徳川幕府は、この仕組みを継承した。明治後の大阪には太閤びいきの人が多いが、過去 をおもうなら徳川幕府にも感謝すべきだろう。 徳川幕府は、この太閤の旧都の商権を過剰なほどに保護した。その証拠として、幕府瓦 解とともに保護が消滅し、このために、大坂が急速に衰え、維新後人口も激減した。 ともかくも江戸時代を通じ、大坂が、将軍・大名の居住地である江戸の巨大な消費生活 をささえつづけたのである。 いくつかの例をあげると、菜種油は、その時代、灯火として必要だった。大坂の油問屋 せつかせん が、摂河泉 ( 大阪府 ) や大和 ( 奈良県 ) 、播州 ( 兵庫県 ) 、淡路 ( 同 ) その他、近畿・四国の 農家を影響下において菜の花をつくらせ、六甲山系の海寄りの傾斜地を利用して昼夜なく ・かい - 、フ 水車をまわし、搾油した。それらが樽に詰められ、廻漕問屋の手で海路江戸に送られた。 酒も、伊丹・池田・灘五郷の醸造業者によって大量につくられ、樽廻船で江戸に送られ 坂た。江戸付近でも酒はつくられたが、水がわるいのと技術の遅れのためにまずかった。こ くだ かみがた のため、江戸では下り ( 上方から江戸へ ) の酒がよろこばれ、下らない酒はまずい、とされ 大 た。このことからつまらぬコトやモノを " くだらない。 ( 江戸弁 ) というようになったとい 9 う説もある。
語 の 説 9 6 うきなのうたひめ よあらしおきぬはなのあだゅめ 「夜嵐阿衣花廼仇夢」とか「日本橋浮名歌妓」といったたぐいのもので、江戸期の亜流に すぎなかった。 明治の文学の一特徴は、東京うまれの作家の時代であったことである。 このことは、明治時代、東京が文明開化の受容と分配の装置であったこととかかわりが ある。地方は、新文明の分配を待つだけの存在におちぶれた。 明治になって文章一言語も変容してゆくのだが、その言語を変える機能まで東京が独占し ふりかえると、三百諸藩にわかれていた江戸時代、藩ごとにあった方言は、それなりの ひご 威厳をもっていたが、明治になって、単なる鄙語になり、ひとびとは自分のなまりにひけ めを感ずるようになった。 地方から出てきて東京で小説を書きはじめた者も、江戸弁をつかうことにひるんだか、 もしくは使えなかった。このために地方出身者はもつばら美文 ( 当時の用語として、文語の こと ) で発表し、やがて東京出身の作家たちによって口語文章語が書かれはじめると、か れらの多くは小説を書くことをやめた。 炻 7
49 戦国の心 物事が紛糾した場合、 「すべてお家のため」 ということで、個をおきえこみ、全体を生かすとする思想が濃厚になるのは江戸時代か らで、忠順 ( まじめで従順 ) であることが日本における最良の生き方とされた。 ろく 江戸時代にあっては、主家に対してそうであっただけでなく、世々お禄を頂いている自 分の家に対しても同様であった。 たとえば百石取りの家はそのお禄のおかげで、過去何代もの男女が衣食してきたし、将 来もまた多くの子孫が養われてゆく。このためもし百石取りの家の若い当主が不出来で不 らち 埒なことをすれば、その母親を含めて一族の長老があつまって当主を押しこめにしたり、 9 4 戦国の心
江戸時代の大坂 ( 明治後の大阪 ) についてのべる。かさねあわせて、都市機能が生んだ なかもと 象徴的存在ともいうべき富永仲基 ( 一七一五 ~ 四六 ) の思想におよびたい。 以下のことは以前ふれたが、豊臣秀吉の天下構想のひとつは経済の割拠性をうちゃぶる ことにあった。 そのために、コメに完全な市場性をもたせた。全国の余剰米をいったん大坂にあつめ、 ここで相場をたてて全国に散らせ、九州のコメも奥州のコメも、一つ相場の下にあるよう もめん やがて江戸時代に入って、コメに次ぐ重要な物資である木棉、菜種油、材木、金肥 ( モ 鰯 ) なども、コメ同様、大坂において集散されるようになった。 7 6 大坂 8
