京 - みる会図書館


検索対象: この国のかたち 5 (1994~1995)
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1. この国のかたち 5 (1994~1995)

とになった。 その時期の京は、政略が渦を巻いていた。 なかでも薩摩藩が多数の藩士を京に駐在させ、ひそかに革命化した。 はじめ会津藩は薩摩藩を秩序維持派と見、これに心を許し、たとえば宮廷における長州 系の過激公家をともに一掃したり、長州軍が大挙武装入洛したときも友藩としてこれをふ はまぐりもん せいだりした ( 蛤御門ノ変 ) 。 ところがその翌々年には、薩摩藩は内々で一変した。それまで国もとに閉じこもってい た長州藩とひそかに攻守同盟を結び、二年後の明治維新への基礎をつくるのである。 「薩摩だけはゆるせない」 よしのぶ と、将軍慶喜が、のちのち述懐したのは、このあざやかな革命政略をさしている。 慶喜は慶応三年 ( 一八六七年 ) 、政権を朝廷に返し、京都から大坂こ退、 薩摩藩は京にあって朝廷を擁し、長州軍をその国もとから迎える一方、さらに土佐藩と も同盟の内約を結び、京を拠点とする軍事勢力を急編成した。 慶喜は、大坂城にいる。

2. この国のかたち 5 (1994~1995)

京文化であることが、遠国の武将たちにとって重要だった。 室町幕府は武家政権ながら、公家に代って京文化を代表したいという気分があった。幕 府が、毎年正月十九日をもって〃連歌始〃の日としたことも、その一例といえる。 連歌は、公家や武家だけのものではなかった。 京では、″地下連歌〃という庶民の連歌もさかんに興行された。 庶民らしく、講を組み、相互分担でおこなわれ、講においては貧富の差別はなかった。 いかに庶民のあいだで流行したかについては、 めすびと 「連歌盗人」 という狂言までできたことでもわかる。 江戸時代の落語のような筋である。連歌ぐるいをしているある貧乏な男が、講の当番に なってしまった。 力道具も金もなか 当番である以上、連歌の座に必要な道具類をそろえねばならない。 ; 、 なにがし った。ついにおなじ悩みの男をさそって、連歌好きの何某という金持の家に、それらを盗 みにゆく。 おんごく はじめ 116

3. この国のかたち 5 (1994~1995)

一方、足利尊氏は、時代の要望を大きく吸いあげて、九州から大挙京にむかっていた。 一三三六年四月である。 後醍醐天皇派は、京にいた。軍議が開かれ、正成がよばれた。正成は、敗北を予感して ただ、起死回生の策として、後醍醐天皇を叡山に移し参らせ、京を空にし、ここに尊氏 軍をさそいこみ、四方から囲んで糧道を断つ、という策を言上した。 くすのきまかくだ ばうもん が、公卿の坊門宰相清忠によって一蹴された。清忠は声をあららげ、「楠、罷リ下ルべ うんか シ」と、正成を必敗の戦場にむかわせた。その人数は、雲霞のような尊氏の大軍にたいし、 わずか五百騎だった。 正成は湊川で戦死し、尊氏の擁する北朝の世になった。 とうすいけん 言が、にわかにかわる。統帥権のことである。 明治憲法は、三権 ( 立法・行政・司法 ) が分立しているという意味において、十分に近代 憲法だった。 ところが、大正末年から昭和初期にかけて、三権のほかに、統帥権があるとされた。陸 軍がこの解釈を推進した。ときに統帥権が、三権に超越する、とも考え、やがて国家その から 146

4. この国のかたち 5 (1994~1995)

おなじ題を、さきに二度つかった。こんどで三度目になる。多少は重複する。 本来、関東に置かれてきた武家の政権 ( 足利幕府 ) が、京におかれたのは、十四世紀の 京がもっ旺盛な文化と経済の勢いに、足利氏が乗ったといっていし 一三七四年、足利三代将軍義満がこの町域 ( 北小路室町 ) に一大第館を営んだ。以後、 世ひとびとは、 の むろまちどの 町「室町殿」 室 とよび、後の世では室町幕府とよぶ。ほば二百年つづくカ 107 室町の世 ま、ほとんどが乱世であった。 107

5. この国のかたち 5 (1994~1995)

としか一一一一口いよ , つが、ない。 教科書風に歴史を復習すると、幕末の京は、一時期、無政府状態におちいった。もしそ ういうことがなければ、会津藩の上にのどかな日々がなおもつづいたにちがいない。 ときに、日本国政府である幕府は、将軍の名においてアメリカなどと和親条約を結んだ。 これに対し、在野世論と長州などの雄藩が鎖国と攘夷を主張し、幕府とはげしく対立し こ 0 いいなおすけ 幕府の大老井伊直弼はこれらの世論に対し、大量処刑で臨んだものの、かれ自身が江戸 城の桜田門外で浪士団に襲われ、殺されることによって、幕威が墜ちた。 反幕の気分は大いにあがった。 攘夷派の志士たちや長州人たちが多く京にあつまり、天誅という名の暗殺を流行させ、 既存の所司代も奉行所も、手の施しようがなかった。 明治維新の六年前の文久二年 ( 一八六二年 ) のことである。 幕府は、非常治安機構ともいうべき京都守護職を置くことにした。

