疲れることですが、もう歴史がそのように選択してしまったんです。 日本が国家目標を失った時、どうしたわけか、いつも江戸回帰という現象が起こってき ます。たとえば敗戦の時に、徳川夢声は、「もう日本はたいそうなことは考えずに、極東 の小さな島国としてひっそり生きていこう」という趣旨のことを言っていますが、彼のよ うな賢者でも、江戸時代回帰を考える。いまの日本にもそうした主張が出てきています。 しかし我々はもはや江戸時代のお百姓さんには戻れない。徳川夢声に象徴されるような 江戸時代回帰にはもう逃げ込めない。いったん明治元年に国家として出航してしまった以 上、我々は常に次なる目標を考えなけれま、ナよ、。、 ししレオししま我々の足元を見ると、結局、物 をつくって売って国を航海させているわけですから、やはりお得意さん大事という精神、 このリアリズムだけが、 日本を世界に繋ぎとめる唯一の精神だと思えてなりません。 アフリカの僻地の人々までがお得意さんです。その代表的な存在がアメリカや QO とす れば、彼らの立場も要求もかなり分かってくるのではないでしようか。ところが日本の対 応の仕方は、そうした良き商人の伝統に反するような非常にまずい対応でしかない。もっ とお得意さん大事という精神を呼び覚ますべきでしよう。 日本は商人国家などと、わりあい自虐的に語られますが、歴史的に日本の商人は十分に 魂の入った存在でした。 202
ンジされたピューリタニズムとを併せ持っていました。 また、外交面でも同じことがいえます。 二十世紀初期の日本の責任者たちは、自虐的なほど自己の弱さについては、計量しぬい ています。 弱さについての認識と計量が、よきーー、すくなくとも懸命なー・・ー外交を生むのかもしれ ません。 金子堅太郎という、明治維新を十五歳で、福岡城下でむかえた人がいます。同藩出身の 司法省役人を頼って書生として住みこんだ人です。明治初年の役人には旧幕の旗本の風が はさみば一 のこっていて、金子は旦那の登庁のときは、若党のように挟箱をかついでお供をしたと しいます。 ド大学に学びました。たまたま日露戦争時代のアメリカ大統領になる 留学してハー セオドア・ルーズヴェルトと同学でした。たったそれだけの縁で、金子が政府に命ぜられ て対米エ作をするのです。 一一戦争の継続中、ここぞというところで、アメリカが割って入る。日本にとって虫のいい 本話ですが、列強にとっても、日本が自滅するより無限のロシアの南下をふせいだほうがい〃 ロシアがすでに旅順・大連を租借して黄海を制しているばかりか、 " 満洲〃に軍隊と
て過去においてどの国ももったことがありません。かといって、当時の人達は、日本は帝 国主義とは思っていなかったのです。このあたり、じつにあいまいに考えていました。考 えを深めようにも、事態が事態を生んで、そのころはたれもが多忙でした。いまからみれ ば滑稽だし、自他の死者たちのことを思うと、心がいたみます。 その積木が、「ハル・ノート」によって、自壊か、積木の継続かをせまられたのです。 それは太平洋戦争開戦 ( 一九四一年十二月八日 ) の前の月の二十六日に提示されました。 アメリカは、一九三一年以降十年間の日本の中国大陸 ( 当然ながら″満洲 , をふくむ ) で のいっさいの行動を否定し、擁立した政権はこれを認めず、大陸から兵をひけ、という。 「じゃ、挈」 , っしょ , つ」 といえば、日本という国家はつぶれたでしよう。昭和初年以来、異常な膨脹についての 政府説明を信じてきた国民は、国家そのものを信じなくなります。軍は反乱をおこして、 政府要人を殺すでしよう。だけでなく、より異常な極右政権をつくり、対米戦をやるでし よ , っ 「ハル・ノート」は、対日最後通牒とみてよく、事実上の果し状でした。当時の国家間の ことは、戦後のやくざ映画に似ていますな。 そのころのアメリカの新聞読者からみれば、日本は中国をいじめるとほうもない悪者で 2
鎖国攘夷派は、幕末の初期でこそ純粋だったが、やがて反幕の政略として鎖国攘夷論を つかいはじめる。 ついでながらこの種の在野言論の政治的詐術はその後風土化し、太平洋戦争のあとの反 政府運動にも頻用された。 一例をあげると、昭和二十六年 ( 一九五一年 ) を頂点に一一 = 口論界や野党のあいだで轟々と となえられた〃全面講和〃騒ぎがある。時の吉田内閣が、アメリカを中心とした旧連合国 四十八カ国と単独講和を結ばうとしている現実路線に対し、ソ連など社会主義国を加えて 〃全面とせよ〃という非現実路線を高唱するものであった。吉田茂首相は、たまたま、″全 面〃に雷同した時の東大総長に対し、議会で、 「曲学阿世の徒」 ふう と、古風かっ痛烈すぎる表現で諷した。おそらく幕末以来、風土化した在野世論の型に おもね 入ることによって世に阿っている、ということであったろう。 いいなおすけ ときに、幕閣の責任者は、大老井伊直弼であった。 ′ ) うふく 剛愎な人物で、アメリカをふくむ五カ国修好通商条約を結ぶことで開国を断行した。 あわせて幕府の威権を回復するため、尊攘派を大弾圧した。 9
