鉄 ( 一 l) 鉄 ( 三 ) 鉄 ( 四 ) 鉄 ( 五 ) ” 室町の世 連歌 宋学 ( 一 ) 宋学 (ll) 宋学 ( 三 ) 宋学 ( 四 ) 107 122 128 134 141
18 宋学 (-) 宋は、遠い漢以来、儒教をもって国教としている。儒教とは、華 ( 文明 ) であるにはど うすれよ、、ゝ 。しし力という〃宗教〃で、野蛮を悪としてきた。 しかし、現実には文明が野蛮に服従している。この矛盾が、宋学という形而上学を発達 させたといっていし 宋代の形而上的思考を、宋末に出た朱子 ( 一一三〇 ~ 一二〇〇 ) が集大成した。 「道学」 冒頭の時代に日本に入った宋学 ( 朱子学など ) が、イデオロギーの作用をしたことは、 以前、述べたことがある。 くりかえすと、宋学という形而上学を成立させた漢民族王朝の宋 ( 九六〇 ~ 一二七九 ) に は、つねに危機状況があった。 諸種の異民族勢力が、入りこんできたのである。 その末期はことに凄参だった。東北地方に興った女真人が、華北に金という征服王朝を たて、このために宋は南に移り、さらには屈辱的な外交を強いられた。文明 ( 華 ) が、 ″野蛮みに隷属した。 123
日本に最初にイデオロギーが入ったのは、十四世紀の鎌倉時代の末期ごろである。宋学 とよばれた。鰻屋の蒲焼の香りが路上までただよう程度の入り方ながら、影響は激甚だっ かって述べたがーー唯一絶対の一個の観念がするどい ここでいうイデオロギーとは 切っさきをなし、剣のように体系化された思想のありかたとして使いたし これをもって、地上の諸存在を善か悪かに峻別し、検断する。 さて、宋学 ( 朱子学など ) のことである。 その前に、現実の宋についてふれたい。 109 宋学 ( 一 ) 122
くん , ) とよばれた。朱子は、字句の解釈をやかましくいう " 漢唐訓詁学。という現実的な人文 科学的方法よりも、むしろこうあるべきだという観念を先行させた。イデオロギーたるゆ えんである。 朱子学にあっては、歴史についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあ て、正邪を検断した。 ついでながら、江戸時代、幕府は朱子学をもって正学、あるいは官学とした。江戸中期 以後、朱子学に対し、これを " 虚学。あるいは空論とみる学派が出てきたのは、江戸時代 の思想史のかがやきといえるが、ここではふれるゆとりがない。 中国では、 " 野蛮。な元が、 " 文明。の宋を滅ばしながら、文明の学問である朱子学を官 学とし、科挙の試験も朱子学に拠らせた。このことは、二十世紀の清の末期までつづく。 李氏朝鮮も同様で、そのことが、中国や朝鮮の停滞の遠因の一つともなった。 話を冒頭にもどす。 鎌倉末期に、日本にも、ほのかながら宋学がったわりはじめたのである。 そのころ、中国との私貿易によって、書物が輸入されていた。 ひとびとは、寡少な書物をあらそって読み、″正邪〃の明快な宋学の考え方に影響され 124-
18 宋学← ) その多様のなかには、九州や瀬戸内の私貿易の徒や京や奈良の造り酒屋、あるいは近畿 ・はしやく 一円の馬借・車借といった、銭と人数をもつ新興の地下勢力がいた。 また山野には、非正規の武士たちもいた。 かれらは、 「悪党」 とよばれていた。 しそう 後醍醐天皇の派は、思想は〃宋学〃ながら、実際に使嗾し、糾合しようとしたのは、そ れらの新興勢力だった。この占 つまり、宮廷人が地下の勢力と結びついたあたり 様相としては革命に似ていた。 127
110 宋学 C) 文観の教学では、類推が卑俗としか言いようがない。たとえば、空海以来の重要な法具 として、真鍮製の五鈷というものがある。文観は、五鈷の形態が男女が合したかたちに似 ているとし、人間そのものが法具だとまでいった。教学といえるものではなかった。後醍 醐天皇は、この文観に帰依した。 以上で、鎌倉時代の諸思想を概観した。 これに、宋学が加わる。 さらに、鎌倉末期にいたって、貨幣経済が勃興する。貨幣そのものは思想ではないにせ よ、自給自足経済に貨幣が入ると、どの社会でもその初期には人心が荒れるのである。 のちに来る南北朝の乱は、このような時代相を基盤にしていた。 133
