るとした。 のちに漢という大帝国をおこす劉邦は、本来野人だった。 このため、諸教団のなかでもとくに儒家教団が気どり屋のように見えて好まなかった。 ひょっとすると、劉邦は儒家など葬儀屋程度に思っていたのかもしれない。 あるとき、試みに儒者の進言を用いて文武百官の儀典をとりしきらせたところ、荒くれ た将軍たちまで進退を拘束され、羊のようにおとなしくなって、皇帝を拝礼した。劉邦自 身があきれ、 「わしは今日はじめて皇帝の貴さを知った」 と一いったと一い , つ。 儒教が国教になるのは、劉邦からかぞえて七代目の皇帝の武帝 ( 紀元前一五九 ~ 同八七 ) からである。以後、二十世紀初頭の清までつづく。その間、十二世紀の朱子などによって、 形而上学的要素が濃厚に加わる。 清が倒れ、共和制になった中国において″五・四運動〃という愛国的な近代化運動がお こった。この運動にあっては、それまで聖賢の教えとされた儒教が、中国を停滞させた諸 悪の根源であるとされた。 170
18 宋学 (-) 宋は、遠い漢以来、儒教をもって国教としている。儒教とは、華 ( 文明 ) であるにはど うすれよ、、ゝ 。しし力という〃宗教〃で、野蛮を悪としてきた。 しかし、現実には文明が野蛮に服従している。この矛盾が、宋学という形而上学を発達 させたといっていし 宋代の形而上的思考を、宋末に出た朱子 ( 一一三〇 ~ 一二〇〇 ) が集大成した。 「道学」 冒頭の時代に日本に入った宋学 ( 朱子学など ) が、イデオロギーの作用をしたことは、 以前、述べたことがある。 くりかえすと、宋学という形而上学を成立させた漢民族王朝の宋 ( 九六〇 ~ 一二七九 ) に は、つねに危機状況があった。 諸種の異民族勢力が、入りこんできたのである。 その末期はことに凄参だった。東北地方に興った女真人が、華北に金という征服王朝を たて、このために宋は南に移り、さらには屈辱的な外交を強いられた。文明 ( 華 ) が、 ″野蛮みに隷属した。 123
また科挙の制という規範的なたががなかったため、日本の儒学は本場とくらべて自由 あるいは形態として不定形。ー・、・だったといえる。 学 たとえば江戸前期の儒者山崎闇斎 ( 一六一八八 (I) がある日、弟子たちに質問した。 江 「いまかりに、中国から孔子を大将とし、孟子を副大将として数万の軍勢がわが国に攻め の てきたとすれば、われら孔孟の道を学ぶ者はどうするか」 弟子たちがだまっていると、闇斎は、 「大いに戦い、孔孟をひっとらえて国恩に報いねばならぬ。それが孔孟の道である」 だ。 日本の場合は、異る。 徳川幕府が明や朝鮮をならって朱子学を正学としたことまでは、同じである。 ただし、科挙の制を用いなかった。 さらには、習俗まで儒教化しなかった。 また幕府は朱子学を正学としつつも、江戸前期までは強制をしなかった。 もう一つ加えると、識字率が高かったため、『論語』などを読む層が庶民にまでおよん あんさい
102 鉄 (-) ないかとおもえる。 古代製鉄は、戦争のように多くの人数を必要とした。山に入って鉱石や石炭をとる人達、 炉のまわりで冶金する人達、運送する人達、さらにはそれらのひとびとのための食糧をつ くる農民などといったふうで、それらが一つの経営体として組織されていただけに、為政 者からみればおそろしかったろう。その上、製鉄業者は、巨富を得ていた。 さらには、鉄器がひとびとの好奇心をつぎつぎに生みだすということも、武帝には不安 だったかもしれない。 武帝は、果断だった。かれは鉄を専売制にすることによって、あれほど沸騰していた製 鉄やその業者たちを、一挙につぶした。つまり「鉄官」を置き、鉄のいっさいを官営にし た。製鉄業は衰え、その技術の進歩はとまった。 さらには、武帝は精神面の統一もはかった。儒教を国教にしたのである。 古代にのみ価値を置き、好奇心を卑しむ儒教という思想を国教とすることと、「鉄官」 の設置は、後世から考えると、セットだったようにおもわれてならない。 前置きとしてのべた。 以上、日本史における鉄についてのべる前に、」
112 宋学 ( 四 ) され、かれが擁した北朝が閏とされた。従って南朝が正とされた。理由は、こんにち論ず るにも値いしない。ともかくも南朝方の正成の人気があがった。 幕末、尊王攘夷が叫ばれるころには、正成の人気は沸点に達した。 こんびら 讃岐 ( 香川県 ) の金比羅大権現のそばに住む加島屋長次郎は大きな勢力をもっ博徒であ くさなぎえんせき る反面、日柳燕石という名をもっ漢詩人だった。小男だったらしい 燕石は、諸藩の脱藩の志士をかくまうことで知られた。そのなかに、長州藩を亡命した 高杉晋作もいた。 ついでながら、儒教での理想的人格は、聖人とされる。聖人は、当然ながら、儒教を生 んだ中国においてのみ出る。 江戸時代の儒者の多くは、日本において聖人が出なかったことが、かすかに不満だった らしい 燕石のつぎの詩は、そういう不満をも踏まえている。正成の本質は聖人だというのであ る。 一ぬき 日東有聖人其名日楠公 143
