とくに、密教が好まれた。 密教とは、自分を宇宙に同化させるという体系で、術をともなう。術とは、たとえば安 ちょうぶく 産の加持とか、敵を調伏するとかいった呪術的な技術のことである。 密教について簡単にふれておく。い うまでもなく、九世紀に空海によって展開された思 想である。ただし天台宗にあっては、円仁によって導入された。 平安朝数百年、密教教学が、日本人の思想や美術に影響したところは、大きかった。た だ時が経つにつれ呪術化され、この道の用語でいえば、左道化した。開祖の空海に責任は はんにや 密教の根本経典は、『理趣経』般若理趣経しである。そのなかに性的な比喩があって、 一い↓っトう・ 空海は誤解を避けるために、先輩の最澄が、解釈の書である『理趣釈』の借用方を求め ても、応じなかった。 空海が見せなかった『理趣釈』は、まことに、きわどい解説書だった。たとえば、この 経典に 「妙適」 ということばがっかわれている。男女の交接の頂点をさすのである。経典では、もしそ 130
いう礼をとった。地理的には蕃であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一 部をなすという考え方だった。 それだけに朝鮮儒教では華夷の差を立てることには過敏だった。当然ながら、この 〃理〃によって日本は蕃国であらねばならない。ただ朝鮮という華に朝貢して来ないのは、 日本がそれだけ無知だったという形式論になる。 以下、蕃もしくは蛮について、むだ話をしたい。 しよくこほんぎ もんむ 奈良朝以前の八世紀初頭、『続印本紀』の文武天皇紀のなかで、新羅の王に対して " 蕃 君〃ということばがっかわれている。漢文の悪しき形式を無神経に踏襲したのだろう。 さらにむだ口をいうと、奈良朝末期の八世紀末に成人した僧空海が、平安朝初期に唐に 留学した。晩年の追憶調の文章に 「遠蕃の地へゆき」 とある。世界帝国ともいうべき唐を遠蕃などというのは、華夷思想からいえばけしから ぬことである。 しかし九世紀に活動する空海の時代には、蕃という言葉は本意がすり減って単に外国と いう意味になってしまっていたのかもしれない。 158
い 0 宋学 C) れが清浄であれば妙適もまた菩薩の位である、という。つまり、人間のありのままの欲望 が、もし昇華されればそのまま菩薩の位だとする。 古代インドには、原始的な生殖崇拝があった。この表現は、その影響をうけたものにち 論旨そのものよりも、表現方法であるにすぎず、大安楽 ( 普遍的で絶対的な境地 ) を説く にあたって、そのような、いわば古代インド風の土俗的類推法をとっただけのことである。 空海は誤解されることをおそれた。もし邪意でもって拡大されれば、密教体系そのもの いぎよう が異形なものになってしまう。 空海がおそれたことが、鎌倉時代に入っておこった。 たちかわ 「立川流」 という、異様な密教だった。 おんみようじ 武蔵国立川に住む陰陽師の某がはじめたことから、この呼称がある。 おんごく 遠国の陰陽師が密教学の深奥を知るはずもないのだが、この人物に、『理趣釈』をこと ごとしく教えた者がいた。仁寛 ( 任寛とも ) という東寺で修学した学僧である。 仁寛は、なにかの罪で伊豆に配流されていたというから、世の正統に対する憎しみがあ ー引
110 宋学 C) 文観の教学では、類推が卑俗としか言いようがない。たとえば、空海以来の重要な法具 として、真鍮製の五鈷というものがある。文観は、五鈷の形態が男女が合したかたちに似 ているとし、人間そのものが法具だとまでいった。教学といえるものではなかった。後醍 醐天皇は、この文観に帰依した。 以上で、鎌倉時代の諸思想を概観した。 これに、宋学が加わる。 さらに、鎌倉末期にいたって、貨幣経済が勃興する。貨幣そのものは思想ではないにせ よ、自給自足経済に貨幣が入ると、どの社会でもその初期には人心が荒れるのである。 のちに来る南北朝の乱は、このような時代相を基盤にしていた。 133
