室町幕府 - みる会図書館


検索対象: この国のかたち 5 (1994~1995)
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1. この国のかたち 5 (1994~1995)

98 神道 石清水八幡宮から神霊を勧請したことも、重要だった。これによって、皇室と同じ宗廟を 鎌倉も奉ずるという信号を京都の公家たちにあたえ、かれらを安堵させた。 頼朝は、大きな公務はみな鶴岡八幡宮で執った。対京都宮廷の行動をおこすときも、軍 議、軍令を発するときも、そうだった。このことによって、命令や処置が、八幡神の神意 をうけたかのように、すくなくとも頼朝その人はおもったにちがいない。 そのかぎりにおいては、日本最初の政治的リアリズムが確立されたかのような鎌倉幕府 において、神聖政治の薫物がかすかに燻っていたといえなくはない。 せんげ 鎌倉幕府という法的存在は、頼朝への征夷大将軍宣下によっていくぶん正当化されたと いギ一よう はいえ、異形の政権である印象はーーすくなくとも頼朝自身のなかでーーーぬぐいきれなか ったのにちがいなく、それがあるために、頼朝はことさらに、日本一国の神ながら国内で は高度に普遍的な八幡神の力を借りたといえる。 鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の事実上の宮廷だったのである。 たきもの くゆ

2. この国のかたち 5 (1994~1995)

18 会 かたもり 白羽の矢を、会津藩主松平容保に立てた。 この藩の幕府への忠誠心と律義な藩風と、非政治的性格が見こまれたのである。 容保は、おどろいた。かれといえども幕府の統制力が地に墜ちていることは知っていた。 じようゆ、 ) 「わが城邑は東北に僻在し」 などと、何度かことわった。 容保のためらいに対し、幕閣の一部で、 会津侯は、一身の安全を考えている。 などとうわさが立った。容保は、結局、この命を承けることになった。 在京六年、業火のなかにいるような日々だった。 当初、浪士結社の新選組が、この藩の傘下に入った。 新選組と会津藩との関係は戦国時代の " 陣借り〃という慣習を思わせる。合戦のとき浪 津人が思わしい大名の陣屋のすみを借り、武功の次第では取りたててもらうことを期待する のである。 ただし新選組の場合は、幕府が会津藩にあずけた、という形をとった。 そうが 結局、新選組は、治安行動の爪牙となり、倒幕家たちのうらみを会津藩に集中させるこ

3. この国のかたち 5 (1994~1995)

豊臣時代以来、大名が持ち、その家来たちが執行したのは、領内の支配権 ( 行政権 ) と いう、いわば義務だけだったというのは、日本的な公の意識の一源流として考えていい。 明治二年に旧大名たちが東京に定住することを命ぜられ、″永世禄〃をよろこんだのも、 封建制が、大名の維持において制度疲労の極にあったこと、大名が決して楽なものではな かったことを一一一一口い証している。 また英国の駐日公使バークスをして、 「他の国ではとてもできない」 といわせた明治四年の廃藩置県がうまく行ったのも、大名個々の新国家への忠誠心以上 に、大名にとって藩が重荷だったのである。 ともかくも、江戸時代の土地の制度が、日本の近代への移行を容易にしたことはたしか である。 し、藩士たちに食禄を分与する者であった。 くりかえしいうが、室町末期までの地侍・国人のように農地や農奴をもつ者ではなかっ

4. この国のかたち 5 (1994~1995)

その点、日本の江戸時代の大名は、その領地における土地・人民を支配していたものの、 所有していたわけではなかった。ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との決定的な ちかいといえる。 土地をもつものは、武士からみれば卑しい身分の町人と農民だった。 藩士たちも、土地などは持っていなかった。 「あの角の八百屋の地所は、ご家老が持っている」 とい , っことは、ありえなかった。 またある藩士が、こっそり田畑を所有していて、農民に小作させている、などというこ ともなかった。 こまかく例外をいうと、江戸時代のある時期に、富農や富商の一部が、郷士という身分 にひきあげられた。この場合、かれらはその後も農地や町方の土地を持っていた。ただし、 侍としての身分はきわめて低かった。 ふるい時代の日本では、ヨーロッパの貴族の土地所有と似た時代があった。 じギ、むらいこくじん 室町時代の産物だった地侍や国人というのがそうだった。地侍は一カ村程度の農場主

5. この国のかたち 5 (1994~1995)

ることがなかった。 『太平記』によると、笠置の山中での拝謁のとき、 いちにん 「正成一人未ダ生キテアリト聞召サレ候ハヾ 御運はひらけるでありましよう、と胸のすくようなことをいった。こんな明快な自己表 現は、日本の歴史にすくない。 その存在と活動は、十二世紀の英国のシャーウッドの森に住んでいたという伝説の豪傑 ロビン・フッドを思わせる。 また、三世紀の中国の諸葛孔明にも似ている。人柄が誠実で卓越した軍略家だった占、 さらには、衰亡する側に属したことなどがである。 室町時代では、正成の評価が低かった。足利氏が擁した北朝の世だったことなどによる。 正成の評価が急騰するのは、江戸時代になってからである。 朱子学の盛行による。 せいじゅん このいわば理屈の学は、その王統が正か閏かについてやかましかった。 その基準に沿って、水戸の徳川光圀による『大日本史』が編纂された。足利尊氏が邪と 142

6. この国のかたち 5 (1994~1995)

