岬を開発してゴルフ場をつくったり、神体山を削ってリゾート地にしたりすれば、おそ らくろくなことがないにちがいない。
むろ 三輪山は、いかにも神が籠っている室といった山容なので、古代から御室山 ( ときに御 諸・三諸 ) ともよばれた。 話は大和の三輪山から離れるが、ミムロヤマというのは特定の山をさすわけでなく、神 が籠っている神体山のことをそのようによんだ。 たとえば、埼玉県 ( 武蔵国 ) の浦和市の市域にも三室という台地があって、古くから神 みむろど みもり がまつられてきたし、また京都府の宇治にも三室戸がある。さらには福島県の三森 ( 白河 山市の東南 ) も、ミムロの転訛らし、 と ミムロは、カムナビと同じ語義だと思うが、ひょっとすると、景観として微妙な差異が あるのかもしれない。出雲には、地名として両方ある。 三輪山を神体山とする信仰は大和政権以前から存在した。八世紀に編まれた『古事記』 こも おおものぬし すじん の崇神天皇のくだりに、三輪山伝説が出てくる。それによると山に籠る神の名は大物主 あまかみ 神 ( 大国主命 ) であるという。この神が、天っ神系に対する国っ神集団の代表であること はいうまでもない。天っ神系に国譲りして出雲にしりぞき、出雲大社の祭神になるのであ る。 もろみもろ
したやみ ノ下闇になっていて、地面は腐葉土のためにじめじめしている。つまりは縄文のころの日 本の景観は暗い照葉樹でおおわれていた。 弥生式農耕がったわってから、景観がかわった。農民たちが山に入って下草や落葉をと やまとえ るうちに山肌がかわき、樹の栄養も枯れて赤松の適地になったという。そういえば倭絵の 景色に赤松は欠かせない。 赤松山のカムナビヤマ ( 神体山 ) がコメ作りの神であるとともに、その景観はコメ農民 がつくったともいえる。 以上、岬にせよ、神体山にせよ、遠くから景観としてながめて神を感するもので、のち、 しゅげんどう 山岳そのものの中にわけ入ってその霊気にふれるという修験道の山とはちがう。 ついでながら、修験道というのは七、八世紀に出てしきりに深山幽谷を歩いたとされる えんのおづぬ 役小角を祖とするもので、初期密教が触媒になっていた。 たいぞうかい ないおう 行者が、山岳の内奥に入ることは、胎蔵界 ( 密教語 ) に入ったという気分を得ることで、 じゅげん とそれによって呪験の力を増すことが期待されるのである。 岬信仰や、カムナビ信仰は、呪力で天地をゆるがすようなおそろしいものではない。 平明で、のどかなものである。古代のくらしのなかの感謝の象徴とさえいえる。
, つかとおも , んるほレ J に、、、 へつべつの世界にいた。 岬への信仰は、海のひとびとの領分だった。かれらはこの " 神。に対し、海では帆を半 ばにさげて拝礼した。このことは江戸期がおわるまでつづいた。 やがて、蒸気船の世になり、航海法も西洋式になってからはそういう宗教儀礼がなくな ひのみさき ったかのようだが、それでも、日本海をゆく船長さんから、出雲の日御碕を通過するとき は黙疇するという話をきいたことがある。 出雲日御碕には、日御碕神社が鎮まっている。 この岬が社殿をもっていることは、すでに八世紀の『出雲風土記』に出ている。日御碕 だけでなく、津々浦々の岬にはほとんど例外なく神社があり、社殿がある。当初 ( よほど 遠い昔だろう ) 、岬そのものが神体だったのが、おそらく、七、八世紀ごろから、仏教寺院 の影響をうけて、社殿がいとなまれるようになったにちがいない。 一方、野にいる古代人にとって岬などは無縁で、山こそ神であった。それも、小山であ る。神体山の多くは野面ににわかに盛りあがって裾をうつくしくひらくという端正な姿を みわやま とっている場合が多く、その代表が大和の三輪山といっていし しんたいざん のづら
岬のまわりで漁をする漁民が最初の漁獲を岬にそなえてきたように、カムナビ・ミムロ の山のまわりの農民も、初穂を山にそなえてきた。 要するに、神体山に対しては、農民はひまさえあれば入って、お座敷でも清めるように 落葉を掃きとってきた。このため山に腐葉土がなく、樹木としての養分がなくなっていた。 話が飛躍するようだが、 こういう農民のいとなみが、神体山の多くを、赤松の山にして やせち きたのである。赤松の適地は土壌が乾燥していることと、痩地であることである。 十数年前、森林生態学の京大農学部の四手井綱英教授が、赤松の山といった日本的景観 は、弥生式農耕がもたらした、という旨のことを書いておられた。 読んだ記憶によると、稲作が伝わる前は日本の山々は照葉樹でおおわれていたという。 照葉樹林とは、はるかヒマラヤ南麓から東南アジア北部、中国の福建省や江南をへて西日 本にいたる暖温帯の常緑広葉樹林のことである。シイやクスノキなどがすきまなく茂るこ の樹林は赤松林とはちがい、たつぶりと落ちかさなった腐葉土をよろこぶ。 赤松の山は、樹の性質として林間がすけていて、つまり疎林になるため、見た目もあか るく、林のなかも陽があたっている。 それにひきかえ、照葉樹の山は暗い。 遠くからみても雲が湧くように茂り、樹の下は木
