大正時代 - みる会図書館


検索対象: この国のかたち 4 (1992~1993)
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1. この国のかたち 4 (1992~1993)

菊池寛と、アメリカで興ったプラグマティズムとの関係を説く説がありますが、面白い ですね。 大正の間は、第一次大戦の好況もあり、政府は懐ろが豊かになって、旧制高校や外国語 学校をはじめ、高等農林、高等工業、高等商業といったカレッジがたくさんつくられた。 明治時代にできた私立大学も、大正になって大学令による大学になった。ともかくも、大 正時代というのは、学問や教養といったものが大衆化される社会の基礎がつくられた時代 でした。 ニコライ・—・コンラド ( 一八九一 ~ 一九七〇 ) は、ペテルプルグの日本語科でネフスキ ( ニコライ・ソ連の東洋学者。一八九二 ~ 一九四五 ) と一緒だったといいます。コンラドは、 大正三年 ( 一九一四年 ) 東京大学に留学して、やがて世界的な日本学者になるのですが、 「もし自由にどの国のどの時代にもゆけるとすれば、日本の大正時代にゆきたい」 といっていたそうですね。大正時代の東京には夢があって自由でありながら人々が孤立 しておらず、しかもロマンティックな気分もあったのでしよう。厳格なリアリズムの精神 がなくても、帝政ロシアからの留学生にとっては楽しかったのにちがいありません。 私が出た外国語の学校も、大正末年にできました。校歌に、〃もはやこの世に戦火はな 、世界と共存する時代がはじまったのだ〃という意味のことがうたわれています。いま 円 8

2. この国のかたち 4 (1992~1993)

日比谷公会堂の焼き打ちという愚かな騒ぎの果てに日露戦争も終わり、政府は大変な債 務を抱え、また庶民にとっては戦後の不況が直撃していた時代です。しかし人々の意識は、 戦争に勝って一流の国になったつもりでいる、この意識が、どの国にもない滑稽さだと漱 石は思っている。そういう諸相が全て集約されて、広田先生の「亡びるね」という台詞に なる。それから太平洋戦争の敗戦までわずか約三十有余年です。広田先生がいったとおり に、亡びたんです。国家といっても、はかないものですね。 文化にも現実が根づかない 明治のリアリズムは、正岡子規の写生主義を生んだことで、文化としては大きな収穫が あります。ただ写生主義は、その借家は間ロは何間で、玄関は明るいか暗いか、小庭には 鶏頭が何本あるか、座敷の藤の花房は畳の上にとどいているかどうか、というリアリズム にとどまって、つぎの社会 ( 大正時代 ) の思想的基盤になるほどの力はありませんでした。 大正プルジョワジー、大正デモクラシー、大正ロマンティシズムといった言葉はありま したが、大正リアリズムとは言わないでしよう。そうしたリアリズムの側面を文化の面か ら見ても、どうも日本の文化風土のなかには、リアリズムは根づかなかった感じがしま 194

3. この国のかたち 4 (1992~1993)

とがあります。日本は、 God の国でなく、小文字の gods の国のようですね。志賀直哉 ときとう きのさきおのみち いや時任謙作ーーが、 の小説を私は好きですが、城崎や尾道などを転々とする志賀さん その文学以上に作者の人間を透きとおらせて行って、ついに神 ( 小文字 ) の神遊びのよう な印象にまでなる。西洋人には志賀文学は退屈かもしれませんが、日本人には、透けてゆ く神をみるような愉しみを覚えさせるのです。しかし、国家や社会に怖れを感じさせるよ うなどすのきいたリアリズムというわけにはいきません。 「日本の大正時代にゆきたい」 雑誌「文藝春秋」は大正十二年の創刊でしたね。いまの大衆化社会という、いまある悪 いッとも、 しいことも、ある種の豊かさに伴う現象は大正時代に全部出ていると思います。 「文藝春秋」もその一つであることが面白いですね。先行の「白樺」が芸術青年のもの、 「中央公論」が知識階級のものとすれば、「文藝春秋」の読者は、時代の影響なのか、ずい 一一ぶん幅が広い。菊池寛が、表現はすこしちがいますが、社会の実務についている多数者 人 たとえば村役場の書記というような人達ーーに読んでほしいといったように思いま 本 日 す。 円 7