幕府は管理の巧みな政権で、山伏という、一見捕捉しがたい非僧非俗の存在を、天台系 しようごいん と真言系に分け、前者を京都の聖護院に、後者を醍醐の三宝院にそれぞれ束ねさせた。っ まり、山伏が仏者なのか神道の徒なのかという課題においては、仏教のほうに四捨五入し ぎようたい しかし山伏たちの宗教的行体をみると、神道のにおいが濃い。 たとえば仏者は潔斎をしないが、山伏は神道ふうに身を浄め、物忌みをする。また仏者 がしないところの参籠もし、また神前に御幣も奉る。 その祖の役小角が上古以来の山岳崇拝を持ちつつ、仏教とくに密教の破片を借用したよ うに、後世の山伏も、本質は仏教以前の神道的な性格を持しつつ、密教を借りていた。 江戸後期に、国学が勃興した。 とともに、山伏の意識も、神道的性格が濃くなって行ったように思える。 ひゅうが ここが山伏の霊場になるのは、平安初期か 例として、日向の霧島山の霊場を考えたい。 国らである。 しようくう 天暦二年 ( 九四八年 ) に、性空という山林修行者が入山して社寺を建てたのがはじまり とされる。性空が、この地が " 記紀。神話の国生みのはなしが伝承される地であることを 知っていたかどうかは、わからない。たとえ知っていたとしても、仏、菩薩、権現といっ っ ) 0 ごんげん
その儒教が、中国において国教として採用されたのは、漢の武帝 ( 前一五九 ~ 前八七 ) の ときである。 漢代はまだ十分に儒教が浸透してなかったのか、諸橋轍次の『大漢和辞典』をひくと、 スマートなことに、「外国」という言葉の用例が漢代の『史記』や『漢書』に出てくる。 『漢書』では、武帝が「甘泉宮ニ行幸シ、外国ノ客ヲ饗ス」とあり、対等の語感がある。 につそう 十三世紀の鎌倉時代、京の公家の出の若い道元が、禅を求めて入宋した。乗ったのは貿 易船らしく、明州 ( いまの寧波 ) の港に入った。明州は河港である。 乗員・乗客がすべて下船し、道元だけが船中でひとり留守をしていた。 そこへ六十を越えた老僧が、 「シイタケはないか」 と、訪ねてきた。シイタケは当時の日本の輸出品の一つで、料理のだしをとるのに使わ れた。 録 てんぞ 羊老僧はこのあたりの阿育王山広利禅寺で典座 ( 炊事係 ) をつとめている人である。あす 看 めんじゅう は端午の節句だから山内の雲水たちに麺汁をふるまいたいのだ、という。 道元は驚き、問うた。あなたはそんなに修行を積まれたというのに、まだ典座なのか、 159
神道 かむ ことあ 「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」 という歌がある。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当 時ふつうに存在したのにちがいない。 神ながらということばは、 " 神の本生のままに〃という意味である。言挙げとは、、 , までもなく論ずること。 神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれそれ神であ る以上は、山は山の、川は川の本性としてーー、神ながらにーー生きているだけのことであ る。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。 例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山は、 すでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはず メタ らんき もなく、論をなすはずもない。三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気をもって、感ずる人にだけ隠 喩をもって示す。 日本史は中世になって多弁になる。さまざまな階層の人が、物語や随筆や仏教論などを 書くようになった。 神道までが、中世になって能弁に語りはじめたのである。 あしはらみづほ かん
とう・と 地理的には朝鮮は蕃国ながら、しかし古くより華を尚び、とくに七世紀の統一新羅のこ ろには、人名・地名ともに中国風にした。いわば華に準ずるごとくにした。 十四世紀の李氏朝詳になってことに濃厚になった。 ときに中国では元 ( 蒙古帝国 ) が倒れ、漢民族王朝の明が勃興した。それに連動するよ うに李氏朝詳が興った。李氏朝詳は前王朝の高麗朝が愛した仏教を禁じ、儒教をもって国 教とした。科挙による官僚制も確立した。つまりは明とイデオロギーを共有したのである。 華の国である明に対して、 " 事大〃の礼をとり、明を天朝とよんだ。事大とは大に事え るということで、後にその語感のわるさが民族的自尊心を悪しく刺激したが、当時は事大 こそ礼教に適うとされた。 に、小国は大国に事えるほうがいい ( 小ヲ以テ大ニ事フ むろん、典拠があった。『孟子』 ル者ハ天ヲ畏ルル者ナリ ) という。 李氏朝鮮は西洋式で言う属国ではなかった。前王朝の高麗朝は、非儒教の元 ( 蒙古帝国 ) 録 羊におさえられ、外交権までうばわれた。 看 せいちゅう しかし李氏朝は明からの掣肘はうけす、外交権も保有した。 李氏朝鮮は、平俗にいえば、中国に在す皇帝をもって本家とし、朝鮮王は分家であると かな しらぎ つか 157
「羝」 おひつじ とは、牡羊のことである。匈奴は、羝が子を産めば漢に帰してやろうといった。なんだ か童話じみているが、ともかく『漢書』ではそういう。 その後、いきさつのすえ、蘇武は漢にもどった。 すでに武帝はこの世になかった。蘇武は匈奴の地にとどまること十九年、髪は白かった とい , つ。 帰還後、典属国という官職をもらい、晩年には関内侯という栄爵までうけた。 姜沆は紀元前の蘇武に対し、十六世紀後半の朝鮮全羅道の人である。儒家の名門にうま れた。 ついでながら李氏朝鮮国は明の冊封をうけている。西洋風にいえば属国になる。 しかしいまの語感での属国ではない。 いわば明の皇帝をもって天朝となし、みずからは王として下位に居り、宗分家としての 礼をとるという儒教的秩序 ( 礼教 ) の上だけのことで、明から内政の干渉をうけることは な、かつ」。 朝鮮では、明に似て、科挙の制があった。合格すれば国王の股肱となって生涯官の要路 著一くほう . 150