大村は、さきにふれたように、生者の世にも諸藩を超越する国民軍をつくろうとしてい た。ただ世論への刺激をおそれ、木戸たち以外には秘していた。 かれが公然と、国民軍の創設について意見をのべたのは、『大久保利通日記』によると、 明治二年六月二十一日から五日間を費やした廟議においてであった。 新政府は、この時期、一兵も直轄兵をもっていなかった。世界史上、軍隊のない革命政 権は、この時期の明治政府だけしかない。 薩の大久保利通でさえ、大村の意見に反対した。 「必要なときは、薩長土三藩から御親兵をさし出せばよい」 と大久保は主張してゆずらず、ついに大村の説は通らなかった。 " 国民 , の概念は、招 魂社だけに閉じこめられたことになる。 この間、薩の海江田信義は大久保のもとを訪ね、右の会議の模様を逐一知った。 「洋癖あり」 しそう と、大村が守旧派の激徒から罵られるようになるのは、おそらく海江田の使嗾によるも のかと思われる。 守旧派にすれば、もし今後大村の説が通るようなことになれば、世襲士族は国家によっ
かいじん 想像だが、紀元前の大むかし、日本の海人の世界はひろかったのではないか。 かれらは、ひろく漂海した。中国の南部の沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島 海の島々、済州島、日本の北九州、瀬戸内海の島々といった沿岸がその世界だった。舟を 家としてときに遠く海をゆき、陸の権力から拘束されることがすくなかった。 もしかれらを倭とすれば、中国世界から早く知られていた。むろん三世紀の『魏志倭人 み伝』よりはるかにふるい せんがいきよう っ 「山海経』に、倭という文字が出てくる。 わ この古代地理書は、司馬遷 ( 前一四五頃 ~ 同八六頃 ) も知っていたから秦代にはすでに存 在していたはずである。ただし、当時の倭が国家をなしていたとは考えにくい。 〃わだつみ
ク騎兵を防ぐという課題をあたえられ、結局は機関銃を導入することによってーー騎兵の 古典的美学からいえば邪道だったでしようし、好古自身、好んでそれをやったわけではな いのですがーーー解決します。 三人とも戊辰戦争のときの〃賊軍〃とされた伊予松山藩の出身でした。松山城下が〃官 軍〃の土佐藩兵に進駐されていたときが、人生の最初の環境でした。 江戸時代の日本人は、蒸気船ももたず、騎兵ももちませんでした。明治維新は幕末の夜 郎自大的な〃尊皇攘夷〃の終焉でありました。同時に開国という、ときに卑屈なほどのリ アリズムの開幕でもありました。そういう現実の中にあって、十九世紀後半の明治人は、 どの時代の日本人よりも現実的でした。たとえば、海軍には世界史的に戦術はなく、軍艦 と軍艦の叩きあいだとされてきたのを、眞之は右の至上課題を果たすためにこれに戦術を 加えるというュニークなことをせざるをえませんでしたし、好古は勝ちがたい敵に対して 火力で戦うというあたらしい現実を持ちこまざるをえませんでした。 為政者は手の内を明かさない 後でまた言いますが、この戦争を境にして、日本人は十九世紀後半に自家製で身につけ 炻 8
78 庭 「庭園、これはたしかに ( 日本は ) 世界一ですな」 湯川秀樹博士が、生前、つぶやかれたことがある。 もっとも、世界一といっても、この世には庭園を必要としない文化もある。 たとえば遊牧者であるモンゴル人も、氷原の狩猟者であるイヌイット ( エスキモー ) も、 生産と生活の場が大自然であり、そこに手を加えない。 また、空間についての好みも、文化によってまちまちである。ヨーロッパ人は、日本人 のように屋敷の内部を塀でさえぎって " 私的な自然。 ( 庭園 ) を楽しむより、都市構造そ だいかん のものを美的な造形と考えていたし、イギリス人は第館のまわりを起伏のある芝生だけに しておくという広闊さのほうを愛してきたようである。 7 庭
余年経ったばかりなのです。 新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の 状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしよう。 ーフェク 欧露から回航されてくるロシア艦隊を、伊藤正徳さんの表現を借りると、 ト・ゲームでもって残らず沈めねば日本は戦争そのものを失うのです。数艦でも生き残る と、当時ロシアの租借地だった旅順やウラジオストックに逃げ込まれ、日本海を走りまわ って通商破壊に出てこられる。となると、大陸に派遣している陸軍が干し上げられてしま しいましたが、 さきに世界史的に、海軍に戦術なし、と、 アメリカのニューポートの海軍 大学校で海軍戦史を講義していたアルフレッド・・マハンという退役大佐が、海軍戦 略・戦術を考えていたことは、よく知られていました。眞之が大尉時代にワシントン公使 館に駐在したとき、マハンを二度たずねています。眞之が望んでいたものが得られたとは 世思えません。 十 一一右は十九世紀末で、二十世紀になってから眞之は瀬戸内海の能島水軍の古い兵術書を読 本みます。小笠原という旧大名の蔵にあった古書だといいます 「ずいぶん古い本を読んでいるな」 173