ったのかもしれない。 そイも・つ・ うそぶ いずれにせよ、この種の徒が出て、草莽のなかで異を嘯いたのも 、、かにも鎌倉ふうと もいえる。なにしろ、武家によって、公家の権威が、大すたれにすたれた世なのである。 まいす その鎌倉の世も末になって、文観 ( 一二七八 ~ 一三五七 ) という僧があらわれた。売僧か ともおもえる。 しようみつ よほどの学才があったのか、醍醐の座主や東寺の長者にまで登りつめた。当時の正密 の代表者であり、精神界の最高権威といってし 、い。『太平記』にも、 せきがく 「一山無双ノ碩学ナリ」 とある。 その文観が、右の立川流を東寺という正統のなかに導入したばかりか、体系として大い に整えた。 かれは、前記の男女交接の比喩を論理の中央にすえ、教義として絶対肯定することによ って、あらたな解釈学を確立した。 とぎ 空海以来の密教教学は、ここでいったんは杜切れる。 132
113 看羊録 ( ヨ が武帝の治世、逆転した。いわば文明 ( 華 ) が、武においても〃野蛮〃に優越したのであ 蘇武は武帝の使者として、その " 文明〃と〃野蛮〃を往来した。 じつは、ここでは蘇武のことを書くつもりではなく、蘇武から数千年後、豊臣体制下の 日本の伏見に軟禁された李氏朝鮮の知識人姜沆についてのべようとしている。 まず、軌範になった蘇武についてのべる。 蘇武は、武官の家にうまれ、父の功によって中郎将になった。たまたま匈奴の使者で漢 にとどまっていた者を送還する役を武帝に命ぜられ、いわば外交官としてはるかに沙漠を 越え、草原の国に使いした。 この時代、匈奴の王のことを漢では単于とよんでいた。 単于は蘇武を見、その人物を見こみ、この地にとどまるよう強制した。 蘇武はこばみ、ついに穴倉に投ぜられて飲食を断たれた。その間、雪と旃毛を食べて凌 匈奴は蘇武の忍耐力におどろき、かれを北海ーーおそらくバイカル湖ーーのほとりの草 原に追いやり、そこで羊群の世話をさせた。つまり、〃羊ヲ看〃てすごしたのである。 ぜんう カンハン フェルト 149
この時からの慶喜の政略主題は、後世に " 賊名〃を残さないという一点にしばられるよ うになった。かれの意識の上では組織をすて、個人になっていた。以後、慶喜は、一個人 の政略芸に終始する。 かれは江戸城にもどると恭順を標榜しただけでなく、ついに勝海舟に全権をあたえて江 戸を開城し、みずからは実家の水戸に退隠した。旧幕府組織は、海舟の表現を借りると、 シッケ糸を抜いたように解体された。 いわば慶喜に捨てられた会津藩としては、将軍への忠という正義までが、行き場のない ものとなった。あとは全藩が武士の意地だけで生きざるをえなかったのである。 新政府の側はーーー少なくとも薩摩の指揮者西郷隆盛の意図ではーー慶喜の首を刎ねるこ とによって革命の樹立を世間に周知させるつもりであった。 : 、 カそのことが慶喜によって はず 、 ) ぶし 外されたため、新政府としては、ふりあげた拳のおろしようがなくなった。 かたしろ 結局、会津藩が、慶喜の形代にされた。 ばしん 以後、戊辰戦争のなかで会津藩は鶴ケ城を拠点としてよく戦い、籠城戦のすえ、降伏し しもきた ・一う・ぶ た。そのあと、藩ぐるみ下北半島の荒蕪の地にうっされた。日本史上、これほど大規模な 流刑はなかった。 明冶後も、会津人や会津地方は割りを食うことが多かった。 は
昭和の指導者たちには皆目なかったように思えます。 その日本が昭和という異胎の時代をなぜ迎えねばならなかったか、日本人が何を失って いったのか、については前巻で述べたところですから、ここでは繰り返しません ( 『この国 のかたち四』所収 ) 。 ただ、その中で「武士の時代を矢に譬えれば、名目上は、明治元年で武士の時代は終わ ったけれども、二十世紀初頭まではまだ矢は飛び続けていたように思います。その最後の 段階で日露戦争が起こった。このことが日本にとって幸いでした。 当時は、武士の時代の気分がまだのこっていた。たとえば戦争期間中、旅順が最大の問 題でしたが、最後には、この武士的なリアリズムあるいは職人的な合理主義によって、日 本は危機を打開していったように思います」と述べました。 そこで今回はその幕末維新に話をさかのばらせます。 なにしろ秩序の崩壊期ですから、人々が階級的儀礼を越えて、裸で出て参ります。なに しろ勝海舟が幕臣の身でありながら、神戸に海軍塾をひらいて浪人をあつめているという カような異常な時代でした。その塾頭に、土佐を脱藩した坂本竜馬がいました。やがて竜馬 間が長崎で独立する。亀山社中のちの海援隊という洋式帆船による海運会社をおこします。 人 いわば株主として、薩摩、長州、越前福井の諸藩から資金や資材をあつめ、伊予大洲藩か 181