おなじ題を、さきに二度つかった。こんどで三度目になる。多少は重複する。 本来、関東に置かれてきた武家の政権 ( 足利幕府 ) が、京におかれたのは、十四世紀の 京がもっ旺盛な文化と経済の勢いに、足利氏が乗ったといっていし 一三七四年、足利三代将軍義満がこの町域 ( 北小路室町 ) に一大第館を営んだ。以後、 世ひとびとは、 の むろまちどの 町「室町殿」 室 とよび、後の世では室町幕府とよぶ。ほば二百年つづくカ 107 室町の世 ま、ほとんどが乱世であった。 107
敵陣ニ突入ス」 武家政権が、その本務であるはずの武まで、この者どもにゆだねたのである。 応仁ノ乱は、室町体制という芝居の書割のようにそらぞらしい体制が土崩する自然の革 命だったといえなくはない。 以後、百十数年、乱世がつづく。その間、社会は表層と底とがさかんに対流し、豊臣秀 吉の天下統一によって一応の安定をみた。 ぞうにん びと 秀吉は、周知のように雑人から身をおこした。それが天下人になることに、当時の人々 が、驚きこそすれ、さほどに異としなかったのは、応仁ノ乱という中世秩序の崩壊をすで に見ていたからに相違ない。 ついでながら、室町時代が前代と異るのは、貨幣経済の世だったことだった。 幕府が政治のカでそれを湧き出させたのではなく、自然にそうなった。 しかもその貨幣の多くが明銭だったことも、室町幕府のずばらぶりの一つとして数えて しし造幣をせず、しようともおもわなかった。 ただ、・文化はす - ばらしかった。
政治制度を鎌倉幕府にまねながらも、質朴さはまねなかった。室町殿には花をもっ草木 たっと がさまざまに植えられた。『本朝通鑑』では「世人之ヲ崇ビ、花ノ御所ト日フ」とある。 武よりも美を誇示する偏向が、金閣や、のちの銀閣の造営にもみられる。 時代の様相も、十二世紀末の鎌倉幕府の開創当時とは異っていた。 商工業が、前時代とは別国のように発達した。たとえば鎌倉時代では、酒は、自家で醸 こしゅ し自家で消費するだけだった。鎌倉幕府には、酒を売るな ( 沽酒之禁 ) という禁制があっ たからである。その後、弛み、室町時代には醸造業者が巨大化し、金貸しを兼ね、いよい よ富を増した。 そういう大金持のことを、この時代、 「 , っレ」ど、」 とよんだ。有徳、有得という字をあてた。トクをしている、という意味なのか、それと もかれらは幕府からしばしば献金を強いられたーー・ - 。・カネを吐き出すという能力をもってい からか、そのへんはよくわからない。ともかくも無位無官にして富をもっていると いう前代未聞の存在が多数あらわれたために、適切なことばがあてられるゆとりのないま ま、有徳人、有徳者ということばが流布したかとおもえる。 つがん 108
政治は、つねに不在だった。民を治めるという政治思想がすこしでもあらわれるのは、 室町末期、戦国の世の、いわゆる " 領国大名。 ( そのはしりは、伊豆の北条早雲 ) の出現から である。 室町幕府は、その前時代の鎌倉幕府の制度をまねたのだが、この官制は最初からその時 代の実情に適わなかった。統御される社会のほうが、前時代にくらべてはるかに経済的実 力をもっていたのである。 げこくじよう 当時、下剋上ということばが、よくつかわれた。中世末期の編纂である『日葡辞書』 にも、「シモウェニカッ」とある。が、元来シモのほうが体力と智力を貯えていた時 代だった。 上が下をまねることもあった。 たとえば、対明貿易が巨利を博しているのをみて、三代将軍義満は、みずからその高利 を独占しようとした。 ところが、明は原則として私貿易を禁じていた。官貿易は、相手国が、明の皇帝に臣従 しているという場合にかぎられていたのである。義満はこのため " 日本国王〃を称し、国 110
日本史上、学問 ( 儒学 ) の専業者は、藤原惺窩 ( 一五六一 ~ 一六一九 ) が最初というべき である。織豊時代から江戸初期に生きた。 ついでながら、奈良・平安朝のころは、儒学という学問は宮廷のその職の家の者がうけ もち、また鎌倉・室町以後は、僧侶とくに臨済五山の禅僧が、仏学の片手間としてそれを 担っていた。江戸時代は、主として幕府や諸藩の儒者が、学問の水準を維持した。 くエう 惺窩は、戦国末期、村住まいの公卿というふしぎな家にうまれた。 れいぜい 父の為純は、参議だった。冷泉をもって通称としていた。 室町末期の乱世以来、京の公家官人は地方の所領にのがれる者が多かったが、多くはそ にな 藤原惺窩 せいか 162