ちょう 良い人間は兵にならない」というのがあるように、あぶれ者ややくざ者が王朝の徴に応じ て兵になる。 もっとも、申維翰が見誤ったのも、むりはない。 徳川の幕藩体制は、関ヶ原の勝利 ( 一六〇〇年 ) からはじまった。 戦後、その戦時体制が、そのまま統治組織になった。幕府直轄軍と三百ちかい諸侯の軍 兵が、行政職その他平時の職についたのである。官吏・公吏の人数がこれほど過剰な社会 は世界史になかった。 はるかな後年、明治維新 ( 一八六八年 ) で幕藩体制がおわって四民平等になり、士の階 級は特権をうしない、ただ士族という呼称をもらった。明治六年 ( 一八七三年 ) 現在の士 族の数は、戸数にして四十万八千余戸、人数にして百八十九万二千余人である。この人数 を、江戸時代に遡及させていし 江戸体制はいうまでもなく身分は世襲制だった。 また中国や朝鮮のように科挙の制がなかった。なかったからこそ幸いだったといってよ く、もし漢文の古典を朱子学の法則どおりに丸暗記して身分上昇せねばならないような体
るいわば数学のおたくのような少年が、仮の一点を設けて、ここで一つ数式をつくってい けば全部解答ができるというような感覚で、産油国にコンバスの心を置いて円を描いたと いうことではないでしようか。こんな国家行動は、世界史にあったでしようか。 そのために陸軍の兵力は分散され、海軍にいたっては、艦隊決戦思想から、輸送護衛の 兵力というぐあいに役害がかわりました。結果として、諸々の戦闘に伴う海戦はありまし 、連合艦隊の本質は輸送艦隊に過ぎませんでした。 二十世紀は仮想敵国をつくって自分の軍備を整える時代でしたから、日本陸軍はソ連、 海軍はアメリカを仮想敵国としていました。日本海軍の図上演習ではアメリカ連合艦隊は フィリピン沖からやってくることになっており、日本の連合艦隊は対馬沖で待ち伏せるこ とになっています。 まったく日本海海戦時のときにバルチック艦隊がやってきたコースと同じでした。勝者 というものは、自分がかって勝った経験しか思考の基礎にしない、だから間違うという教 世訓がここにもありました。結局、海軍大学校では、日本海海戦という型だけを一生懸命研 究していて、しかしながら肝心の戦争が蓋を開けたら、石油が出るポルネオ、スマトラに の 本心を置いてのとりとめもなくひろい戦場ができ上がっている。要は、数学の答案としては 立派でも、軍事的リアリズムは全くなかったのです。 7
二十世紀の開幕早々、日本はロシアの南下を防ぐという戦争 ( 日露戦争 ) を経験しまし た。そのことを『坂の上の雲』という小説に書いたことがあります。地球の中の一角にあ る島国に起こった、不思議な心の物語として書きました。 主人公の一人は、病人でした。俳句・短歌に " 写生。という多分に体験的、やや写真的 なリアリズムを導入して革新した正岡子規です。子規と中学以来の同窓で、文学青年仲間 さねゆき 世だった秋山眞之がもう一人の主人公です。眞之は海軍に入り、東進してくるロシア艦隊を 一一一艦残らず日本海で沈めるという、不可能にちかい課題を命ぜられる役割を果たさねばな 本らないことになります。 よしふる もう一人の主人公は、眞之の兄の好古でした。かれは陸戦において、世界最強のコサッ 167
おそれた。そのことに、臆病なほどだった。 長州人たちは、右の京都乱入で市街戦でやぶれた。蛤御門ノ変である。 ときに長州藩は、攘夷書生団に主導されていた。 もうりたかちか ついでながら長州藩毛利敬親はその藩の伝統どおり「君臨スレドモ統治セズ」の方針を とり、藩政にロ出しせす、藩の内閣がどう変ろうとも、その上申に対しては、必ず「そう せい」といった。このため〃そうせい公みなどと蔭でささやかれた。 幕府は、長州が京都を犯したというロ実のもとに、長州征伐を下命した。幕府という猫 が、本来のトラになった。 げんなえんぶ なにしろ、幕府は、一六一五年の豊臣家滅亡 ( 元和偃武 ) 以来、島原ノ乱のような一揆 は別として、正規に兵をうごかし、正規の大名を伐っという軍事行動をやったことがなか った。長州征伐によって世界史にないといわれる二世紀半以上の江戸時代的平和がやぶれ たのである。 むろん、日本国の統帥権は将軍にあった。国語解釈ふうにいえば、統帥とは軍隊を統べ ひきいることである。また統帥権とは、全軍の最高指揮権をさす。 将軍は最高指揮権をもちながらみずから総大将になろうとはしなかった。 代理主義をとった。総大将には、御三家の一つの尾張徳川家の当主を任命し、諸大名の はまぐり′ ) もん
88 近代以前の自伝 は十、十一世紀という古い時代、東アジアにおいてひとり " 閑文字〃の諸作品をのこすこ とになった。 十世紀のひと紀貫之は、宮廷人である上に、漢文による詔勅の起草の職や宮廷の漢籍を 保管する職についたりした。やがて地方長官になって土佐に赴任した。 ふなたび 任期未了のまま京へ帰るとき、虚実をとりまぜた船旅の紀行文 (r 土佐日記しを和文で 書いた。書くについて、女に仮託した。冒頭に、 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて」 と、ことわって、閑文字を書く自由をいわば確保した。 右の文中の日記とは、狭義の日記の謂ではなく、回想録や随想録も、当時、にきとよば れていた。 かげ - つう・のにき すこしあとに成立した藤原道綱母の『蜻蛉日記』にも自伝的要素が濃い。また恋多き 和泉式部の『日記』や宮仕えの憂愁のにおう『紫式部日記』、さらには少女のころから五 たかすえのむすめさらしなにつき 十すぎまでの半生を書いた菅原孝標女の『更級日記』などを考えてくると、日本の上代 一きは は世界でもめずらしいほどに閑文字、あるいは自伝の幸ふ国であったことがわかる。 きのつらゆき 1 引