4. この国のかたち 4 (1992~1993)

かたちについては、ギリシアの哲学者たちがむずかしい理屈を考えた。かたちを把握す る上で、感性と知性によるやり方があるという。さらにはそこから本質をひき出すという のだが、私どもは、日常茶飯、無数にそのことをやっているのである。 『この国のかたち』の主人公は、国家としての、また地域としての、あるいは社会として の日本である。 「おや、あなたたちは、どこのどなただったかね」 と、明治の夏目漱石が、もし昭和初年から敗戦までの〃日本〃に出遭うことがあれば、 ぎようそう 相手の形相のあまりのちがいに人違いするにちがいない。国家行為としての〃無法の時 代〃ともいうべきそのころの本質の唯一なものが「統帥権」にあると気がついたのは、 『この国のかたち』を書いたおかげである。 もし大正時代の農村の人が、こんにちの東京にいきなりやってきて生活をしはじめたと したら、強烈なストレスのために、ひょっとすると数カ月も生きていないかもしれない。 漱石の明治と、大正時代とこんにちとは、一つの国や社会ながら、様相が異る。 本稿は、そういうときに時代ごとの形質をあっかいつつも、時代を越えて変らぬものは ないかという、不易の、あるいは本質に近いものをさぐりたいと思って書いている。 一九九四年六月 206

5. この国のかたち 4 (1992~1993)

す。 たとえば絵画思想で、夏目漱石の時代には、リアリズム絵画が日本画でも洋画でも成立 していました。ところが大正に入ると、アールヌーポーの影響を受けて、竹久夢二に代表 されるような画風が主流になる。リアリズムから離れたちょっとデコラテイプな甘いロマ ンティシズムが大正の絵画思想でしよう。それが大正末年から昭和の初めにかけて、一挙 にフォービズム、さらにフォービズムからもっと突き進んだものになってしまう。結局、 絵画の世界では厳格なリアリズムはもう一つ育ち足りずにおわりました。 文学思想においても、自然主義が出てくる。明治末年の徳田秋声が自然主義こそ文学の 核だと主張していく。自然主義ではなかった漱石や鵐外はこの用語のあいまいさを感じっ つも、ややおびえたり、反発を感じたりします。 さらに一歩進んで、この自然主義に次いで大正九年ごろにはじまる私小説が、日本の近 代文学を特徴づけます。 紀 世 ちょっと余談から言いますが、人が農村から都市に出てくるためには、都市が要求する 十 一一技術・ー・ーたとえば大工・左官、工場での技術、あるいは帳簿の技術、教員免状、商人とし 本ての資本ーーーなどを持っていなければなりませんし、ふつうの人々は、そのことを百も知 っています。 】 95

6. この国のかたち 4 (1992~1993)

の時代とおなじです。しかし昭和になると様相がかわり、平和どころか、私はその学校の 在学中に兵営に入りました。大正時代の平和謳歌というものは、よほどふわふわしたもの だったんでしょ , つな。 大正教義主義の代表的な存在だった和辻哲郎さんは、太平洋戦争が開始された時、ずい ぶんよろこんでいます。 和辻さん、軍事知識をもっていなかったのでしよう。和辻さんだけでなく明治以後の知 識人はみなそうですね。明治人の場合、たとえば伊藤博文は、元老として日露戦争に反対 していたのですが、開戦ときまったとき、悲痛な表情で、〃むかし ( 幕末 ) にもどって自 分も銃をとって戦うをといったそうです。ロシア兵の上陸を予想していたのです。昭和の なだれ 知識人たちが太平洋戦争勃発のとき、雪崩をうって戦争を賛美することになったのは、思 想の転換ということじゃなくて、教養の一課目であるはずの軍事知識に乏しかっただけの ことでしょ , つ。 紀 世 まだ武士の出身者がたくさんいた明治十年、西南戦争の戦火が上がっているときに、東 オし力と聿日い 一一京の新聞で、薩摩人が強いといっても、そんなものは野蛮ということじゃよ、 : 本ている記事がありました。当時でさえ、文明とは、軍事を伴わない、なにか光輝く、天使 がいるような天国のようなものらしいという気分があったのだと思います。つまり、リア 円 9

