連歌の秩序は、実利生活とは無縁である。 しかしながら、連歌という共同の作品を湧くようにつくりあげるには、厳格な規約と服 従が必要だった。それに、古典の教養も強制された。古典とは、『源氏物語』『伊勢物語』 『古今和歌集』などである。 七面倒くさいものだが、座のひとびとはその制約をよろこび、一座の秩序に服した。世 上は乱に満ちていながらも、人間の本性かもしれない秩序への希求が、このあそびを百数 十年も流行させつづけたのにちがいない。連歌の流行は、逆説として乱世の一象徴だった かともおもえる。 私には、連歌の形式の発展史を説明する能力がない。要するに一人が和歌の上の句を詠 しも むと、他の一人が応じて下の句を詠む、というところから出発した。 ほっく やがて四、五人から十人ほどが一座をなし、第一句 ( 発句 ) を一人が詠むと、第二句 あげく わき 歌 ( 脇 ) 、第三句、最後の挙句というふうに、ひとびとが順次詠み合う形式に発展し、規則と して固定化しこ。 連 発生は十二世紀末の平安末期という。当然ながら、京の宮廷とその周辺でうまれ、発達 かみ 115
います。世間的には何の権威もない称号です。しかしこの一語で、自分の生涯を言いあら わしたのです。自分の生涯の役割をーーさらには後世への自分の存在の意味をーーよく知 っていたのでしよう。 合理的な思考者ーー蔵六 武士の世の終わりを早くから察知していた人物がもうひとりいました。 村田蔵六、のちの大村益次郎がその人です。この人のことは『花神』で語りましたが、 彼も長州周防の一介の村医者、身分は百姓でした。恐妻家で妻がヒステリーを起こすと縁 側からひ出し麦畑にひそんでおさまるのを待っという風変わりな、一種老荘的気分をも った人柄でした。この無愛想で合理主義のかたまりのような医者が、維新最高の軍略家で あり明治陸軍の事実上の創設者になるのですから、ふしぎなものですね。 名将というのは、一民族の千年の歴史のなかで二、三人いれば多いほうといっていいほ どの才能なんです。画家や作家や音楽家は、つねに存在しますけれどもね。 それがわかっていたのは木戸孝允でした。いざ倒幕ということになっても、司令官の人 材がいないんです。薩摩の西郷は、自藩のなかで伊知地正治という人をひそかに起用する 194
100 会 会津若松が県下最大のまちでありながら、福島県庁が置かれることはなく、また偶然か どうか国公立の高等教育機関も設けられなかった。 去年 ( 一九九三年 ) 、県立のユニークな単科大学が開学した。明治後、会津若松市におか れた最初の高等教育研究機関である。 この大学は、校舎の設計も内容も斬新で、明治後、たわめられていたバネが、一挙に単 科大学という形になって撥ねもどったような勢いが感ぜられる。たとえば、研究者がひろ く世界から公募され、百人の教授以下のうち、六十人が外国人で、学内の公用語が日本語 と英語だということだけでも、一端を察することができる。 「この日を、会津は百二十年、待っていたんです」 と、たまたま会津を訪れた私を案内しながら、旧知の宮崎十三八氏がいった。会津人と しては、大げさな感想ではなさそうなのである。 とみはち
治憲法でも天皇の位置は無答責ですから、天皇は原則として否とはい、 しません。結果とし て日本国を、内閣とは無関係に、戦争へ叩きこむことができるという、憲法解釈上の権能 1 です。このふしぎな憲法解釈がもたらした惨禍が、日本国をほろばしただけでなく、他国 に対して深刻な罪禍をのこしました。 たかぶ ど , つも、ことばが、日卯りました。 要は昭和の戦争時代は日本ではなかったーー幾分の苛立ちと理不尽さを込めてーーー私は そう感じつづけてきました。 もっとも、この考え方は他のアジア人には通じにくいですな。かれらにとって太平洋戦 争の時代の日本が日本像のすべてで、兼好法師や世阿弥や宗祇の時代の日本や、芭蕉や蕪 村、あるいは荻生徂徠の時代の日本、もしくは吉田松陰という青年が生死した時代の日本 など思ってはくれません。くだって日露戦争の時代の日本像ぐらいを参考材料として日本 を見てくれればありがたいのですが、他の国の人にそんな押しつけをするわけにはいきま せんしね。せめて日本人が、基本的な日本人像をきっちり持ってくれていると、ありがた 私は『坂の上の雲』という小説を書き終えたあと、明治人というのが、昭和ヒトケタに 小学生だった私でさえ、外国人に思えました。明治人がもっていた職人的な合理主義は、
事は、解決しました。後年、リコルドと、日本から解放されたゴローニンは、『日本幽 囚記』という本を書きます。 「この人を知らないか」 私は、神田駿河台のあたりを歩いて、ロシア正教のニコライ堂を見るとき、い つも嘉兵 衛のことを思いだします。 この特異なドームをもった建物をたてたニコライさんは、白髯の大主教の写真でわれわ れになじみですが、彼にも当然ながら青年期があって、田舎の補祭の家にうまれ、官費神 学校から神学大学と経ました。その間、学校の図書館でゴローニンの『日本幽囚記』を読 み、嘉兵衛の人柄にうたれ、この人に会いたいと思い、日本を志します。たまたま江戸日 本とロシアに国交ができたばかりで、函館にロシア領事館がありました。『日本幽囚記』 には、どこで描かれたのか、油彩による嘉兵衛の顔が写真版になっていて、ニコライはそ れを示しながら、函館のあちこちを歩き、 「この人を知らないか」 といってさがすのです。やがてその人物はとっくのむかしに死んで、いわば歴史上の人 202
