手あげになった。 右のことは、この稿の主題ではない。だから以下はむだ口になるが、日本が海からの来
徳川幕府は、この仕組みを継承した。明治後の大阪には太閤びいきの人が多いが、過去 をおもうなら徳川幕府にも感謝すべきだろう。 徳川幕府は、この太閤の旧都の商権を過剰なほどに保護した。その証拠として、幕府瓦 解とともに保護が消滅し、このために、大坂が急速に衰え、維新後人口も激減した。 ともかくも江戸時代を通じ、大坂が、将軍・大名の居住地である江戸の巨大な消費生活 をささえつづけたのである。 いくつかの例をあげると、菜種油は、その時代、灯火として必要だった。大坂の油問屋 せつかせん が、摂河泉 ( 大阪府 ) や大和 ( 奈良県 ) 、播州 ( 兵庫県 ) 、淡路 ( 同 ) その他、近畿・四国の 農家を影響下において菜の花をつくらせ、六甲山系の海寄りの傾斜地を利用して昼夜なく ・かい - 、フ 水車をまわし、搾油した。それらが樽に詰められ、廻漕問屋の手で海路江戸に送られた。 酒も、伊丹・池田・灘五郷の醸造業者によって大量につくられ、樽廻船で江戸に送られ 坂た。江戸付近でも酒はつくられたが、水がわるいのと技術の遅れのためにまずかった。こ くだ かみがた のため、江戸では下り ( 上方から江戸へ ) の酒がよろこばれ、下らない酒はまずい、とされ 大 た。このことからつまらぬコトやモノを " くだらない。 ( 江戸弁 ) というようになったとい 9 う説もある。
東京遷都 それよりすこし前の三月十日、 まえじまらいすけ 「江戸寒士前島来輔」 という署名で、大久保の宿所に投書をした者があった。 みると、大きな構想力をもった意見で、精密な思考が明晰な文章でもってのべられてお り、要するに大坂は非で、江戸こそしかるべきであるという。 大久保の卓越した決断力が、このときあざやかに躍動した。かれはこの一書生の投書の 論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。 えぞち " 江戸寒士。の投書の要旨は、こんにち蝦夷地 ( 北海道 ) が大切である、浪華は蝦夷から 遠すぎる、とまず一一 = ロう。 ついで、浪華の港は小船の時代のもので、海外からくる大艦巨船のための修理施設がな 。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。 さらに浪華は市中の道路がせまく、郊外の野がひろくない。その点、江戸は大帝都をつ くる必適の地である。 かんがだいてい 浪華に遷都すると、宮城から官衙、第邸、学校をすべて新築せざるをえない。江戸には それがすでにそなわっている。 なにわ 139
まちかた たぶん、江戸の町方でーーーできあがった。 七福神をのせた宝船の図柄は、江戸期に そもそも神々が乗っている船が江戸期の型なのである。千石船が大きな一枚帆をあげ、 まとも 風を真艫 ( 船尾 ) にうけて見る側に進んでくる。 しかがわしくもある。 めでたくもあり、泥くさくもあり、 ; 、はちきれるような愛嬌がある。 ごく最近、東京の下町で、下町風にくらしている職しごとの人に会った。 「先般、京へ参りましてね、七福神めぐりをしてきましたよ」 「 ~ 示都に ? 」 それも七福神詣でに ? と内心おどろいた。社寺に合祀されている福神を組みあわせて 5 七福神
象は、京都の上層町衆の文化にはなかった。 やがて、大衆文化は江一尸にうつる。 文化・文政 ( 一八〇四 ~ 三〇 ) は、江戸の世であった。 その時期に、江戸弁が熟成した。 しきていさんば そういう江戸風のロ語のおかしみでもって小説を書いたのが、式亭三馬 ( 一七七六 ~ 一 八二一 l) であった。 かたぎ 三馬の滑稽本は、筋よりも人間の機微を描くのが目的で、そのために気質とか癖で人間 かた をわけ、それぞれの典型を会話を中心にして描いた ( 三馬の気質物は、明治中期の逍遙の『当 世書生気質』や漱石の「坊っちゃん』に影響をあたえた ) 。 明治維新で、旧文化が陥没する。 - 三ロ 革命は過去の文化を一挙に押しながすものらしく、文学作品においても、明治十九年ご のろまでは、照明の消えた舞台のようなものだった。 青少年期の森鵐外は、そのように、読むべき文芸作品のない時代に成人した。 6 「雁』 ( 大正四年刊 ) のなかで、鷓外はいう。明治十三年のことで、鵐外は医学生だった。 165
語 の 説 9 6 うきなのうたひめ よあらしおきぬはなのあだゅめ 「夜嵐阿衣花廼仇夢」とか「日本橋浮名歌妓」といったたぐいのもので、江戸期の亜流に すぎなかった。 明治の文学の一特徴は、東京うまれの作家の時代であったことである。 このことは、明治時代、東京が文明開化の受容と分配の装置であったこととかかわりが ある。地方は、新文明の分配を待つだけの存在におちぶれた。 明治になって文章一言語も変容してゆくのだが、その言語を変える機能まで東京が独占し ふりかえると、三百諸藩にわかれていた江戸時代、藩ごとにあった方言は、それなりの ひご 威厳をもっていたが、明治になって、単なる鄙語になり、ひとびとは自分のなまりにひけ めを感ずるようになった。 地方から出てきて東京で小説を書きはじめた者も、江戸弁をつかうことにひるんだか、 もしくは使えなかった。このために地方出身者はもつばら美文 ( 当時の用語として、文語の こと ) で発表し、やがて東京出身の作家たちによって口語文章語が書かれはじめると、か れらの多くは小説を書くことをやめた。 炻 7