国家予算が極度に小さくなった。 みくりや 伊勢神宮自身も、前代未聞なことに、御厨 ( あるいは御園 ) という名の荘園をもつよう になった。そのことで、経済的には半ば自立した。反面、半ばを他に依存した。その結果、 「私幣禁断」がゆるまざるをえず、ひとびとの寄進をうけつけるようになった。 従って、ふつうの人が伊勢神宮に参拝するようになった。平安後期ごろからである。 一八 ~ 九〇 ) も、参拝をした。 平安末期に世をすごした西行 ( 一一 かたじけな 「何事のおはしますをば知らねども辱さに涙こばるゝ」 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よ く斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことで あった。 むろん西行は若いころ北面の武士という宮廷の武官だったし、当代随一の教養人でもあ る上、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会も催しているのである。 " 何事がおはします , かを知らないどころではなかった。 室町・戦国の世になると、伊勢神宮は神領の多くを各地の豪族に横領された。 この疲弊と逆比例して、無名の庶民による伊勢詣りがさかんになった。 なにごと みその

7. この国のかたち 5 (1994~1995)

また科挙の制という規範的なたががなかったため、日本の儒学は本場とくらべて自由 あるいは形態として不定形。ー・、・だったといえる。 学 たとえば江戸前期の儒者山崎闇斎 ( 一六一八八 (I) がある日、弟子たちに質問した。 江 「いまかりに、中国から孔子を大将とし、孟子を副大将として数万の軍勢がわが国に攻め の てきたとすれば、われら孔孟の道を学ぶ者はどうするか」 弟子たちがだまっていると、闇斎は、 「大いに戦い、孔孟をひっとらえて国恩に報いねばならぬ。それが孔孟の道である」 だ。 日本の場合は、異る。 徳川幕府が明や朝鮮をならって朱子学を正学としたことまでは、同じである。 ただし、科挙の制を用いなかった。 さらには、習俗まで儒教化しなかった。 また幕府は朱子学を正学としつつも、江戸前期までは強制をしなかった。 もう一つ加えると、識字率が高かったため、『論語』などを読む層が庶民にまでおよん あんさい

8. この国のかたち 5 (1994~1995)

18 宋学 (-) た ( これらの事情は、はるかな後世の一九一七年のロシア革命の翌年である大正七年に、東大で新 人会が結成されたことと酷似している。日本の左翼は、このときから出発した ) 。 ときに、日本は鎌倉幕府 ( 北条氏の執権 ) の世である。 えびす 武家政治とはすなわち夷のことではないか。 つまりは、宋末、華北に居すわった女真人の金王朝に相当するのではないか、これを邪 として倒すべきである、という考えが、若くて学問好きの公家や僧などのあいだで高まる ようになった。のちに中国や朝詳に停滞をもたらす思想が、十四世紀の日本では、革命思 想だった。 日本が孤島にあるために、海のかなたから思想がやってくる場合、都合よく要約され、 思わぬ爆発力をもっ場合がある。 ときにーーー鎌倉末期ーー京の宮廷では天皇の位をめぐって二つの勢力があらそっていた。 ト、う・かい てつりつ 幕府がそれに容喙し、二つの党派 ( 持明院統と大覚寺統 ) による迭立 ( かわるがわる立っ ) はどうか、すすめた。 ~ 一三三九 ) であった。一三一 そのルールによる最初の天皇が、後醍醐天皇 ( 一二八 125

9. この国のかたち 5 (1994~1995)

年に即位した。ただしこの天皇は、右のルールをまもることなく、中国風の独裁皇帝を志 向し、さらにはひそかに倒幕を企てた。 天皇その人が、新来の宋学の信奉者だったのである。 中国では、歴朝の皇帝は、ただ一人で天下を私有した。宋朝はとくにそうで、皇帝によ る独裁制だった。後醍醐天皇はその制をめざした。平安朝以来の天皇が多分に象徴的存在 だったことからみると革命というほかなかった。 側近には、宋学をふかく学んだ下級公家の日野俊基・資朝を抜擢した。 しようちゅう 即位後七年、倒幕の計画が洩れ、幕府によって弾圧された。正中ノ変 ( 一三二四年 ) で ある。 もんかん それより前に、俊基や僧文観ら天皇の側近が、世の武装者に働きかけて、乱をおこすべ く同意をひろげていた。やがて、『太平記』にえがかれたような南北朝の乱が現出する。 この時代の既成階級といえば、幕府の御家人だった。かれらが全国の守護・地頭になり、 が、経済の発達によって、全国に〃非正統〃の実力者が、多様に輩出しはじめていた。 〃正統〃の権力を保持していた。 としもとナ・けとも 126

10. この国のかたち 5 (1994~1995)

103 鉄 晴れてくるような世紀である。 いずも 私事だが、二十余年前、思い立って出雲 ( 島根県 ) へゆき、中国山脈の草木のなかに残 る古代から近世にかけての製鉄遺跡を見てまわったことがある。 かなくそ しだ さびいろこいし そまやま 杣山の小みちの路傍に、羊歯にかくれて銹色の礫のような金糞が層を成しているのがさ まざまな箇所で見られた。ひょっとすると、中国山脈そのものが製鉄所だったのではない かと思 , つよ , つになった。 近代以前の製鉄には、すくなくとも四つの現場がある。山を崩して砂鉄をとる現場と、 それを製煉する現場、また木炭製造の現場、さらには樹木を伐採する現場がある。製煉現 場で砂鉄を熔かすには、一山を裸にするほどの木炭が要った。木が鉄を生むといっていい ほどに、砂鉄製煉は樹木を食い、古代としては大規模な自然破壊をともなった。しかし日 本の森林には復元力があった。 「ただし、山々の木は、伐採したあとすぐ植え、三十年でもとにもどります」 たなペ と、この山脈で室町時代から明治時代まで砂鉄製煉をつづけた田部家の当主である故長 右衛門氏がいわれた右のことばが、印象的だった。 日本列島はモンスーン地帯にあるために山々が水をふくんだスポンジのようで、中国山