伊勢 - みる会図書館


検索対象: この国のかたち 5 (1994~1995)
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1. この国のかたち 5 (1994~1995)

国家予算が極度に小さくなった。 みくりや 伊勢神宮自身も、前代未聞なことに、御厨 ( あるいは御園 ) という名の荘園をもつよう になった。そのことで、経済的には半ば自立した。反面、半ばを他に依存した。その結果、 「私幣禁断」がゆるまざるをえず、ひとびとの寄進をうけつけるようになった。 従って、ふつうの人が伊勢神宮に参拝するようになった。平安後期ごろからである。 一八 ~ 九〇 ) も、参拝をした。 平安末期に世をすごした西行 ( 一一 かたじけな 「何事のおはしますをば知らねども辱さに涙こばるゝ」 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よ く斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことで あった。 むろん西行は若いころ北面の武士という宮廷の武官だったし、当代随一の教養人でもあ る上、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会も催しているのである。 " 何事がおはします , かを知らないどころではなかった。 室町・戦国の世になると、伊勢神宮は神領の多くを各地の豪族に横領された。 この疲弊と逆比例して、無名の庶民による伊勢詣りがさかんになった。 なにごと みその

2. この国のかたち 5 (1994~1995)

えんぎしき 十世紀初頭の『延喜式』 ( 古代の法典 ) にすでにこの滝原の宮のことが出ている。 とおのみや ないくう 「大神 ( 伊勢神宮の内宮 ) の遥宮」というのだが、遥宮の神学的な意味はわからない。神 名の記載もない。 このふしぎな滝原の害と、それを大型にしたような伊勢神宮との関係についても古記録 、カ十 / . し - ) とあ 本居宣長のいう一言挙げをしないまますくなくとも十世紀以来、滝原の宮は伊勢神宮によ って管理され、祭祀されてきた。神道そのものの態度というほかない。 滝原の宮には内宮の社殿を小さくしたような社殿もある。伊勢神宮と同様、この山中で、 二十年ごとの式年遷宮もおこなわれている。 私が見た滝原における白い河原石が一面に敷かれた場所は、じつは遷宮のおわったあと の敷地なのである。しかし、なまじい社殿があるよりも、以前そこに社殿があり、かつい 圓ずれは社殿が建てられる無のようなこの空閑地にこそ、古神道の神聖さが感じられる。 さて、伊勢神宮のことである。 神宮のはじまりは古いが、祭祀の基本である二十年ごとの建てかえ ( 式年遷宮 ) が制度 おおかみ

3. この国のかたち 5 (1994~1995)

96 神道 江戸期には伊勢神宮は幕府から六千二百石の領地をもらっていた。 しかし超然とすることができないほど、庶民の伊勢信仰がさかんになった。諸国の村々 おかげ で伊勢講がつくられ、江戸の町民のあいだには " 御蔭参り。が流行し、『東海道中膝栗毛』 のような滑稽本を通しても察せられるように、参詣人は武士階級よりも庶民が圧倒的に多 つ ) 0 、刀子 / 社稷が、大衆化したのである。

4. この国のかたち 5 (1994~1995)

まみず 古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す。 例として、滝原の宮がいちばんいい。 滝原は、あまり人に知られていない。伊勢 ( 三重県 ) にある。伊勢神宮の西南西、直線 にして三十キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にし たような境域に鎮まっている。 場所はさほど広くない。 森の中の空閑地一面に、てのひらほどの白い河原石が敷きつめられている。一隅にしゃ がむと、無数の白い石の上を、風がさざなみだって吹いてゆき、簡素この上ない。 5 ・田ー 道 ( 三 ) おわ

5. この国のかたち 5 (1994~1995)

稷とは、原義はキビのことで、転じて五穀一般、食物のすべてのこと。さらに転じてそ つかさど れを司る神のことをいう。 しばしば宮殿の一隅 要するに、古代中国の都市国家では、建国の王が首都の一隅に にーー社稷をまつる壇をつくった。 社稷はひとの目にさらされることはなく、とくに神官もいなかった。時を定めて王のみ これをまつることはできなかった。 が参拝した。他の者は , ーー王族といえども さて、伊勢神宮のことである。 あまてらすおおみかみ いつの時代かは、文字による資料はないが、天照大神という、多分に太陽信仰を思わ せる神ーーー御魂代は八咫鏡ーーが、伊勢の五十鈴川のほとりにまつられた。その後の内宮 の起源である。 外宮は、五世紀後半になって、ようやく造営された。二つあわせて、伊勢神宮になる。 外宮が造営されるにあたって、食物の神が探されたらしい。ようやく丹波 ( 京都府 ) の まな 比治山の頂上の麻奈井 ( 真奈井 ) という池のほとりに穀物・食物の神がまつられているこ とゆけのおおかみ とがわかり、伊勢にうっされ、豊受大神とした。これが、外宮の祭神である。トユケの ケは、食物の古語である。ただし、この神名はが記紀〃にも見あたらない。

6. この国のかたち 5 (1994~1995)