カムナビのほうは、たとえば松江市の市域に入る茶臼山という標高一七一メートルの独 立丘陵である。まわりが平坦な水田地帯 ( 宇平野 ) である点、カムナビの典型かとおも える。 しんじ・一 あさひやま 宍道湖北岸の朝日山もふるくから神名火山と称されてきた。中世以前、ふもとに神社が さだおおかみやしろ つくられて、佐太大神の社とよばれる。 おおふねやま かむなびやま 出雲平野の北東部の平田にある大船山 ( 古称・神名樋山 ) は南からみるとうつくしい鉢伏 がた 形をなしている。 なんといってもカムナビヤマの理想的な形状は、近江 ( 滋賀県 ) の湖東平野に、富士の ひながた みかみやまやすまち 雛形のように孤立する三上山 ( 野洲町 ) だろう。 むろん、神体山であることはいうまでもなし 、。「己紀』には、このあたりの農業の開拓 あまのみかげのみこと 神である天之御影命がその神の名だというが、そのように神名をつけたり、ふもとに社 殿を設けたりするのは八世紀あたりのひとびとの好みであり、さきにのべたように、本来、 神名や神社は伴わず、山じたいが神であった。 これは独断だが、 神体山 ( カムナビやミムロ ) の信仰は、稲作が展開する弥生時代の中・ 後期ぐらいからはじまったような気がしている。 かむなびやま はちぶせ
51 社 上りあい ダンサン 堂山では祭礼もおこなわれる。しかし平素は空閑としていて、ときに寄合もおこなわれ る。村の広場 ( 狭いが ) であり、世間そのものを凝縮した場ともいえる。神聖でありつつ も、人臭いという両性格をもっているのである。 『周礼』の時代から、すでに里の社は人臭かった。 人がそこにあつまるということから、社という語義から、転じて " 世間。という意味も うまれた。ただし漠然たる世間でなく、同志とか朋友が、事を同じくする目的でもってあ つまった団体のことをさす。 ろざん 紀元五世紀のはじめ、中国の廬山の東林寺を中心に僧俗一体で結成された念仏団体のこ びやくれんしゃ とを「白蓮社」とよんだようにである。 話がさらにかわるが、小学館の『日本国語大辞典』によると、英語の society の訳語を、 「社会」 おうち としたのは、明冶八年 ( 一八七五年 ) 、福地桜痴だったという。社会とは、 " 人間が構成 する集団生活の総称。であることを思うと、まことにうまい訳語といっていい 桜痴は長崎のうまれで ( 一八四一年 ) 、オランダ学や英学をまなび、幕府につかえた。 明台後は、新聞を発行したり、新政府につかえたりしたが、明治八年ごろは、「東京日
岬と山 むろん、野面のなかに盛りあがる円錐状の山は、夕暮ゃあけがたなど、神威を感じさせ るものである。私など、滋賀県を北上していて三上山がフロントガラスいつばいに出現す ると、つい黙礼する気持になる。 しかし一面、海における岬と同様、野の神体山も人のくらしの役に立っていたのではな 二十世紀半ばまで、平野における稲作でもっともこまるのは、燃料と堆肥だった。 たとえば、九州の佐賀平野ではまわりに山がないため、燃料の薪をとったり、堆肥にす る草を得ることが大変だった。 戦前、佐賀の農民は、道端のわずかな雑草でも、あれはわしのものだ、と所有を主張し たという。草は、貴重だった。このため、「佐賀者の歩いたあとは草も生えぬ」といわれ たりしたが、これは人格にかかわる言い草ではなく、山のない土地で耕作するくるしみを 言いあらわしたものなのである。 もし、三上山のように、野の中に孤立山があれば、ひとびとは神のようにそれをありが たく思ったろう。たれもが山に入り、山に入っては樹木の枯枝をとり、草をとることがで きる。孤立山は、稲作農民が生きてゆくために絶えざる恵みをあたえつづけてきたのであ る。 のづら えんすい
49 戦国の心 物事が紛糾した場合、 「すべてお家のため」 ということで、個をおきえこみ、全体を生かすとする思想が濃厚になるのは江戸時代か らで、忠順 ( まじめで従順 ) であることが日本における最良の生き方とされた。 ろく 江戸時代にあっては、主家に対してそうであっただけでなく、世々お禄を頂いている自 分の家に対しても同様であった。 たとえば百石取りの家はそのお禄のおかげで、過去何代もの男女が衣食してきたし、将 来もまた多くの子孫が養われてゆく。このためもし百石取りの家の若い当主が不出来で不 らち 埒なことをすれば、その母親を含めて一族の長老があつまって当主を押しこめにしたり、 9 4 戦国の心
日本は、孤島にある。 だから外交がへたであるというふうにはならない。おなじ地理的条件の英国は孤島なが ら、その位置を利用し、大陸に対して演劇的なばかりの外交史を織りなしてきた。 日本の場合 ( 近隣外交史についてはさておくとして ) 対欧米外交がはじまるのは、やっと十 九世紀からである。幕末の日本人にとって異人さんの顔さえ異様で、欧米両大陸の実景と なると、夜空の天体よりも遠かった。この点、大陸に対する英国と異る。 外交は内政の延長であるという。 幕末における日本の世論は、いわば宇宙から異星が攻めてくるといったような荒誕な気 分から発した。荒誕はかえって可燃性のガスを生む。 「巴里の廃約」 こうたん