日新聞」を主宰していた。 稀代の才人で、当人自身、幕末、「風流第一才子」などと称し、蘭、英、漢、それに江 戸文学に通じていた。さらには戯作も書き、遊里にもよく遊んだ。 また幕末の最末期に、幕臣でありながら、国家改造案 ( 将軍中心の立憲体制 ) を考えたこ ともあったし、維新直後、士籍を返上して町人になり、浅草で長屋住まいもした。 まことに " 社会。という訳語をつくるにふさわしい人物だった。このことばは、たちま ち明治社会で重宝された。 『周礼』の中の「社」は、その概念の半面が日本語としての神社になり、他の半面におい ては社会ということばに発展した。しかも「社」はそのほかでも多用されている。会社、 社交、社用、社中、社団法人、どれもが、古代の周の二十五戸の村里で人があつまってき た社の光景をおもわせるのである。
社という漢字は、まことに使い勝手がいし もしこの字がなければ、西洋の文明を導入するにあたって明治初年の日本はこまったに ちがいない。たとえば社は、神社にもなり、社会にもなり、会社にもなった。 まず、古代中国の村落の一光景についてふれたい。 しゆらい 「周礼』という本の成立は、じつに古い。その成立年代に疑問があるとされているにせよ、 伝統的には、紀元前十二世紀に存在したという。 それによると、周の集落の最小単位が里であった。里は二十五戸とされた。その里ごと に、慣習として、「社」という空間があった。 5 み不ー しゃ
ここでふとおもうのだが、律令制というのは沈黙の社会主義体制だったといっていし 沈黙のというのは、社会主義につきもののやかましさがなかったということである。マ ルクスの社会主義であれ、ナチによる国家社会主義であれ、あるいは戦前の日本軍部によ る統制主義であれ、ひとびとを説得したり、〃思想〃によっておどしつけるための空論や 空さわぎの演説が必要だったが、日本古代の律令制にはそういう音響がなかった。 なにしろ日本の七世紀末から八世紀の社会には多様性がなく、一望、農民や採集生活者 だけだったのである。 それに日本語が未成熟であった。いわば生活一言語で、抽象的なーーーたとえば、国家や社 会についてのーーーことを論ずることはできなかった。 これよ まことに『論語』に出てくる「之ニ由ラシムペシ。之ヲ知ラシム・ヘカラズ」 ( 「泰伯しの 民であったため、ひとびとは季節をうけいれるようにしてうけいれざるをえなかったのだ ろう。 城地方の豪族についても、この点、かわらなかった。 かれらには律令制による位階があたえられた。五位や六位にしてもらったり、子弟が都 こまめ の官人に挙げられたりするだけで、自分の私地私民が公有されるのを手を拱いてみていた から これ 125
51 社 上りあい ダンサン 堂山では祭礼もおこなわれる。しかし平素は空閑としていて、ときに寄合もおこなわれ る。村の広場 ( 狭いが ) であり、世間そのものを凝縮した場ともいえる。神聖でありつつ も、人臭いという両性格をもっているのである。 『周礼』の時代から、すでに里の社は人臭かった。 人がそこにあつまるということから、社という語義から、転じて " 世間。という意味も うまれた。ただし漠然たる世間でなく、同志とか朋友が、事を同じくする目的でもってあ つまった団体のことをさす。 ろざん 紀元五世紀のはじめ、中国の廬山の東林寺を中心に僧俗一体で結成された念仏団体のこ びやくれんしゃ とを「白蓮社」とよんだようにである。 話がさらにかわるが、小学館の『日本国語大辞典』によると、英語の society の訳語を、 「社会」 おうち としたのは、明冶八年 ( 一八七五年 ) 、福地桜痴だったという。社会とは、 " 人間が構成 する集団生活の総称。であることを思うと、まことにうまい訳語といっていい 桜痴は長崎のうまれで ( 一八四一年 ) 、オランダ学や英学をまなび、幕府につかえた。 明台後は、新聞を発行したり、新政府につかえたりしたが、明治八年ごろは、「東京日