6. この国のかたち 5 (1994~1995)

こつつ ) 0 多くの場合、源氏の姓を賜る。 幾通りもある源氏のなかで、清和天皇を祖とする家系が早くから関東にくだり、武士の あいだに勢力を扶植した。 ついでながら、平安時代の武士とは、開墾農場主のことである。 しようじ たてわきせんじよう かれら在郷の武士たちは、下級の官職名を欲しがった。庄司とか帯刀先生などといっ た肩書がつくと、いわば卿の称号のように在郷で幅がきいたのである。 清和源氏の代々の当主は、京の権門に仕え、ときに公卿たちから下僕のようにあっかわ れながら、関東の武者たちのために官職がもらえるように仲介した。やがてこの家系の当 主は武門の棟梁などとよばれるようになる。 また、この家系から武勇と政治力をもつ者が多く出た。 はるかなのちにこの家系から出た源頼朝 ( 一一四七 ~ 九九 ) が鎌倉幕府という武家政権を おこすが、その頼朝から逆算して五代前の祖の源頼義 ( 九八 ~ 一〇七五 ) が、出色の人物 頼義は関東在郷の者どもをよくいたわり、ひとびとから慕われた。 ′一んし 頼義は京での勤仕も怠らなかったので、晩年正四位下の伊予守の官位をもらった。いわ

7. この国のかたち 5 (1994~1995)

そう 時代がくだって、宗祇 ( 一四二一 ~ 一五〇一 l) のころには、乱世もいよいよ深まっている。 その伝記としては最も古いとされる「湯川彦右衛門覚書」に、宗祇は「氏モナキ者ニテ 候」とあるという ( 荒木良雄著『宗祇』創元社 ) 。 のちに秀吉が微小から身をおこしたというが、その秀吉の出生よりも百十数年前にうま れた宗祇がすでに秩序崩壊の世にあって、氏なくして連歌という京文化の代表者になった のである。 将軍も関白も、宗祇から『源氏』や歌学の講義を聴くことをよろこんだ。六十八歳のと き、かっての宗砌がそうだったように、連歌会所奉行職になった。 宗祇は、生涯旅をした。 いわば京文化を運んだ。 応仁ノ乱のころは、宗祇は四十五、六で、関東にいた。 関東で一大勢力をもっ太田道灌の品川の館にいたという。 かれは、上州と越後の境に居館をもっ長尾氏にも招かれた。 かすがやま 文明十一年 ( 一四七九年 ) 二月、宗祇五十九歳のとき、越後春日山の上杉氏の城館で、 『伊勢物語』の講義をした。この城に上杉謙信がうまれる五十余年前のことである。この 118

8. この国のかたち 5 (1994~1995)

1 室町の世 すきや 能・狂言、茶道、いけ花、庭園、数寄屋普請、それに「武家礼式」による婚礼その他の 儀礼、あるいは京料理の成立など日本文化の源流が、室町時代という、政治で統御しがた かった活発なこの乱世に発している。 113

9. この国のかたち 5 (1994~1995)

多数の会津藩兵が、慶喜を護衛していた。 これに対し、京の薩摩藩は、旧幕府側から戦いをはじめるように、さかんに挑発した。 戦いの勝敗をきめるものは兵器であることを薩摩側はよく知っていた。かれらはすでに新 式の連発銃をそろえ、旧幕軍からの攻撃を待っていた。会津藩兵が、挑発に乗った。 会津藩兵らは陳情という形式をとり、新選組や幕府歩兵とともに京街道を大挙北上した。 やがて鳥羽・伏見で京側との遭遇戦になり敗北した。 この戦いは局地戦にすぎなかった。旧幕府はなお強大な勢力を擁していたから、戦おう と思えばどのようにも戦えた。 が、薩摩藩はこの小さな戦勝を、四方に大きく喧伝し、このため近畿とその西の諸藩は あわただしく旗幟を新政府側に変えた。 慶喜自身までが、この小さな敗北によってみずからを変えた。 かれは、心のなかで、旧幕府も会津藩も捨てた。夜陰、容保ら数人をつれて大坂湾の旧 かっきょ 津幕軍艦に乗り、江戸にむかった。その艦上で、老中の板倉勝静が、たかが鳥羽・伏見で敗 けたぐらいで、どうしてあわただしくお逃げ遊ばします、と不満をもらしたとき、 「わが方に、薩摩の西郷・大久保のごとき者がいるか」 8 と、政略で敗けた旨のことをいった。

10. この国のかたち 5 (1994~1995)

十二世紀末、源頼朝が鎌倉幕府を興した。驚天動地のことだった。 この時代、武士とは農場主のことである。 それまで、武士にとって、田地を開拓しても私有にはならず、京の公家や社寺に捧げ、 自分は管理人に甘んじざるを得なかった。そういうかれらが、頼朝ひとりを押し立てた。 鎌倉の世になり、田地の所有が明快になったことで、芸術 ( とくに彫刻 ) にも、影響が あらわれた。なま身の現実感覚というべきものだった。 思想にも、影響があらわれた。 たとえばそれまでの仏教では、天才のみが覚者 ( 仏 ) になることができた。 宋学 ( 一 l) 128