る。 朝詳儒教ではとくにこの差別がきびしく、たとえば人というのは儒教文明圏に所属する 者を言い、他はそうではなく一種の人間、ときに動物のようでもある。 『看羊録』では、日本人については人とよばず、倭とよぶ。 むろん倭とは日本の古い国名・民族名のことながら、『看羊録』で使われているこの用 語は蕃という語感で、蕃は人に似て人とは言いがたい。 ウェ / ム 従って『看羊録』では、日本人個々については倭とよび、ときに倭奴という。 群がれば群倭、将校は将倭、兵士は倭卒である。 こういう措辞は、のちの平和な十八世紀、徳川吉宗のときに来日した朝鮮通信使の製述 官申維翰の『海游録』でもそうで、日本をそのようにみる型はその後も存在した。 それが儒教とくに朝詳儒教というものだった。 華は高く、夷はひくい。 しゆらい 『周礼』はいわば、礼教の典範である。蕃国について、 これ 「九州之外、之ヲ蕃国ト謂フ」 という。むろん朝鮮はこの九つの州に入っていない。 156
藤原姓をなまで称したのは、おそらく日本でかれ一人だけだったかと思える。 惺窩の異常な誇りの高さは、病気のようなものだった。この病気が、かれを浪人の境涯 にとどめさせていた。 孤高というより、その国の土に足をつけなかった点で、みずからを虚妄にした人という 168
1 連歌 首尾よく座敷にしのびこみ、道具類をみつけたまではよかったものの、そこに当家のあ したた るじが懐紙に認めた発句が置かれていたことから、二人は盗人である立場をわすれる。 二人はその句のあとに付けるべき句を考えて夢中になるうちに、その家のあるじが座敷 に入ってくる。 ところがあるじも連歌狂であったため、二人に連歌を仕かけ、その句のあとによき句を 付けたれば命をたすけようなどという。二人は正直に盗みの動機は連歌にあると白状する と、あるじはむしろよろこび、太刀と小さ刀を贈り、ともどもに連歌の徳をたたえるとい う筋である。 連歌の座を支配する職業的な連歌師も成立した。 そうぜい たとえば宗砌 ( ? ~ 一四五五 ) という法師が出た。法師といっても正規の僧ではなく、 ほったい 単に俗世から超脱して階級外だということを示すための法体だった。 みんぶしようゆうときしげ もとは山名氏の家臣で、俗名を高山民部少輔時重といった。若いころに世を捨て、京 かねら に住み、公卿筆頭の一条兼良の『源氏物語』の講義などを聴いたという。 よしのり のち将軍足利義教によって、文安五年 ( 一四四八年 ) 、連歌会所奉行職に任ぜられた。 117
つもりでしたが、やがて西郷は、自分の鑑定ちがいだったことに気づき、長州が出した大 将を黙認します。 木戸が蔵六を最初に見たのは、江戸の小塚原で、蔵六が刑死人の解剖をしていたときだ そうで、その腑分けのたしかさと、慎重さ、しかも動作に確信の裏付けがあって、むろん 多弁ではない人柄に奇妙さを感じたのだそうです。きくと、同じ長州人だという。蔵六の なにかに木戸のかんが働いたのでしよう。 いわみ 蔵六は木戸の推挙で、第二次幕長戦のとき、山陰への部隊をひきい、石見の浜田城をあ つけなくおとしました。実戦の部隊長としての蔵六は、情報をできるだけあつめ、みずか らも木にのばって敵情を見、勝っと思えば兵力を集中して迅速に攻撃するというやり方で した。やがて戊辰戦争、そして上野の彰義隊の乱とことごとく作戦の指揮をとり、一度も 誤りがありませんでした。自身、馬にものれず、むろん撃剣などやったことがありません。 変な人を木戸はよく見つけたものだと思います。 ついでながら木戸の政治家としてのえらさは、政治が軍を統御し、軍を政治化させない 力という堅固なルールを藩内政治の段階でももっていたことでした。彼は奇兵隊の政治団体 の 間化をおそれていましたし、のち明治政府に出てからも、この一点にかわりがありませんで 人 した。明治政府になってから、西郷が軍を代表し、しかも圧倒的な人望があったことに、 こっかつばら 195
ステイト ないということは、当時の気分でした。日本にはいまだ法的国家による国民が成立してい なかった時代です。嘉兵衛は、みずからに国家を代表する責任を与えました。嘉兵衛はひ とすじに誠実でした。そのあまり喜劇的でさえありました。リコルド少佐を相手役にし、 二人の間で、交渉のための言語を成立させるのです。 嘉兵衛はリコルドだけでなく、水兵たちにまで敬愛されるようになりました。 つい、小説の筋を追いそうになりました。 ただ嘉兵衛の側に、漢学を中心とした江戸期の教養がないにひとしいのです。嘉兵衛は 十二で奉公した人です - から、江戸期の民間の通念や哲学といったものが、充満していまし た。リコルドとのあいだの共通語を、一、 二の例でいいますと、 「テン」 と、嘉兵衛が上を示したときは、人間にとってどうにもならぬ運命もしくは天の意志と いうことです。 「クスリ」 カ といったときは、ききめがある、ということです。〃なるほどその方法はいいクスリだ〃 間とリコルドが理解します。嘉兵衛はリコルドたちにつねに毅然としていて、つねにやさし 人 く、その上、ユーモアをもっていました。 201