「対馬の島主は、わが国の藩臣 ( 辺境の臣 ) である」 さらに、〃朝鮮国王の直臣である自分が、一地方官になぜこちらから出むいてあいさっ の礼をとらねばならないか〃という意味のことを言ったのである。 それらはどうでもよいにせよ、小中華という架空の真実のなかで生きる儒教の徒の申維 翰は、日本人に対し、〃人〃という文字をつかわないのである。人とは文明人のことで、 申維翰的定義では、中華と小中華の場合にのみつかわれるのに相違ない。 申維翰の文中では、不特定の人々をさすとき、群衆といわず、群倭という。対馬藩の警 備人のことを禁徒倭という。さまざまな人々という場合、諸倭という。くどいほどに差を 明らかにしている。 この場合の倭は、上代、日本の自称・他称が倭であったらしいこととは、用法がちがう。 申維翰の用法は、倭とは人間の形をとっているものの内容は野蛮人であるという意であ 新 ぐんてき 治る。もし申維翰が、中国の北方の蒙古に使いしたとすれば、群狄、禁徒狄、諸狄と書くは 明 ずで、要するに人ではない。 朝 李 また、朝鮮が小中華であると空想した以上、それに伴う辺境の蕃国が存在せねばならな ばんこく 139
88 近代以前の自伝 やまがそこう 江戸時代の自伝として、白石に先行して山鹿素行 ( 一六一三 ~ 八五 ) の『配所残筆』があ る。両人とも浪人の子で、依るべきものは自己のみという境涯であったことは、人はなぜ 自伝を書くかという課題の一参考になる。 うげひと - 一と 江戸時代には、大名の自伝まである。松平定信 ( 一七五八 ~ 一八二九 ) の『宇下人言』で ある。定信は徳川三卿の家にうまれたが、妾腹であった。 この条件は、のんきな嫡出子よりも自分をみつめるという点でめぐまれていたと考えて . し - し かれの自伝は、母親の胎内にやどったときから書きおこされる。 年少にして奥州白河藩松平家の養子になる。ついには老中として幕政を担当し、その職 をやめるまで、公私とも巨細となく書かれている。大名ながらも、自分の人生を自分で創 造したという自負がうかがえる。 自己そのものを商品に仕立てあげるについては、俳優にまさる存在はない。俳優の自伝 なかむらなかぞう げつせつかねものがたり としては初代中村仲蔵 ( 一七三六 ~ 九〇 ) に『月雪花寝物語』があり、また晩年が明治に てまえみそ 入るが、三世中村仲蔵 ( 一八〇九 ~ 八六 ) にも『手前味噌』がある。 ′一けにんかっこきち 市井の無頼の徒にも、自伝がある。勝海舟の父の下級御家人勝小吉は、一八四三年、四 133
さらにデーヴィスは、対日遠征計画もたてていて、日本への接触 ( 攻撃開始といってい い ) は、一八四八年 ( 弘化五年 ) 以後という予定だった。 が、実現されなかった。理由は英国東洋艦隊が清国一つに忙殺されていたのと、日本と いう貧寒たる市場に魅力を感じなかったことなどによる。 アヘン戦争という衝撃波が日本社会にもたらした産物は、在野評論を成立させたことで ある。世論は、圧倒的な力をもって沸きあがった。 - 一れよ それまでの幕藩体制は、『論語』の「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」 を都合よく解釈して、為政者絶対主義というべきものだった。ときに在野評論が存在して も、幕府はしばしば〃妖言ヲナスなどといって弾圧してきた。 うんじよう が、外患は、幕藩体制の次元を超えた日本国意識をひとびとのあいだに酬醸させた。 それらのなかで印象的だったのは、〃東洋道徳・西洋芸術〃をとなえて西洋の科学技術 を導入すべきだとした信州出身の人佐久間象山や、知識人こそ日本国の危難のために殉ず べきだという軌範を示した長州出身の吉田松陰、また民間にあってもっとも早い時期にロ シアおよび列強のアジアへの勢力伸張と海防と経済の充実を説き、江戸日本橋の下を流れ ている水はロンドンのテムズ川に通じている、という意味の文章をもって暗に鎖国の愚を