1 12 宋学 ( 四 ) 楠木正成は、後世のイデオロギーのなかで浮沈した。 正成は、鎌倉幕府の崩壊から、南北朝時代にかけて、後醍醐天皇方 ( 南朝 ) の武将とし てあらわれる。本来、河内国 ( 大阪府 ) の金剛山麓の土豪だった。その死後、『太平記』に より知名度が高くなった。 人柄が、よかった。その時代の乱世に興亡した武将の多くが利害で動いたのにくらべ、 正成ばかりはその気配が薄かった。 かさぎ 当初、笠置の山中に流寓していた後醍醐天皇に見出された。そのときの一諾だけでみず からの生涯を決定し、その後、情勢が南朝方に不利になっても、一族をあげて態度を変え 宋学 ( 四 ) 1 引
Ⅲ宋学 「南朝が正しい」 」朝を非正統としたのは、武士という " 夷。に擁されていたからとするのだが、武士も 日本人であることを、舜水は無視していた。宋学の空論たるゆえんといっていし 水戸中納言とよばれた光圀は老いて隠居した。 世間は、中納言の唐名である黄門の敬称でよんだ。 元禄五年 ( 一六九二年 ) 光圀は家臣の佐々宗淳をいまの神戸の湊川にやり、一個の碑を たてた。 まさしげ 光圀は、南朝の諸将のなかで、人柄と戦略の才においてきわだっていた楠木正成 ( ? 一三三六 ) を顕彰した。正成をたたえることによって、南北朝史における正邪を水戸学の 立場から明快にした。 、月にたてた碑面の題字は光圀自身が書き、碑陰には、すでに故人になった舜水の正成 に関する遺文を刻んだ。世間で評判になった。 このことが、津の " 結城さん〃の墳墓にも影響した。 とう′」ら・ 津は、江戸時代、藤堂氏城下である。藩校の主宰者である津坂東陽は、城下に伝結城宗 ひいん 139
年に即位した。ただしこの天皇は、右のルールをまもることなく、中国風の独裁皇帝を志 向し、さらにはひそかに倒幕を企てた。 天皇その人が、新来の宋学の信奉者だったのである。 中国では、歴朝の皇帝は、ただ一人で天下を私有した。宋朝はとくにそうで、皇帝によ る独裁制だった。後醍醐天皇はその制をめざした。平安朝以来の天皇が多分に象徴的存在 だったことからみると革命というほかなかった。 側近には、宋学をふかく学んだ下級公家の日野俊基・資朝を抜擢した。 しようちゅう 即位後七年、倒幕の計画が洩れ、幕府によって弾圧された。正中ノ変 ( 一三二四年 ) で ある。 もんかん それより前に、俊基や僧文観ら天皇の側近が、世の武装者に働きかけて、乱をおこすべ く同意をひろげていた。やがて、『太平記』にえがかれたような南北朝の乱が現出する。 この時代の既成階級といえば、幕府の御家人だった。かれらが全国の守護・地頭になり、 が、経済の発達によって、全国に〃非正統〃の実力者が、多様に輩出しはじめていた。 〃正統〃の権力を保持していた。 としもとナ・けとも 126
広の墳墓とされる塚があることに気づき、藩主を動かし、湊川の正成碑にならった顕彰碑 を建てた。 幕末の革命思想はきわめて単純で、尊王攘夷だった。 たとえば幕末の奔走家で、昭和十四年まで長命した土佐の田中光顕 ( 一八四三 ~ 一九三 九 ) は、「自分は土佐に生をうけた。しかし精神の故郷は水戸である」と、やや気取って じよううん 言っている。水戸学が醸酬した当時の気分を察することができる。 明治政府の思想上の要素として水戸学はいっそうに濃密だった。その証しであるかのよ うに、維新早々の明治五年 ( 一八七二年 ) 、前記の湊川の地に別格官幣社として湊川神社が 建てられた。 その影響が、十年後ながら、津に及んだ。宗広の墳墓の場所に別格官幣社結城神社が建 てられたのである。 朱子学 ( 水戸学 ) 史観は、太平洋戦争の敗戦とともに消滅した。 〃結城さん〃の梅を見ながら、日本における宋学 ( 朱子学 ) の影響がながかったことを思 みつあき 140