諸国の農村の状況も、鎌倉時代とは一変している。 国々で未耕地の開墾や干拓がすすみ、全国的に農業生産があがった。 従って人口がふえた。各地の開拓は支配者がやるのではなく、庶人がやった。このため、 農民に自立の気風が興った。日本史上、農村に独立自尊とも言いたくなる気分がみなぎつ たのは、室町の世だったかもしれない。 むらおきて かれらは自衛のために鎮守や寺を中心に結束し、寄合で合議し、村掟をつくり、自治 の勢いをつよめた。また共通の外敵に対し、ときに十数カ村がひろびろと結束する場合も あった。 この結束を、一揆とよんだ。揆ヲ一ニス。揆とは、考え方、はかりごと、計画の意味。 地域党といっていし このため農村はつねに武装していた。その代表格は地侍とよばれ、一国規模の大いなる くにしゅう 世存在のことを国人あるいは国衆とよんだ。かれらは室町幕府の正規の武家 ( 守護・地頭 ) 町ではなく、い わば土豪劣紳だった。のちの戦国の世には、この層が時代を代表するように 室 なる。たとえば徳川家康の祖の松平氏は、三河の国人だった。 109
としか一一一一口いよ , つが、ない。 教科書風に歴史を復習すると、幕末の京は、一時期、無政府状態におちいった。もしそ ういうことがなければ、会津藩の上にのどかな日々がなおもつづいたにちがいない。 ときに、日本国政府である幕府は、将軍の名においてアメリカなどと和親条約を結んだ。 これに対し、在野世論と長州などの雄藩が鎖国と攘夷を主張し、幕府とはげしく対立し こ 0 いいなおすけ 幕府の大老井伊直弼はこれらの世論に対し、大量処刑で臨んだものの、かれ自身が江戸 城の桜田門外で浪士団に襲われ、殺されることによって、幕威が墜ちた。 反幕の気分は大いにあがった。 攘夷派の志士たちや長州人たちが多く京にあつまり、天誅という名の暗殺を流行させ、 既存の所司代も奉行所も、手の施しようがなかった。 明治維新の六年前の文久二年 ( 一八六二年 ) のことである。 幕府は、非常治安機構ともいうべき京都守護職を置くことにした。
1 ⅱ宋学 ′ 1 りレう 宗広の臨終の相は仏教の通念でいえば異常だが、日本の古くからの御霊信仰にはかなっ 、 ) んじト - う ている。魂魄のたけだけしさや今生に残す妄念こそ斎き祀られるべきものだった。十世 紀の平将門が神田明神になり、平安後期の鎌倉権五郎が鎌倉の権五郎社にまつられている ようなものである。 宗広の塚は、土地の人から〃入道塚〃などとよばれて、病気なおしの土俗神になった。 一説に、宗広が吹きもどされて死んだ地は津ではなく、伊勢の山田の吹上だったともい うが、ここでは詮索をしない。 南北朝の争乱は、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対抗して隠岐に流された ( 一三三二年 ) あた りからはじまり、途中鎌倉幕府の滅亡などを経、やがて足利尊氏が擁立する北朝によって 南北朝が合一されるまで六十年ほどっづく。 どちらに正義があったわけでもない。 ただ当時の社会の現実を踏まえた足利尊氏 ( 北朝方 ) のほうが、社会を活性化させるの に役立ったといえる。北朝の世になって、日本文化の祖形ともいうべき室町文化がつくら れるのである。 137
京文化であることが、遠国の武将たちにとって重要だった。 室町幕府は武家政権ながら、公家に代って京文化を代表したいという気分があった。幕 府が、毎年正月十九日をもって〃連歌始〃の日としたことも、その一例といえる。 連歌は、公家や武家だけのものではなかった。 京では、″地下連歌〃という庶民の連歌もさかんに興行された。 庶民らしく、講を組み、相互分担でおこなわれ、講においては貧富の差別はなかった。 いかに庶民のあいだで流行したかについては、 めすびと 「連歌盗人」 という狂言までできたことでもわかる。 江戸時代の落語のような筋である。連歌ぐるいをしているある貧乏な男が、講の当番に なってしまった。 力道具も金もなか 当番である以上、連歌の座に必要な道具類をそろえねばならない。 ; 、 なにがし った。ついにおなじ悩みの男をさそって、連歌好きの何某という金持の家に、それらを盗 みにゆく。 おんごく はじめ 116
ときに明は、鎖国ともいうべき海禁をしていた。その国是は、一板トイエドモ海ニ入ル ヲ許サズというほどに固かった。 それに対し、秀吉はその故主信長とともに、大航海時代の末流というべき貿易主義者だ った。堺や博多といった貿易港から得る利益をもって、政権の費えを得るつもりでいた。 貿易については、かねて朝鮮を介し海禁の明に申し入れていたつもりだった。が、相手 にされず、ついに " 大明打入。を決断したのがこの出兵だったという。理由は何であれ、 黷武であることにはかわりなかった。 秀吉による朝鮮入りは、二期にわかれ、通計六年余にわたった。日本史では文禄・慶長 じんしんていゅう ノ役といい、朝鮮では壬辰・丁酉ノ倭乱という。 文禄ノ役では、首都平壌まで陥ち、国王は難を明の遼東に避け、明の援兵をもとめた。 秀吉が、明に要求したのは、室町幕府時代の勘合貿易の復活などだった。 交渉は曲折を経て破綻し、後半の慶長ノ役に入った。日本軍は明の援軍と対決するうち、 秀吉その人が死んだため、現地において明軍と停戦し、全軍が帰還した。 152