みちつら そして野津七左衛門はのちの道貫、やはり日露戦争で第四軍の司令官をつとめた人物です。 日露の戦いまでは、こうした人物たちが指導的地位についていました。ちなみにこの同盟 には西郷の弟従道も立ち会っていますが、彼が日清戦争後の日本海軍の充実に力を振るつ た山本権兵衛の最大の後援者であったこともよく知られているところです。日露戦争が、 きよら」 時期的に強弩の末だったことがわかります。 物事を成す魅力ーー竜馬 『竜馬がゆく』を産経新聞に連載したのは昭和三十七年から丸四年間でした。 慶応一一年正月十日、桂小五郎 ( 木戸孝允 ) ら長州藩士一行は京都・相国寺門前の薩摩藩 邸にひそかに入ります。当時、薩摩と長州は薩長同盟のくだりを思いだしてみると、とて はまぐり′一もん もそんな同盟ができあがるような情勢にはありませんでした。その前々年には蛤御門の かんぶ 変で長州軍は薩摩と会津の連合軍に完膚なきまでに破れ、薩摩とは犬猿の仲になりました。 カ長州は″朝敵〃になり、幕長戦争がはじまります。長州は孤立無援で滅亡の寸前でした。 その薩長が第二次長州征伐がやがてはじまるこの年、密かに秘密同盟を結ぶのですが、 桂らからすれば積年の恨みを抱く薩摩とおいそれと同盟をという心理にはありませんでし 183
とになった。 その時期の京は、政略が渦を巻いていた。 なかでも薩摩藩が多数の藩士を京に駐在させ、ひそかに革命化した。 はじめ会津藩は薩摩藩を秩序維持派と見、これに心を許し、たとえば宮廷における長州 系の過激公家をともに一掃したり、長州軍が大挙武装入洛したときも友藩としてこれをふ はまぐりもん せいだりした ( 蛤御門ノ変 ) 。 ところがその翌々年には、薩摩藩は内々で一変した。それまで国もとに閉じこもってい た長州藩とひそかに攻守同盟を結び、二年後の明治維新への基礎をつくるのである。 「薩摩だけはゆるせない」 よしのぶ と、将軍慶喜が、のちのち述懐したのは、このあざやかな革命政略をさしている。 慶喜は慶応三年 ( 一八六七年 ) 、政権を朝廷に返し、京都から大坂こ退、 薩摩藩は京にあって朝廷を擁し、長州軍をその国もとから迎える一方、さらに土佐藩と も同盟の内約を結び、京を拠点とする軍事勢力を急編成した。 慶喜は、大坂城にいる。
ら洋式帆船を借り、のちに土佐藩からの資金も期待して、藩からの出向者としての岩崎弥 太郎を会計掛にする。結果として明治後、ややこしい数式を経て岩崎による三菱会社にな った、といえなくはありません。 そのくせ、浪人結社です。竜馬には、浪人をもって、江戸封建制から脱け出した最初の つう ″通日本人〃と考えるような思想がありました。 『竜馬がゆく』を書き終えてから気づいたことですが、竜馬は江戸封建制のなかにあって、 架空ともいうべき一点ーー・海援隊ーーを長崎でつくり、まだ藩にこだわっている革命家た ちとはちがう星にいるかのようでした。かれは、世界に対して貿易をすることを夢みてい ました。それには日本が統一国家にならないとこまるのです。 おりから京都の情勢がもたついている。慶応二年 ( 一八六六年 ) の薩長秘密同盟へのと りもちも、竜馬のそういう思考の場所から出ていました。 薩長秘密同盟の締結によって幕末の混乱がその終息にむかって躍進したことはたしかで す。 たかよし 場所は、薩摩藩の京都藩邸でした。長州からひそかにやってきたのは、のちの木戸孝允 ですが、薩摩側は西郷のまわりに多少の人数の顔ぶれがならんでいました。大山弥助、野 津七左衛門という名が見えます。大山弥助はのちの巌、日露戦争の満州軍総司令官です。 182
