鎌倉 - みる会図書館


検索対象: この国のかたち 3 (1990~1991)
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1. この国のかたち 3 (1990~1991)

一州 ~ みのくに 相模国 ( 神奈川県 ) の鎌倉は、三浦半島のつけ根にあって、山を背にし、前は遠浅の海 がひろがっている。 ここに天下の府があったころ、 「いざ鎌倉」 はちのき などといわれた。このことばは謡曲「鉢木」のなかにも出てきて、きくたびにすずやか 倉な倫理的感情をおこさせられる。 レー ) よう 治承四年 ( 一一八〇年 ) 、源頼朝がここに幕府を置いてからその滅亡 ( 一三三三年 ) までの 約百五十年間、鎌倉から非常命令が発せられるや、山野に住む武士たちが鎌倉をめざして 駈けた。理非も得失も念頭にないもののように、かれらはためらいもなく馳せ参じた。 6 6 とおあさ

2. この国のかたち 3 (1990~1991)

鎌倉 かちゅう たとえば、島津の家中にあっては捕吏は無用といわれた。罪をえた者が、捕吏がむかう なわめ より早く、縄目の恥を避けて自刃した、というのである。 鎌倉の世に話を戻す。 鎌倉幕府にあっては、やがて頼朝の世系が絶え、権力は北条執権家にうつった。しかし 前掲の「鉢木」でもみられるように、坂東の士風はおとろえなかった。「鉢木」は室町時 ぜあみ 代の世阿弥の作といわれるものだが、ありうべきはなしとして書かれたのである。 北条執権家は、一三三三年、高時の代でほろび、鎌倉幕府は幕を閉じた。体制が、すで に世に適わなくなっていた。 うつ 最後の執権である高時が虚けであることは、世に知らぬ者はなかった。遊宴がすきで、 さらには田楽法師どもをよびあつめておのれも舞いくるい、また何百頭もの犬を追い籠め て咬みあいをさせたりした。 きか そのようにとりとめない人間でありながら、麾下はかれを捨てず、高時と鎌倉の府を守 るために侵入軍に対し、全滅するまで戦った。さらには高時の側近はかれとともにこぞっ て自刃した。 145

3. この国のかたち 3 (1990~1991)

そのおもひなげ ( 歎 ) きに、よ ( 寄 ) せ候はず。 : : : 夏はあっしといひ、冬はさむしと その きら ( 嫌 ) ひ候。東国にはすべて其儀候はず。 実盛が実際にそういったかどうかはべっとして、当時すでにそんなふうに坂東の風が常 識になっていたにちがいない。 累代、鎌倉幕府がつづくうちに、坂東の有力な御家大の多くが、中国や九州に所領をも ならい らって西へうつった。そのことによって、坂東武士の慣習や気風、あるいはことばが全国 化したといっていし ちぎ・よう′ たとえば、鎌倉幕府の総務長官というべき大江広元が相模の毛利庄を知行し、その子孫 が南北朝のころ安芸国 ( 広島県 ) 吉田郷を領して、はるかのち江戸期にあっては長州藩が 形成される。 薩摩島津氏の祖については諸説があるが、伝承としては頼朝の時代に薩摩に下向したと 島津家は、とくに鎌倉の風を慕った。とくに戦国から江戸期にかけ、意識して家士を教 育し、鎌倉風に仕立てた。 る ふう ふう

4. この国のかたち 3 (1990~1991)

鎌倉 やましな 途中、時益は京を出てほどなく山科で戦死した。 ばんば 仲時はようやく近江 ( 滋賀県 ) の番場まできたとき、四方ことごとく敵であることを知 って、覚悟した。 なかせんどう まいばら 番場はいまの新幹線米原駅の東方にあり、小さな谷をなし、古くから中山道の宿場だっ ′一しよう いっこうどう れんげ た。そこに蓮華寺という浄土念仏の寺があり、一向堂という後生をねがうお堂があった。 その堂前で、四百三十二人という人数が仲時とともにいっせいに腹を切った。かれらの名 はこのとき「番場蓮華寺過去帳」にとどめられ、いまも残っている。 かれらの鎌倉ぶりの心は、信でもって支えられていた。信というのは、のち室町や江戸 の世で商業が栄えると、商人の倫理になった。カネを借りれば必す返すという倫理である。 それと同様、鎌倉の世の信は、北条執権家から恩をうけると、死をもって返すというも のであった。さらには、返す場合、ためらいをみせないことが潔いとされた。 ばんどうむしゃ 坂東武者が日本人の形成にはたした役割は大きい。 7

5. この国のかたち 3 (1990~1991)

鎌倉は、武士の府らしくまことに質素な首都だった。 つるがおか 巨大建築物といえば鶴岡八幡宮があるくらいで、わずかな谷間 ( やっ ) に、御家人屋敷 と庶民の家が混在し、北条屋敷も防禦力のある建物ではなかった。 かさい 侵入軍によってあちこちに火があがり、市街の諸方で全滅が相つぐと、高時は葛西ヶ谷 の東勝寺に入り、自刃した。この愚者に従って腹を切った者は、この一カ所だけで数百人 にのばった。 昭和一一十年代、東大医学部の鈴木尚教授が材木座 ( 町名 ) で発掘調査をしたとき、出土 した人骨の数がおびただしく、そのほとんどに刃痕がついていた。 ろくはら 京の鴨川の東、五条から七条にかけての地のことは、このころ六波羅とよばれた。 みなみかたきたかた 鎌倉幕府はここに六波羅探題をおき、京における監視機関とした。南方と北方にわけ られ、それぞれが探題で、むろん北条氏の一門の者がその職についた。 ときに、北方の探題は北条仲時、南方の探題は同時益であった。侵入軍が京に入ったの は、鎌倉の場合よりも早い時期だった。探題軍は洛中で苛烈にたたかい、最後には六波羅 やかた 館に籠城したが、 カおよばず、夜半、生き残った数百人は二人の探題を擁して京を脱出 し、遠い関東をめざした。 なかとき ときます 146