これに対し、儒教のくせは文辞 ( 表現的装飾 ) であるという。 神道については「 : : : 神秘秘伝伝授にて、只物をかくすのがそのくせなり」と言い、も っレ」・も占がカ、りし 大坂のおもしろさは、仲基のような人文主義者を生みつつも、十八世紀の一世紀たらず で衰弱したことである。思想的創造力の衰弱と経済の沸騰の鈍化は、一つのものであるら ついでながら、醤油問屋道明寺屋もながくつづいたとは聞かない。 かげ 十九世紀になると、大坂経済は、すくなくとも醤油の面でははなはだしく翳った。 かみがた 仲基の在世中までは江戸のシェアを上方の " 下り醤油。が占めていたのだが、十九世紀 初期、たとえば文政四年 ( 一八二一年 ) の数字では、年間江戸に搬入される醤油百二十五 しも か 1 さ 万のうち、大坂からの廻漕ぶんはわずか二万樽にすぎなくなっていた。あとは上総や下 うき一 坂総など、関東の水系で生産された濃ロ醤油が占めた、という世になった。 江戸の後背地が、力をもちはじめたのである。やがて、生産都市東京の時代がくる。 大 巧 5
まとも " 真艫。というのである。転じて、正道であること、まっとうであることの意になった。 大坂の機能が、日本じゅうを商品経済の海にした。 また銅の精錬も大坂が一手にひきうけていた。主として長崎での清国・オランダ貿易の ふきや あらどう 決済につかわれた。諸国の銅山の荒銅はすべて大坂の吹屋 ( 精錬所 ) にまわされ、不純物 さおどうちょうどう ( しばしば銀がまじっていた ) をぬいて棹銅、丁銅などに仕たてられた。 大坂は、都市としては江戸より小さかった。人口も江戸が百万 ( 町人の人口はその半分 ) を越えたろうといわれる十八世紀初頭で、大坂は三、四十万であった。 てんま 面積も広くなく、市街地は〃大坂三郷〃 ( 北組・南組・天満組 ) 六百二十町 ( 江戸末期 ) に すぎなかった。 この規模で前述したような全国経済の機能をまかなっていたために、大坂が封建制のも とでやや異質な地域になったのもやむをえない。商品経済が、地域で蒸溜され、思想化し 坂たのである。 大 商品経済の思想とは、モノを観念でみずにモノとしてみる考え方である。 モノには、質と量がある。質と量でモノを見、学問や思想までをそのように見なおすと
などというおふれは、、 しま見つけることができないが、、 おそらく存在したはずである。 それに、甲板を張ってしまえば荷を積みこむ量がすくなくなる。多くの荷を積みたいと思 えば甲板をはずして荷の山をきずけば、、。 さらにつらかったのは、帆を一枚にせざるをえなかったことである。多帆なら風をうま く操作して操船も楽になるのだが、多帆船は幕府の禁ずるところだったようで、一本マス ばくしゅ トの一枚帆であることを墨守せざるをえなかった。 一枚帆の場合、いきおい帆の面積が広 大にならざるをえない 広大なら、帆面にかかる風の力はすさまじく、比例的に梶 ( 舵 ) の面積も大きくせざる をえなかった。江戸期の大型和船の梶はべらばうに大きくて、子供がおすもうさんの下駄 をはいて走るようなかっこうをしているのは、右のように政治的理由による。 また、江戸期の海難の多くは波によってこの広大な梶が破壊されるところからおこった。 梶をうしなえば漂流せざるをえなかった。 その弱点を造船技術で補うべく、十八世紀ごろから船尾構造に遮浪性が加えられるのだ が、それでも限度があった。 江戸時代の経済と文化の伝播は、クナシリ、 エトロフをふくめた日本列島のまわりを、
あめ くだ 江戸末期には飴まで上方からくだってきて、 " 下り飴。という呼び声で売られたという。 要するに江戸経済の仕組みが、大坂をなりたたせていたのである。 もうすこし、例をあげる。 醤油のことだが、幕末、紀州人の手で利根川水系の地でこんにちの濃ロ醤油が製造販売 うすくち されるまでのあいだ、上方でいう薄ロ醤油が江戸に送られていた。 もめん 金肥にふれる。これは木棉栽培に密着したものであった。 にしん 木棉のための肥料には大坂湾でとれる小鰯が用いられていたのだが、やがて干した鰊の えぞち 肥効の高さがわかり、大坂の商業的影響が蝦夷地 ( 北海道 ) やクナシリ島、エトロフ島を きたまえ 覆った。肥料としての鰊が獲られ、煮られ、干されて北前船で大坂にはこばれ、集散され たのである。 このため、航海のことばが、暮らしのなかにまで入ってきた。港の船がいったん沖へ出 でもど て、天候のかげんでまた港にもどることを″出戻り〃というが、転じて、いったん婚いだ 娘が実家にもどっている状態をもさした。 船の船尾を艫という。船の船尾にむかってまっすぐに背後から吹いてくれる風のことを おお とも - 一いく - とっ 巧 0