文明は、記録する。たとえば蘇武 ( 前一四二 ? ~ 前六〇 ) についても、その節義が『漢 書』の「蘇武伝」に記録されている。蘇武とは農業を基盤とした漢の文明の最盛期ともい える武帝の世の人である。 ときに、漢にとっての野蛮の代表が、北方のモンゴル高原で遊牧国家を営む匈奴だった。 むろん、私には当時の中国の " 華。 ( 文明 ) の意味づけには異論がある。匈奴もまた遊 牧という普遍な技術システムの上にたった文明なのである。ただしここでは、中国伝来の 文明意識に従っておく。 軍事においては、騎馬と騎射とを中心とするだけに匈奴のほうがまさっていた。ところ 看羊録 ( 一 ) 148
18 宋学 (-) 宋は、遠い漢以来、儒教をもって国教としている。儒教とは、華 ( 文明 ) であるにはど うすれよ、、ゝ 。しし力という〃宗教〃で、野蛮を悪としてきた。 しかし、現実には文明が野蛮に服従している。この矛盾が、宋学という形而上学を発達 させたといっていし 宋代の形而上的思考を、宋末に出た朱子 ( 一一三〇 ~ 一二〇〇 ) が集大成した。 「道学」 冒頭の時代に日本に入った宋学 ( 朱子学など ) が、イデオロギーの作用をしたことは、 以前、述べたことがある。 くりかえすと、宋学という形而上学を成立させた漢民族王朝の宋 ( 九六〇 ~ 一二七九 ) に は、つねに危機状況があった。 諸種の異民族勢力が、入りこんできたのである。 その末期はことに凄参だった。東北地方に興った女真人が、華北に金という征服王朝を たて、このために宋は南に移り、さらには屈辱的な外交を強いられた。文明 ( 華 ) が、 ″野蛮みに隷属した。 123
姜沆は李氏朝鮮の官僚であり、朱子学者でもあった。 その滞日記録である『看羊録』は、華夷という著者の意識が、地模様のように浮き出て いる。朝詳は文明であり、日本は野蛮ということである。実態がそうだというより、型と してそうなっている。 むろん秀吉が朝鮮に侵寇したから日本は野蛮だということだけではない。そのことを越 しまも韓 え、礼教 ( 儒教 ) の型として、姜沆にとって動かぬものらしい。潜在的には、、 録 羊国・朝鮮の人達はそう思っているのではないか。 儒教は華夷の差に過敏である。つまり文明 ( 華 ) の基本は礼で、野蛮には礼がないとす 看羊録 (ll) 155
くん , ) とよばれた。朱子は、字句の解釈をやかましくいう " 漢唐訓詁学。という現実的な人文 科学的方法よりも、むしろこうあるべきだという観念を先行させた。イデオロギーたるゆ えんである。 朱子学にあっては、歴史についても、史実の探求よりも大義名分という観念の尺度をあ て、正邪を検断した。 ついでながら、江戸時代、幕府は朱子学をもって正学、あるいは官学とした。江戸中期 以後、朱子学に対し、これを " 虚学。あるいは空論とみる学派が出てきたのは、江戸時代 の思想史のかがやきといえるが、ここではふれるゆとりがない。 中国では、 " 野蛮。な元が、 " 文明。の宋を滅ばしながら、文明の学問である朱子学を官 学とし、科挙の試験も朱子学に拠らせた。このことは、二十世紀の清の末期までつづく。 李氏朝鮮も同様で、そのことが、中国や朝鮮の停滞の遠因の一つともなった。 話を冒頭にもどす。 鎌倉末期に、日本にも、ほのかながら宋学がったわりはじめたのである。 そのころ、中国との私貿易によって、書物が輸入されていた。 ひとびとは、寡少な書物をあらそって読み、″正邪〃の明快な宋学の考え方に影響され 124-
113 看羊録 ( ヨ が武帝の治世、逆転した。いわば文明 ( 華 ) が、武においても〃野蛮〃に優越したのであ 蘇武は武帝の使者として、その " 文明〃と〃野蛮〃を往来した。 じつは、ここでは蘇武のことを書くつもりではなく、蘇武から数千年後、豊臣体制下の 日本の伏見に軟禁された李氏朝鮮の知識人姜沆についてのべようとしている。 まず、軌範になった蘇武についてのべる。 蘇武は、武官の家にうまれ、父の功によって中郎将になった。たまたま匈奴の使者で漢 にとどまっていた者を送還する役を武帝に命ぜられ、いわば外交官としてはるかに沙漠を 越え、草原の国に使いした。 この時代、匈奴の王のことを漢では単于とよんでいた。 単于は蘇武を見、その人物を見こみ、この地にとどまるよう強制した。 蘇武はこばみ、ついに穴倉に投ぜられて飲食を断たれた。その間、雪と旃毛を食べて凌 匈奴は蘇武の忍耐力におどろき、かれを北海ーーおそらくバイカル湖ーーのほとりの草 原に追いやり、そこで羊群の世話をさせた。つまり、〃羊ヲ看〃てすごしたのである。 ぜんう カンハン フェルト 149