恵まれた育ち方をした人で、藩の重職につく人だったでしよう。松陰が煽動したのではな く、高杉自身が、求めてやってきました。その祖父が「どうか大それたことをしませんよ うに」とねがっていたそうですから、天成、風雲に臨むところが気質としてあったのでし よ , つ。 高杉の存在のゆゅしさは、藩の許可を得て、正規の家中のほかに、非正規軍の奇兵隊と いう市民軍を組織したことです。これだけで、江戸封建は根底からくずれたといえます。 えどう しかものちに藩論が紛糾して、萩の正規武士団と奇兵隊が絵堂という所で決戦して、勝っ のです。市民軍が武士に勝ってしまったというのが、武士の世の終わりを、まず長州が示 したとい , っことになりよしょ , つ。 武士の世の終わりを早くから予言していたのは『峠』という小説で書いた越後長岡藩総 督の河井継之助もそうでした。彼と高杉が異なったのは、高杉は毛利の殿様には死ぬまで 愛情を持ちつづけながら、しかしその反面で長州藩といった藩などもはや用済みに過ぎず、 むしろ長州という藩を滅ばしてでも天下を揺さぶり幕府を倒さねばならぬと考えていたこ カ とです。その点でも彼の時代感覚は図抜けたものでした。 魅 間高杉も松陰よりさらに若い二十七歳と八カ月でこの世を去りますがその若すぎる晩年、 かいびやく 人 自分のこの世での存在を示す肩書として奇兵隊開闢総督という称号というより私称を使 193
としか一一一一口いよ , つが、ない。 教科書風に歴史を復習すると、幕末の京は、一時期、無政府状態におちいった。もしそ ういうことがなければ、会津藩の上にのどかな日々がなおもつづいたにちがいない。 ときに、日本国政府である幕府は、将軍の名においてアメリカなどと和親条約を結んだ。 これに対し、在野世論と長州などの雄藩が鎖国と攘夷を主張し、幕府とはげしく対立し こ 0 いいなおすけ 幕府の大老井伊直弼はこれらの世論に対し、大量処刑で臨んだものの、かれ自身が江戸 城の桜田門外で浪士団に襲われ、殺されることによって、幕威が墜ちた。 反幕の気分は大いにあがった。 攘夷派の志士たちや長州人たちが多く京にあつまり、天誅という名の暗殺を流行させ、 既存の所司代も奉行所も、手の施しようがなかった。 明治維新の六年前の文久二年 ( 一八六二年 ) のことである。 幕府は、非常治安機構ともいうべき京都守護職を置くことにした。
つもりでしたが、やがて西郷は、自分の鑑定ちがいだったことに気づき、長州が出した大 将を黙認します。 木戸が蔵六を最初に見たのは、江戸の小塚原で、蔵六が刑死人の解剖をしていたときだ そうで、その腑分けのたしかさと、慎重さ、しかも動作に確信の裏付けがあって、むろん 多弁ではない人柄に奇妙さを感じたのだそうです。きくと、同じ長州人だという。蔵六の なにかに木戸のかんが働いたのでしよう。 いわみ 蔵六は木戸の推挙で、第二次幕長戦のとき、山陰への部隊をひきい、石見の浜田城をあ つけなくおとしました。実戦の部隊長としての蔵六は、情報をできるだけあつめ、みずか らも木にのばって敵情を見、勝っと思えば兵力を集中して迅速に攻撃するというやり方で した。やがて戊辰戦争、そして上野の彰義隊の乱とことごとく作戦の指揮をとり、一度も 誤りがありませんでした。自身、馬にものれず、むろん撃剣などやったことがありません。 変な人を木戸はよく見つけたものだと思います。 ついでながら木戸の政治家としてのえらさは、政治が軍を統御し、軍を政治化させない 力という堅固なルールを藩内政治の段階でももっていたことでした。彼は奇兵隊の政治団体 の 間化をおそれていましたし、のち明治政府に出てからも、この一点にかわりがありませんで 人 した。明治政府になってから、西郷が軍を代表し、しかも圧倒的な人望があったことに、 こっかつばら 195
112 宋学 ( 四 ) され、かれが擁した北朝が閏とされた。従って南朝が正とされた。理由は、こんにち論ず るにも値いしない。ともかくも南朝方の正成の人気があがった。 幕末、尊王攘夷が叫ばれるころには、正成の人気は沸点に達した。 こんびら 讃岐 ( 香川県 ) の金比羅大権現のそばに住む加島屋長次郎は大きな勢力をもっ博徒であ くさなぎえんせき る反面、日柳燕石という名をもっ漢詩人だった。小男だったらしい 燕石は、諸藩の脱藩の志士をかくまうことで知られた。そのなかに、長州藩を亡命した 高杉晋作もいた。 ついでながら、儒教での理想的人格は、聖人とされる。聖人は、当然ながら、儒教を生 んだ中国においてのみ出る。 江戸時代の儒者の多くは、日本において聖人が出なかったことが、かすかに不満だった らしい 燕石のつぎの詩は、そういう不満をも踏まえている。正成の本質は聖人だというのであ る。 一ぬき 日東有聖人其名日楠公 143