十三世紀末か十四世紀に成立した『源平盛衰記』に、伊勢神宮のことを、〃宗廟社稷〃 と表現している。物語本だから、筆者が気まぐれにそう表現したといえば、それまでだが。 もっとも、古代中国ふうの社稷なら首都の中心に置かれねばならないし、構造も壇だけ のほうがいい。 伊勢神宮は、そのような " 原則。からはずれるものの、私は五世紀後半に外宮が設けら れたときをもって、日本化したかたちながら、社稷とされたと考えたい。古神道のおもし いんゅ ろさは、そういうことさえ語られていないことである。従って、隠喩だけで意味を測らね ばならない。 記録以前も、奈良朝のころも伊勢神宮のいっさいは国費でまかなわれていた。古代中国 の社稷と同様、私幣はゆるされなかった。 神宮に幣帛を奉ることは天皇のみにかぎられ、皇太子といえども勅許を必要とした。こ 同のことも、隠喩になる。社稷という意味が籠められていそうである。ついでながら、幣帛 ぬの とは、元来布のこと。転じて、経費のこと。 神 平安朝に入って、律令の世が疲弊した。貴族や社寺が荘園という形式の私領を増大し、 へいは′、

7. この国のかたち 5 (1994~1995)

せんみよう を宣命したのである。 仏教国家樹立の宣言といえる。 聖武天皇にもひるみがなかったわけではない。 とくに、伊勢神宮に対してであった。 しゃ 伊勢神宮は皇室の宗廟であるだけでなく、神社の筆頭であり、また中国ふうにいえば社 しよく 稷そのものだった。聖武天皇の憚りは当然だったといっていし ぎようき そういう憚りがあったために、大仏造立の詔を発する前々年 ( 七四一年 ) 、僧行基を伊勢 に派遣したのである。 行基がえらばれたこと自体、風変わりというほかない。 かわち この人は河内の渡来系の家系にうまれ、いったんは官僧 ( いわば国家の僧 ) になり、のち 民間の僧になった。つねに民衆のなかにいて、医療を施したり、用水池を掘ったり、また 道場 ( 私設の説教所 ) をひらき、主として因果応報の教説を説いたりした。その人気が大 きすぎたために、政府からしばしば弾圧されたりもした。 が、大仏造立のことが計画されたとき、政府は行基の人気を利用しようとし、これを招 いた。行基も招きに応じた。かれは大仏造立には賛成だったのである。

8. この国のかたち 5 (1994~1995)

として、はじめて実施されたのは、持統天皇の四年 ( 六九〇年 ) で、以後、こんにちにい たる。 りつりよう 律令時代は、国費でおこなわれた。 げくう 伊勢神宮の内宮・外宮が、建物から敷地に敷きつめられた河原石にいたるまで二十年ご とに一新されるというのは、一見、むだなようにみえる。しかしこの遷宮そのものが、無 言の思想表現らしいのである。 といって、日本人が、物の考え方の基本として新しさを好むのかということにはならな 一方においては、日本人は、古さをも好むのである。仏教寺院においては、建物の古び や塗料の剥落などを気にせず、とくに中世末期にはそこに寂びやわびを見出し、むしろ珍 おおでら 重してきた。奈良の大寺なども、天平 ( 八世紀 ) のころは青や丹でかがやいていたはずだ ったが、その後ことさらに古びにまかせ、古びのなかに永遠の時間を感じようとするのか、 これを佳しとしつづけてきている。 が、一方では、伊勢神道のように、新しいものにいのちが宿るという思想がある。 「お若くおなりになって、おめでとうございます」 というあいさつは、古くは、民衆のあいだで、正月に交わされていた。

9. この国のかたち 5 (1994~1995)

伊勢 ( 三重県 ) の津は、人情の穏やかな土地である。 この春 ( 一九九五年 ) 、用があって二泊した。朝、散歩に出ようとすると、宿の人が、 ゅうき 「結城さんの梅が、七分咲きですよ」 と、教えてくれた。タクシーをとめて、 「結城さんまで」 というと、五十年配の運転手さんが、 「ハイ、結城さん」 と、復唱した。着いたのは、結城神社という神社だった。 境内の半ばが、梅林である。数歩ごとにちがった梅の木に出あった。紅白さまざまで、 宋 学 ( 三 ) 134

10. この国のかたち 5 (1994~1995)

伊勢神宮の遷宮の儀は、夜、老杉の森の闇のなかでおこなわれる。 一夜明けて翌朝、おなじ境域に入り、新しい宮居がかがやいているのをみたとき、たれ もが、その若々しさに圧倒される。すべてヒノキ材で組まれた簡潔この上ない構造物だけ に、宮居も神垣も、誕生したばかりのいのちの威厳を感じさせ、見ていると、浴びている ような感じがする。 私事をいうと、昭和二十八年 ( 一九五三年 ) の遷宮のときは、まだ若かった。 新聞社につとめていて、社命によって洋画家宮本三郎氏らのお供をして遷宮の闇のなか 「あ、来ているな」 と、境内で出遭った権少宮司にからかわれた。じつはそれより数年前、神宮司庁を訪ね て、 やたのかがみ 「ご神体 ( 八咫鏡 ) を拝見できないものでしようか」 と、無鉄砲なことをいったのを、記憶されてしまったのである。私の二十代のことであ る。 ごん