ほどなく官職をあたえられたものの、やがて故郷に帰り、五十二歳で没した。 私が言いたいのは、その日本滞留記の『看羊録』の題名である。姜沆は、蘇武に自分を なぞらえている。 古来、朝鮮は日本を野蛮とし、みずからを文明とした。それが型だったことが、この書 名でもわかる。
104 鉄 古代、中国の華北平野は大樹海だったらしい 耕地がひろがり、さかんに森が伐られた。決定的にしたのは、殷・周以来の旺盛な青銅 冶金だった。燃料として木が伐られ、あわせて農地の拡大によってひろやかな野になった。 もっとも、土壌が黄土であることが、農業に幸いした。土一粒ごとに内部に保水してい るため、樹林に水の貯えがなくても、作物が育たないということがなかったのである。 この点、似たような経過をへたギリシアは、古代の冶金文化と農地の拡大のために森を うしない、土が乾き、風に土壌が吹きとばされ、骨のような岩肌が露出した。古代ギリシ ア文明は樹木をうしなったために衰亡したともいえる。 8 鉄 (lll)
というと老僧は大笑いし、 外国の好人、未だ辨道を了得せず、未だ文字を知らず。 好人よ、あなたはなにもわかっていない、 と一一 = ロい これが禅なのだといった。 それはともかく、典座が日本僧をつかまえ、蕃国といわず″外国″という非中華的な言 葉をつかっているのが印象的である。 右は十三世紀のことで、李氏朝鮮が儒教を国教にするのは、十四世紀末のことになる。 十六世紀のその朝鮮に李退渓という大儒があらわれ、朝朱子学が確立した。 冒頭の姜沆は、その李退渓の学統を継いでいる。姜沆が、朱子学の教えのとおり外国を 野蛮と見ることが文明意識であったために、措辞の上で日本人を人としてあっかわなかっ たのは、その学問上当然といっていし もっとも、日本もくだって江戸時代、朱子学の影響のために、蕃や蛮を多用した。 江戸末期、渡辺崋山などの蘭学研究のグループが、みずからの結社の名を″蛮学社中 , とよび、一八三九年、幕府によって弾圧された。世に " 蛮社の獄〃といわれた。 160
る。 朝詳儒教ではとくにこの差別がきびしく、たとえば人というのは儒教文明圏に所属する 者を言い、他はそうではなく一種の人間、ときに動物のようでもある。 『看羊録』では、日本人については人とよばず、倭とよぶ。 むろん倭とは日本の古い国名・民族名のことながら、『看羊録』で使われているこの用 語は蕃という語感で、蕃は人に似て人とは言いがたい。 ウェ / ム 従って『看羊録』では、日本人個々については倭とよび、ときに倭奴という。 群がれば群倭、将校は将倭、兵士は倭卒である。 こういう措辞は、のちの平和な十八世紀、徳川吉宗のときに来日した朝鮮通信使の製述 官申維翰の『海游録』でもそうで、日本をそのようにみる型はその後も存在した。 それが儒教とくに朝詳儒教というものだった。 華は高く、夷はひくい。 しゆらい 『周礼』はいわば、礼教の典範である。蕃国について、 これ 「九州之外、之ヲ蕃国ト謂フ」 という。むろん朝鮮はこの九つの州に入っていない。 156
江戸時代は、封建制ながらも、資本主義の前段階ともいうべき商品経済が高度に発達し その活況は、道具類の多様さで察することができる。当時の農書を見ても、農具の種類 が多かった。 ちょうな 大工道具の種類も多かった。平安時代の匠たちは、ノミと手斧を名人芸のように多目的 につかった。はるかにくだって江戸時代ともなると、大工道具は一目的のために一道具が あるといえるほどに種類が多様になった。 かんな たとえば、紙障子の桟を削るためのみの鉋や、障子の敷居のみぞをうがつだけのノミと いったようにである。 鉄が安価になったため、多様な道具が作られるようになったと言える。その道具の多様 さに触発されて、好奇心も誘発されたかと思える。 まさめ 精度の高い道具は、仕上がりの厳密さも可能にした。障子の桟は杉材だが、柾目が通っ ていなければならず、全体としても幾何学的な方正さが要求された。 いわば、実用という域を越えて、無用にちかいばかりの精度が求められた。その精度へ の忠実と厳格さが、十九世紀後半、西欧の機械文明を受けいれる上での受け皿になったか と思える。 さん たくみ 104