のことを挿入します。二人は師弟ではなく、ただ一度会っただけでした。竜馬が一時期、 高知に帰ったとき、若者たちが詰めかけます。そのはしに、足軽の子だった少年の中江篤 介がいました。竜馬は、手もとにタバコがきれました。そこで竜馬は顔をあげ、やや遠く の篤介少年を見て、 " 中江ノオニイサン、タバコヲ買ウテキテオオセ〃と半敬語でいった ことが、兆民の生涯の思い出になりました。のちの兆民の思想は、竜馬の中のなにかを継 いだものだと私はおもっています。篤介少年にとって竜馬は十余歳のちがいですから、限 度いつばいながら、お兄ちゃんといえるのではないでしようか。 ほめ上手だった大秀才 吉田松陰のことです。 松陰は、魚屋の子にも、萩城下からきている高杉晋作のような歴とした藩士に対しても、 おなじ態度で接しました。たれに対してもおそろしいばかりに優しいのです。松陰自身が、 自分は人を信じすぎるとちょっと自嘲しているくらいでした。 それに、師匠面をしない先生でした。当時の長州では上士の師弟は藩校明倫館に通うの が決まりでしたから、むしろ松下村塾には軽輩の子供や、町人の子供などが集まりました。 190
んでした。褒め上手の松陰ですが、伊藤については熊本の宮部鼎蔵のもとへ彼を遣いにや った折りの手紙でも「才おとり、学おさなきも、周旋の才あり」と妙な推薦をしています。 周旋というのは当時政治という意味でした。これに伊藤は不快だったのでしよう。だから 後年元勲となってのち新渡戸稲造に質問されたときも「自分は松陰の弟子などではない」 と突き放したもの言いをしています。なんだか教育はむずかしいですね。 これと対照的なのが山県です。彼と松下村塾との関係はかぎりなく薄い。しかし長州閥 とは松下村塾党でしたから彼は何とか自分と松陰との縁を強調したかった。揮毫を頼まれ たりすると、山県は松陰の一 = ロ葉を書いて「門弟有朋」と記名したりしました。明治の世を 担った伊藤、山県の二人がこのようであったことは興味深いことです。 結局、松陰のことを最も強く愛した門弟たちはみな明治の世に参画する前に非業にたお れてしまいました。松陰の生涯は竜馬よりみじかくてわずか二十九年でしたが、竜馬同様、 春夏秋冬そのすべてが濃密に凝縮されていました。 風雲に臨む気質ーーー晋作 高杉についてはその天才ぶりが、師の松陰の予測すら超えたものであったでしような。 ていぞう 192
桂は、こだただ仲介人の竜馬の言葉だけを信じて危険きわまりない京の都に入ったので す。会談中、西郷は終始自分の意見をいわず、いわば無言でした。桂は失望し、屈辱も覚 え、これ以上ここにいることは同藩の者たちへの裏切りになると思い、辞しました。 竜馬がこの同盟について西郷に言ったことは、ただひとことでした。 「長州が可哀そうではないか」 西郷ははげしく動かされ、桂をよびにやって、一挙に同盟についての会談に入りました。 むろん薩長連合論というのは竜馬の独創ではありません。当時にあって倒幕をなすには それしか手がないとはすでに天下周知の論でした。ただし机上の空論でした。物事が成る というのは、それを提示した者の魅力ということが大きいと思います。竜馬における魅力 とはなにかということを考えるのが、この作品の主題でした。 魅力のなかに、提示者の重みということもあります。当時、浪人などは、木の端のよう 。し力にも秩序の崩壊期らしく、自分で にあっかわれる存在でした。竜馬のおかしみよ、、ゝ が会社〃をつくり、それがいざという場合には私設海軍にもなったことでした。いわば私 設の藩のようなものの代表であるということが、彼の発一一一一口を重くしていました。 くりかえし言ってきたことですが、『竜馬がゆく』を書きおわって、私が鮮やかなもう 184