設けるについては、木戸と相談し、場所を九段坂上にきめた。旗本屋敷数軒を毀ったり 勧進相撲や花火大会を催したりした。死者たち して三万五千坪を得、まず仮殿をつくり、 をよろこばせるつもりだった。大村も木戸も、人ごみのなかにまじって見物した。 右の創設は、明治二年六月のことである ( 三カ月後に、大村は遭難する ) 。 死者を慰めるのに、神仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったのは、前代未聞と いっていい。大村は公の祭祀はそうあるべきだとおもっていたにちがいない ( この招魂社 が、十年後の明治十二年別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀されることになる ) 。 あき 余談ながら、長州の農村は宗教色のつよい風土で、隣りの安芸 ( 広島県 ) とならび、 " 長 州門徒。などといわれて浄土真宗の信仰がつよかった。だから大村には宗教への理解は十 分にあった。であればこそ超宗教の性格をもたせたのに相違ない。 もう一つ大切なことは、招魂社を諸藩から超越させたことである。当時、まだ二百数十 魂藩が厳然と存在したこの時代に、諸藩の死者を一祠堂にあつめ、国家が祈念する形をとっ たのは、前例がない。大村にすれば、統一国家はここからはじまるということを、暗喩さ 招 せたつもりだったのにちがいない。 8 かんじん
いたはずです。 しかし左翼は、東京の都市労働者も、イギリスの産業革命以後のプロレタリアートとし て見る。こうしたフィルターでしか日本史を見ないがために、ありのままの日本史は存在 し得なかったのです。そうした歴史観に、右翼は、やはり朱子学的基盤の上に立って強烈 に反発する。昭和はこの双方幻覚のような二つのイデオロギー抗争で開幕しました。 二十世紀が開幕したときに、日本は現実感覚に富んだやり方でもって日露戦争に勝った。 結果としてロシアはソ連になり、イデオロギーの国になった。そのイデオロギーがこんど は日本に影響して左翼を生み、その左翼の反作用として右翼を生み、いよいよ現実感覚を 失わせたということが一言えるでしよう。 日露戦争が終わったあと、明治四十一年に、夏目漱石が『三四郎』を書きます。ご承知 のように、この小説は、三四郎が大学生になるために熊本から東京へ出て行く姿を描いて いる。晴れて上京し、明治国家建設の中核的な機関だった東京帝国大学に入学し、そこで 世広田先生に出会う。 十 厂車中、この神主のような広田先生に出会う。三四郎がなにげなく「日本はどうなるんで 本しようか」と訊くと、先生は「亡びるね」と答える。この台詞が日露戦争のあとの明治四 十年の日本像をよく言いあらわしています。 193
くちばし 帥機能を、おなじ猛獣の軍人が掌握した。しかも神聖権として、他から喙がはいれば、 かんばん 「統帥干犯」として恫喝した。猛獣という比喩について注釈する。日本陸軍の軍人はみず ひきゅう からしばしば貔貅 ( 豼貅 ) と美称した。貔貅とは中国の伝説 ( 『史記』五帝紀 ) にある想像 上の猛獣である。形は虎あるいは熊に似、これを伝説時代の炎帝が戦いに用いたという。 明治維新早々、政府直轄軍が存在しなかったということはすでにふれた。 維新四年後、廃藩置県によって大名や武士の世がおわることになった。 この断行に際し、政府は反乱にそなえ、薩長土三藩に一万の兵を〃献兵〃させてはじめ て直属軍を持った。 ただし、この軍はすぐくずれた。そのうちの薩摩系の軍人が、同藩の陸軍大将西郷隆盛 げや の下野とともに軍帽を営庭の池になげこんで大挙鹿児島に帰ってしまったからである。明 治十年、かれらが反乱 ( 西南戦争 ) をおこす。 その乱がおさまると、皇居に近い竹橋に駐営していた近衛砲兵第一大隊の兵二百六十余 人が、論功行賞の不平から反乱をおこした。大隊長などを殺し、砲を曳いて大蔵卿大隈重 信邸などを襲撃した。 要するに、統帥の思想さえない猛獣たちだった。 106