東京遷都 それよりすこし前の三月十日、 まえじまらいすけ 「江戸寒士前島来輔」 という署名で、大久保の宿所に投書をした者があった。 みると、大きな構想力をもった意見で、精密な思考が明晰な文章でもってのべられてお り、要するに大坂は非で、江戸こそしかるべきであるという。 大久保の卓越した決断力が、このときあざやかに躍動した。かれはこの一書生の投書の 論旨に服し、江戸をもって首都とするに決めた。 えぞち " 江戸寒士。の投書の要旨は、こんにち蝦夷地 ( 北海道 ) が大切である、浪華は蝦夷から 遠すぎる、とまず一一 = ロう。 ついで、浪華の港は小船の時代のもので、海外からくる大艦巨船のための修理施設がな 。江戸には、横須賀の艦船工場がある。修理工場があってこそ安全港といえる。 さらに浪華は市中の道路がせまく、郊外の野がひろくない。その点、江戸は大帝都をつ くる必適の地である。 かんがだいてい 浪華に遷都すると、宮城から官衙、第邸、学校をすべて新築せざるをえない。江戸には それがすでにそなわっている。 なにわ 139
んその革命は自前であった。どの国のヒモもっかず、いかなる選択も日本自身がした。 ここで、遊びとしての作業をしてみたい。まず、 「江戸時代をそのままつづけていてもよかったのではないか」 ということである。答えは、その場合、十中八九、どこかの植民地になっていたろう。 時代にはその時代にしかないという気分があり、当時、植民地になりたくないという共 通の気分がわき立っていた。この感情の爆発が明治維新をおこさせ、ひるがえっては、そ の後の欧化をも許容したといっていい。 「それなら、なじみのあるオランダをモデルにすべきではなかったか」 という言いかたもなりたつ。 江戸期、日本にとってオランダがヨーロッパ文明そのものだった。医学も理化学もオラ ンダ語によって知ったし、またペリー来航以後、幕府が長崎に設けた海軍教育機関も、オ ランダ式だった。 オランダ王国の政体もよく知られていた。たとえば、当時土佐の高知城下の小さな蘭学 塾でさえ教材としてオランダの政体に関する本がっかわれていて、若い坂本龍馬の開明思 想にすくなからぬ影響をあたえた。また幕府は人文科学系の留学生もオランダに派遣した。 にしあまね 留学生の一人であった西周はライデン大学で法学と哲学をまなび、明治初年における文
ときには切腹させ、上の罰の家におよぶのを避けた。江戸時代は、思想史や芸術史の上で じつにおもしろい時代だったが、なにぶん、政治・法制の原理がひたすらな秩序維持であ ったため、どんな小侍の家の家系をみても、何代かに一件ぐらいは、押しこめ、自発的な 切腹といったような一族合議の処置に遭った人が出た。個性のつよい人は、生きにくかっ たのである。 その点、戦国の世は乱世だったとはいえ、風とおしのいい雇傭関係ばなしが多い。 かとうよしあぎら ま寺一き 加藤嘉明は豊臣秀吉の子飼いの大名で、累進して伊予松前の六万石の城主になった。 りち 嘉明は江戸時代を先取りしたような考え方のひとで、家臣に対しては、律義で小心である ことを要求した。つねづね、 「豪傑は要らない。合戦において真に役に立つのは、よく持場をまもる小心な人間だ」 という意味のことをいっていた。 日本では個性のことをくせとよんできた。一くせも二くせもあった塙団右衛門のような 人間には嘉明のそういう実直主義がやりきれず、ついに嘉明を見限って牢人した。退転す るとキ、、 「こうみえても、おれは一人前のかもめなんだ、、、 とこへでも高くとぶさ ( 遂ニ江南ノ野水ニ かみ ばん ろうにん