るいわば数学のおたくのような少年が、仮の一点を設けて、ここで一つ数式をつくってい けば全部解答ができるというような感覚で、産油国にコンバスの心を置いて円を描いたと いうことではないでしようか。こんな国家行動は、世界史にあったでしようか。 そのために陸軍の兵力は分散され、海軍にいたっては、艦隊決戦思想から、輸送護衛の 兵力というぐあいに役害がかわりました。結果として、諸々の戦闘に伴う海戦はありまし 、連合艦隊の本質は輸送艦隊に過ぎませんでした。 二十世紀は仮想敵国をつくって自分の軍備を整える時代でしたから、日本陸軍はソ連、 海軍はアメリカを仮想敵国としていました。日本海軍の図上演習ではアメリカ連合艦隊は フィリピン沖からやってくることになっており、日本の連合艦隊は対馬沖で待ち伏せるこ とになっています。 まったく日本海海戦時のときにバルチック艦隊がやってきたコースと同じでした。勝者 というものは、自分がかって勝った経験しか思考の基礎にしない、だから間違うという教 世訓がここにもありました。結局、海軍大学校では、日本海海戦という型だけを一生懸命研 究していて、しかしながら肝心の戦争が蓋を開けたら、石油が出るポルネオ、スマトラに の 本心を置いてのとりとめもなくひろい戦場ができ上がっている。要は、数学の答案としては 立派でも、軍事的リアリズムは全くなかったのです。 7
統帥権がかっての日本をほろばしたことについて書いている。 国語解釈からのべる。この漢字表現は、厳つい すひき 統帥とは、要するにさきにのべたように、「軍隊を統べ率いること」である。英語では コマンド 統帥とは指揮というにすぎず、統帥権も、最高の指揮権 (sup 「 eme command) というだけ のことである。 四 英国やアメリカでも当然ながら統帥権は国家元首に属してきた。むろん統帥権は文民で 帥統御される。 軍は強力な殺傷力を保持しているという意味で、猛獣にたとえてもいい。戦前、その統 5 統帥権 ( 四 ) いか 105
長崎 かれら一行はサンフランシスコに上陸すると、土地のひとたちに歓待された。たとえば 各種の工場を見学させられた。 工場の関係者にすれば、チョンマゲ頭の日本人が機械文明に無知だと思ったのもむりは なかった。アメリカ人たちは、稼働する機械を見せ、その原理を説明した。 日本人一行にとって、これほど退屈なことはなかったというのである。 当方は、そういうことは先刻知っていた。 ; 、『畠翁自伝』で語っている。 という旨のことを、一行のなかにいた福沢諭吉カネ / 原理については「こっちは日本にいるうちに数年の間そんな事ばかり穿鑿していたので ある : ・・ : 」と福沢はいう。 江戸時代二百数十年の長崎の効用が、万延元年のサンフランシスコでたしかめられたよ うなものであった。 せんさく 9
82 統帥権 ( 一 ) ふう 諷した林子平などがいた。 ひ′ ) う どの国でもそうだが、歴史がかわる胎動期にはまず思想家があらわれ、その多くは非業 に死ぬ。 右の三人のうち林子平は幕府から言論弾圧をうけただけで命まではとられなかったが、 象山は国粋派のテロによって京の路上で殺され、松陰は幕府の刑場で殺された。 英国の貿易監督官デーヴィスの対日遠征計画はみのらなかったものの、その代役である かのようにして、嘉永六年 ( 一八五三年 ) アメリカのペリーが艦隊をひきいて江戸湾に入 りこんできて開国をせまった。以後 " 幕末。とよばれる国内の争乱期に入る。
それまでの日本の船舶についてふれておく。 許された大船といえば、沿岸航海をするいわゆる千石船しかなかった。 帆は一枚、従って帆柱は一本しかなかった。むろん禁制があったからである。 一枚帆だから、満帆に風をうけると、反比例して船尾の梶 ( 舵 ) につよい波の抵抗がか かる。 和船は基本的な弱点として梶がこわれやすく、梶がこわれれば、船はときにカムチャッ カ半島にまで流されてしまうのである。 また、甲板がないために、お椀にご飯を盛りあげるようにして積荷が積みあげられ、高 浪が、その上にふりそそがれた。 さらには櫓を備えないため、港の出入りには、曳船に曳かれざるをえなかった。 ところが江戸湾頭に出現したアメリカの蒸気船は、曳船を用いず、自走して入ってきた 力のである。 像 想 しかも、黒船には城郭のように攻撃力と防御力があり、さらには樽のように甲板が張ら しの れていて、水密性が高く、万里の波濤を凌ぐことができた。 沿岸から、これらが黒船を望見していて、あの船を造ろうと思いたった人物が三人い かじ 巧 3
ィリピンにはアメリカの要塞があるから、産油地を守るためにそこを攻撃する。むろん、 英国の軍港のシンガポールも。またその周辺にあるニューギニアやジャワもおさえねばな らず、サイバンにも兵隊を送る。 それを総称して、大東亜共栄圏ととなえました。日本史上、ただ一度だけ打ち上げた世 リアリズムが稀薄なだけにーー華麗でもあり、 界構想でした。多分に幻想であるだけに 人を酔わせるものがありました。 石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別なことばにつつまれて窺うこと ができません。この構造を裏づけるに十分な経済力も戦力も日本にないということまで、 さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせたのです。敗戦 の日に、佐々木邦というューモア作家が「雲の峰日本の夢は崩れたり」という俳句をつく りましたが、この間の消息が想像できます。 なにしろ、いまでもこの幻想を持続している人がいます。この幻想のもとにそこに参加 世して生死した数百万の人々の青春も死霊も、浮かばれない、という気持があるからでしょ てお 十 う。しかし、自己を正確に認識するというリアリズムは、ほとんどの場合、自分が手負い の たましず 人 になるのです。大変な勇気が要ります。この勇気こそ死者たちへの魂鎮めへの道だと思う 本 しかありません。 185