ちょう 良い人間は兵にならない」というのがあるように、あぶれ者ややくざ者が王朝の徴に応じ て兵になる。 もっとも、申維翰が見誤ったのも、むりはない。 徳川の幕藩体制は、関ヶ原の勝利 ( 一六〇〇年 ) からはじまった。 戦後、その戦時体制が、そのまま統治組織になった。幕府直轄軍と三百ちかい諸侯の軍 兵が、行政職その他平時の職についたのである。官吏・公吏の人数がこれほど過剰な社会 は世界史になかった。 はるかな後年、明治維新 ( 一八六八年 ) で幕藩体制がおわって四民平等になり、士の階 級は特権をうしない、ただ士族という呼称をもらった。明治六年 ( 一八七三年 ) 現在の士 族の数は、戸数にして四十万八千余戸、人数にして百八十九万二千余人である。この人数 を、江戸時代に遡及させていし 江戸体制はいうまでもなく身分は世襲制だった。 また中国や朝鮮のように科挙の制がなかった。なかったからこそ幸いだったといってよ く、もし漢文の古典を朱子学の法則どおりに丸暗記して身分上昇せねばならないような体
まず儒官であった。 だいがくのかみ どうしゅん 幕府の大学頭を世襲していた林家は、初代羅山 ( 道春 ) 以来、頭を剃っていた。将軍 と対座して学問を講ずるということで、方外である形が必要とされたのである。 五代将軍綱吉のとき、林家はすでに三代目の春常だった。綱吉はかれに蓄髪を命じた。 たくわ 以後、幕府の儒者も藩の儒者も、髪を蓄えるようになった。つまりは、儒官は顕在するよ , つになった。 医官も、頭が丸かった。奥御医師 ( 通称御典医 ) たちは、たとえ蘭方を学んでいても、 僧形だったのである。 御医師の官位はふつうの幕臣よりずっと高く、小さな大名なみのものだった。明治後も、 しもじーも 大学・病院の勤務医に御典医の気分が伝承され、患者を下々とみなす風が残った、と説明 する医者もいる。 以下の話は、時代がまちまちである。 豊臣秀吉の生母は、秀吉が幼いころ前夫に先立たれ、尾張の織田信秀 ( 信長の父 ) の茶 どうばうちくあみ 同朋筑阿弥という者に嫁した。 おくおい し ちゃ 162
82 統帥権曰 あんばこ そのことで、暗箱にあけた針の穴ほどながら外光を入れていた。 幕府は、長崎奉行に命じ、アヘン戦争が終了した翌年 ( 一八四三年・天保十四年 ) 、情報 の収集に乗りだした。 長崎在留のオランダ人には英軍についての情報を、また清国人に対しては、清国の応戦 の実態について問うた。調査は、質問書を発し、回答をもとめる形式でおこなった。 幕府は、英国のことなど、ほとんど予備知識がなかったが、西洋学として蘭学が学ばれ てきたために、未知の英国を十分想像することができた。 それにしても幕府の驚きは大きかった。そのことは、十数年来、沿岸の諸藩に対して出 、っち・はら - い しつづけていた「異国船打払令」という乱暴な法令をひっこめたことでもわかる ( 異国船 打払令は、文政八年〈一八二五年〉に出された。〃有無に及ばず打払え〃という容赦のないものだっ た。幕府にすれば、もしこの令が諸藩によって本気で実行されればアヘン戦争の二の舞になることを おそれたのである ) 。 石井孝氏の「日本開国史』 ( 吉川弘文館 ) には、当時清国に駐在していたデーヴィスとい う貿易監督官が本国の外相アバディーンに送った秘密書簡がかかげられている。その秘密 書簡では″つぎは日本だ〃とある。
余年経ったばかりなのです。 新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の 状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしよう。 ーフェク 欧露から回航されてくるロシア艦隊を、伊藤正徳さんの表現を借りると、 ト・ゲームでもって残らず沈めねば日本は戦争そのものを失うのです。数艦でも生き残る と、当時ロシアの租借地だった旅順やウラジオストックに逃げ込まれ、日本海を走りまわ って通商破壊に出てこられる。となると、大陸に派遣している陸軍が干し上げられてしま しいましたが、 さきに世界史的に、海軍に戦術なし、と、 アメリカのニューポートの海軍 大学校で海軍戦史を講義していたアルフレッド・・マハンという退役大佐が、海軍戦 略・戦術を考えていたことは、よく知られていました。眞之が大尉時代にワシントン公使 館に駐在したとき、マハンを二度たずねています。眞之が望んでいたものが得られたとは 世思えません。 十 一一右は十九世紀末で、二十世紀になってから眞之は瀬戸内海の能島水軍の古い兵術書を読 本みます。小笠原という旧大名の蔵にあった古書だといいます 「ずいぶん古い本を読んでいるな」 173