たとえば、浄土真宗の総本山の西本願寺・東本願寺は豊臣期から江戸初期にかけて京に しゅうしでら うっされたものだし、浄土宗の総本山の知恩院は、徳川家の宗旨寺として江戸初期、東山 だいがらん のふもとに大伽藍が興されたものである。 それに、それらのほとんどは″鎮護国家〃というような国家原理にかかるものではなく、 あんじんりゅうめい 個人の安心立命が中心で、要するに信仰中心の鎌倉仏教なのである。 もんぜきじいん しかし京には平安時代からの門跡寺院が多いではないか。 という異論もあるかもしれないが、門跡寺院は、寺というより本質的には僧の住居であ さとばう る。げんに里房といわれた。 「門跡」 というふしぎな寺院は平安末期に多くつくられた。私有財産である荘園が基礎になって いて、この面からも平安時代の特質がうかがえる。たとえば、東山山麓の妙法院門跡 ( 天 しようれん おむろ 都台宗 ) 、おなじく東山粟田口の青蓮院門跡 ( 天台宗 ) 、左京区の聖護院門跡 ( 修験宗 ) 、御室 気の仁和寺門跡 ( 真一一一一口宗 ) 、嵯峨の大覚寺門跡 ( 真言宗 ) などである。みな僧のすまいで、奈 良の大寺のようなものではない。 131
象は、京都の上層町衆の文化にはなかった。 やがて、大衆文化は江一尸にうつる。 文化・文政 ( 一八〇四 ~ 三〇 ) は、江戸の世であった。 その時期に、江戸弁が熟成した。 しきていさんば そういう江戸風のロ語のおかしみでもって小説を書いたのが、式亭三馬 ( 一七七六 ~ 一 八二一 l) であった。 かたぎ 三馬の滑稽本は、筋よりも人間の機微を描くのが目的で、そのために気質とか癖で人間 かた をわけ、それぞれの典型を会話を中心にして描いた ( 三馬の気質物は、明治中期の逍遙の『当 世書生気質』や漱石の「坊っちゃん』に影響をあたえた ) 。 明治維新で、旧文化が陥没する。 - 三ロ 革命は過去の文化を一挙に押しながすものらしく、文学作品においても、明治十九年ご のろまでは、照明の消えた舞台のようなものだった。 青少年期の森鵐外は、そのように、読むべき文芸作品のない時代に成人した。 6 「雁』 ( 大正四年刊 ) のなかで、鷓外はいう。明治十三年のことで、鵐外は医学生だった。 165
これに対し、儒教のくせは文辞 ( 表現的装飾 ) であるという。 神道については「 : : : 神秘秘伝伝授にて、只物をかくすのがそのくせなり」と言い、も っレ」・も占がカ、りし 大坂のおもしろさは、仲基のような人文主義者を生みつつも、十八世紀の一世紀たらず で衰弱したことである。思想的創造力の衰弱と経済の沸騰の鈍化は、一つのものであるら ついでながら、醤油問屋道明寺屋もながくつづいたとは聞かない。 かげ 十九世紀になると、大坂経済は、すくなくとも醤油の面でははなはだしく翳った。 かみがた 仲基の在世中までは江戸のシェアを上方の " 下り醤油。が占めていたのだが、十九世紀 初期、たとえば文政四年 ( 一八二一年 ) の数字では、年間江戸に搬入される醤油百二十五 しも か 1 さ 万のうち、大坂からの廻漕ぶんはわずか二万樽にすぎなくなっていた。あとは上総や下 うき一 坂総など、関東の水系で生産された濃ロ醤油が占めた、という世になった。 江戸の後背地が、力をもちはじめたのである。やがて、生産都市東京の時代がくる。 大 巧 5