6. この国のかたち 3 (1990~1991)

ついでながら、律令国家は、奈良時代七十余年が最盛期であった。 平安時代になってくずれはじめ、やがて東国を中心に武士という反律令的農場主が勃興 し、ついには十二世紀末、鎌倉幕府というきわめて日本的な政権が誕生する。これによっ て律令の世は事実上ほろぶのである。日本史が、中国や朝鮮と体制を異にしはじめたのは、 鎌倉の世からであり、そのことは、以前にものべた。 話を、奈良の都にもどす。八世紀初頭に平城京という大都市ができたものの、都市とし てはまったく孤独なものであった。 他に都市がなかった。同時代の唐は県城などの無数の都市が積みあげられてその最頂点 に長安があったのにくらべると、まことに貧寒としている。 平城京そのものが大博覧会における飾り建物に似ていなくもなかった。くりかえすが、 経済的土壌の上に成立した都市ではなかったのである。 といわれれば、二の句がっげなかったろう。もっともそのように説得したという記録も ・一と に 4

7. この国のかたち 3 (1990~1991)

「日本における武家政権 ( 鎌倉幕府 ) が、宋学でいう夷にあたります」 と、当然、いったであろう。つまり鎌倉幕府を、異民族王朝の遼や金に見立てた。外国 の理論〃を日本の実状にあてはめても仕方がないのだが、あてはめるほうがモダニズム だったのである。 やがて後醍醐天皇 ( 一二八 ~ 一三三九 ) の若い側近たちが " 革命化第し、宋学研究会と もいうべき会合をかさねた。 「王」 といっても、日本と中国とは、その内容がちがっている。が、若い公家たちにとって ″異〃よりもが同〃にあてはめるほうが魅力的だった。このあたり、大正末年から昭和初 年の左翼学者や左傾青年に似ていた ( かれらは日本史の発展をむりやりにマルクス史観にあては めようとした ) 。 また、宋にあっては皇帝は絶対独裁という存在なのである。やがて後醍醐天皇の側近た ちは、日本の「みかど」もそうあるべきだと思うようになった。 やがて建武中興 ( 一三三四年 ) が成立した。 結果として後醍醐天皇は、日本史上空前絶後の、中国皇帝に酷似した存在になるという 滑稽なかたちになった。ま、 カわずか二年で破綻した。

8. この国のかたち 3 (1990~1991)

53 七福神 七福神のセットにして参詣人をさそうというのは、元来、江戸が本場である。 もっとも、福神信仰がうまれたのはおそらく鎌倉。室町のころの京で、この人は源流に さかのばりに行ったのかもしれない うとくじん 鎌倉末から室町にかけての京は、対明貿易でにぎわった。〃有徳人〃とよばれる大商人 ニンポー たちのゆくさきは、寧波 ( 浙江省の港 ) だった。 そのころ、寧波港は日本船に対する明側の指定港であり、入国と貿易事務をあっかう市 舶司もおかれていた。 そのあたりには大小の寺が多く、上陸した日本人たちは当然参詣したはずである。とこ ろがたいていの寺に「布袋」と土地の人がよんでいる肥満漢の像がおかれ、ひとびとが拝 礼していた。きくと、招福の神だという。 みろく 「弥勒菩薩でもあります」 当時の日本人はびつくりしたろう。 ほそみ ふつう弥勒といえば透きとおるような細身のお姿である。天上でひとびとをどう救済す はんかし るかを考えていらっしやって、たとえば飛鳥時代の半跏思惟像 ( 京都・広隆寺 ) がその代 表的なイメージになっている。 プーダイ

9. この国のかたち 3 (1990~1991)

「巴里の廃約」 「脱亜論」 文明の配電盤 平城京 6 平安遷都 東京遷都 鎌倉 大坂 宋学 洋服 120 141 148 朽 6 127 134

10. この国のかたち 3 (1990~1991)

しようしやがらん けた 瀟洒な伽藍とはちがい、柱も桁もふとく、上部と下部の力学構造がずっしりと安定し、 伽藍配置も、できるだけ隋唐の範に従っていた。 むろんこれを造営するのは、国家なのである。国家が修理し、またたえず国家が官僧に 俸禄をあたえねばならない。法要となると国費でやる。経巻も国家が買う。 僧のほとんどは民の救済など考えておらず、当時はそういう理論体系もなかった。イン ドの苦行僧のようなこともやらなかった。またのちの鎌倉仏教のような信仰というものは、 思想としてないにひとしかった。 ひたすら漢訳原典について学問をするのである。 ところが、あらたな首都で興った平安仏教は、ちがっていた。 貴族のために加持祈疇はするが、俗権に入りこむようなことはしなかった。 さきにあたらしい平安京に大寺をおくことが禁じられた、ということをのべたが、げん に京に寺が多いではないか、と疑問をもつむきがあるにちがいない。 こさっ こんにち、京都で古刹といわれるものの多くは、はるかにくだって豊臣期やあるいは江 戸時代に興されたあたらしいものなのである。 130