7. この国のかたち 4 (1992~1993)

新秩序。構想につながっていく。しかしもっと重要なことは、大正末年から昭和初年にか けて疑似的な普遍思想、すなわちイデオロギーがひろがり始めたのです。具体的にいえば、 「右翼」と「左翼」が出てきた途端に、明治からの資産だったはずのリアリズムが、大き く足をすくわれたといえるでしよう。 左翼歴史観に日本史はなかった 「右翼」といっても、元からそうした思想があったというわけではありません。大正末年 に「左翼」が生まれ、その反作用として「右翼」が生まれたんです。もともとは十八世紀 末のフランス国民議会の席が、議長席からみて左にジャコバン党がすわっていたからとい うことですが、日本語としての左翼、右翼は、明治時代にはありません。 左翼思想とは、いわば疑似的普遍性をもった信仰であって、国家や民族を超えてこの疑 世似的普遍性に奉仕せよということでしよう。日本の左翼はその成立の瞬間から日本史をと 一一らえる点でリアリズムを失っていました。そうすると、左翼の反作用として出てきた右翼 本も同時にリアリズムを失っています。二十世紀のソ連崩壊までの間、我々を非常に惑わし たのはこの左右のイデオロギーでした。明治の漱石や子規たちが幸いにして知らずにすん 191

8. この国のかたち 4 (1992~1993)

まきえ 桃山時代以後、漆器はいよいよ工芸化し、贅がこらされた。蒔絵の器物や漆塗りによる 大規模な建造物表現もあらわれ、また庶民の家でも晴れの日の什器としてそろえるように なり、日本の代表的工芸品になった 9 明治後も、日本人の漆器好きがつづいた。明治・大正の化学者たちが漆を分析し、その 化学的主成分を抽出し、ウルシオールと名づけた。化学式も決定された。 だから、小文字の japan が漆器であるという " 独占〃も、ゆるされていいかとおもえ る。 ロ 0

9. この国のかたち 4 (1992~1993)

ハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽 な存在になった。それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。〃干犯〃になるか らである。 統帥権の憲法上の解釈については、大正末年ごろから、議会その他ですこしばかりは論 議された。 が、十分に論議がおこなわれていないまま、軍の解釈どおりになったのは、昭和十年 ( 一九三五年 ) の美濃部事件によるといっていい。憲法学者美濃部達吉が″天皇機関説〃の 学説をもっとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。結果として著 書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。 美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもっ法治国家は元首も法の 下にある、というだけのことであった。 それが、議会で否定 ( 議会が否定するなど滑稽なことだが ) されることによって、以後、敗 戦まで日本は〃統帥権〃国家になった。こんなばかな時代は、ながい日本史にはない。

10. この国のかたち 4 (1992~1993)

国 81 別 わたしは、二十二歳のとき、凄惨な戦況のなかで敗戦を迎えた。 おろかな国にうまれたものだ、とおもった。昭和初年から十数年、みずからを虎のよう ほっ ) ろ・ に思い、愛国を咆哮し、足もとを掘りくずして亡国の結果をみた。 お そのことは、さて措く。 この回は、昭和初期十数年間の〃別国〃の本質について書く。 " 日本史的日本〃を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあったということは、こ の連載の冒頭のあたりでのべた。 こまかくいえば、統帥権そのものというより、その権についての解釈を強引に変えて、 魔法のたねとした。この十数年の国家は日本的ファシズムなどといわれるが、その魔法の ししカ たねの胚芽のあたりをふりかえってみたい。 旧憲法的日本は、他の先進国と同様、三権 ( 立法・行政・司法の三権 ) の分立によってな ただが りたっていた。大正時代での憲法解釈では、統帥権は三権の仲間に入らず、「但し書き」 として存在した。要するに統帥権は、一見、無用の存在というあっかいだった。さらには、 とうすいけん