70 甲 公民である農民は国家によって所有され、配分された公地を耕し、国の規定どおりの税 としての稲をおさめた。一種の一国社会主義であった。 こんでん この体制では、国家として耕地がふえにくいので、奈良朝の八世紀半ばごろ、墾田とい う特例が設けられた。この墾田という例外的な私有田が、平安朝になって社会を変えてゆ 貴族や社寺が山野を開墾して墾田をつくれば私有がみとめられ、しかも国に租税をおさ めなくてもすんだのである。 どこよりも、平安初期の関東平野が、多くのひとびとの目を惹きつけた。 大半が未耕地だったこの大きな平野をめざし、墾田をひらくべく力のある者がむらがり あつまってきた。かれらカのある者たちは諸国の浮浪人 ( 律令制からぬけ出た逃亡者 ) をあ つめ、つぎつぎに田地をひらいた。これが、律令制をゆるがすもとになった。 上 冑むろん、表むきの律令制はつづいていた。だから墾田には、京の貴族や社寺の名義が要 る。 かいほっ その地を " 開発〃した豪族が、貴族・社寺に墾田を寄進することで " 特例の私有〃を合 法化し、自分はかげにまわって経済権だけをにぎった。武士の発生であった。 173
かさにおどろかされ、あらそって読み、その文体を学ばうとした。つまり漱石の文章日本 語は社会にとりこまれ、共有されたのである。 その後、漱石の文体は『三四郎』以後落ちつき、未完の『明暗』で完成した。情趣も描 写でき、論理も堅牢に構成できるあたらしい文章日本語が、維新後、五十年をへて確立し 170
家康以前 すべては、信長からはじまった。 よく知られているように、近世の基本については信長が考え、かっ布石した。 中世の呼称で総合される諸慣習は、この人物によって打ちこわされた。慣習にくるまれ ることのすきな日本人のなかにあって、信長は異る光だったとしかおもえない。 かれはこわすだけでなく、あたらしい社会をつくろうとした。主として、経済が中心だ そのころ、中世の経済のしくみが石のように動きにくくなっていたのである。 たとえば信長が世に出たころ、すでに一世紀以上にわたって農業生産高があがりつづけ 家康以前
応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七年 ) は、多分に生物学的現象に似た革命だった。 社会の上下がくずれ、やがて下が上にあがり、百十数年の戦乱のあげく、ついには浮浪 児のような境涯から身をおこした人物が、関白になり、天下を掌中におさめた。秀吉のこ とである。 応仁の乱がなければ秀吉の奇跡はありえなかった。この乱の意味の大きさをそのように 評価したのは小林秀雄で、その前に内藤湖南がいる。 この乱の真の原因は、室町初期以来、日本の農業生産があがったことにあるということ も、すでにのべた。 5 -0
たんのう それに四迷は、外国語 ( かれの場合はロシア語 ) に堪能で、しかも漢文の教養がうすく、 文語体がにがてで ( 四迷の『余が言文一致の由来し、というあたりにも、逍遙はおもしろみ を感じた。 逍遙は、ロ語による創作をすすめ、「あの円朝の落語通りに書いて見たら」 ( 同 ) といっ た話は、有名である。 四迷は、そのとおりにした。これによって明治二十年、『浮雲』という実験的な作品が 世に出た。 四迷の自信のよりどころは、「自分は東京であるからいふ迄もなく東京弁だ」 ( 同 ) とい , っことだったらしい もっとも大正以後は文章日本語が社会に共有されるようになったために、その気になれ ば外国人でも日本語の小説が書けるようになった。 五ロ 『浮雲』の刊行から十余年をへて、それまで英文学の先生だった夏目漱石 ( 一八六七 ~ 一 の九一六 ) がにわかに『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などを書きはじめ、いきなり評 価をえた。 6 『坊っちゃん』にはなお式亭三馬のにおいがあったものの、世間は、ロ語の表現力のゆた 169
わ - 一う 社会というのは、国によってさまざまなものである。朝鮮の場合、辺境の民で倭寇にさ らわれる者が多く、宋希璟が国王から命ぜられた使命のひとつは、それらをさがして連れ もどすことであった。朝鮮には李王朝という中央政権があり、地方政権など存在せず、中 央政権は護民意識がつよかった。 室町幕府にはそういう護民感覚が乏しかったかわり、かえって農民は自立意識をもち、 みずから工夫して生産高をあげようとした。 そういうことの総和が、室町時代だった。乱世でありながら史上最高の農業生産高をあ げ、余暇の文化をつくった。 ついでながら区分としての室町時代とは、一三九二年から一五七三年までの約百八十年 とするという通説に従したし 世 ただし、貿易が前代未聞にさかんになったことについては、先行する〃南北朝時代〃の 町時期をふくめねばならない。九州などの南朝派がさかんに貿易して明の銅銭を得た。 室 いわば、コメを基盤とする北朝派 ( 幕府派 ) に対し、 " 南朝派〃は、・ セニを基盤としてい たかのようなにおいがあった。従って〃南朝派〃は、武家として正統ではないひとびとが ミン