ふしぎなことに、政治はないにひとしかった。政治不在というのに、農業生産高が空前 あが に騰った時代なのである。このことは、すでにふれた。 また、 こくじんじぎむらい 「国人・地侍」 とよばれる武装農場主が、津々浦々の地下を支配するようになったことも、すでにふれ 室町の支配体制は、足利将軍家と、管領、探題、それに〃大名〃と通称される守護であ る。かれらは本来、民のための政治をおこなうべき存在であるのに、その意識さえなかっ た。おなじ支配者でも、のちの北條早雲 ( 一四三二 ~ 一五一九 ) からはじまる領国大名の面 倒見のこまかさとはずいぶんちがっていた。 足利将軍家は十五代二百三十五年もつづくが、歴代のなかで後世の鑑となるような人は ひとりもいない。 もっとも、幕府の機能も、小さかった。室町幕府は、前時代の鎌倉幕府のように、御家 すいふく 人どもを推服させるような威厳はなく、また後世の江戸幕府のような巨大な行政機構も財 かがみ
日本が難破しないために 私は東京の道を歩きながらいつも思うことがあります。それは、どこのオフィスビルで もどんな場所でも暖房や冷房が行き届き快適に過ごせますが、この空調のためのエネルギ ーは、一つのビルで何万トンの大型客船を年中航海させているエネルギーに匹敵するほど 大きいものでしよう。東京だけでも何十万という会社がそれをやっているのですから、日 本全体ではものすごい数になる。その総和がいまの日本ですから、日本という国家は巨大 なエネルギーを消費しながら、航海していることは間違いない。エネルギーが石炭から石 油に替わったときに国家の方角を間違ったと先に指摘しましたが、いま現在も、巨大工ネ ルギーを使いながら、日本はずっと航海を続けているわけです。 むろん、この世に魔法があって、私どもがいっせいに昔の幕藩体制にもどれたら、そう 紀 世 いうエネルギーは要らずにすみます。江戸時代は、人も世の中もただ存在するだけでよか 十 ったんです。おコメをつくって食べて、子供を産んで、それでお家も田地も安泰という時 の 本代でした。 近代国家というのは、明治の日本もそうだったのですが、航海しているんです。しんの 201
85 統帥権 ( 四 ) ろうだん 重臣たちを殺し、統帥権をふりかざしてついに国家を壟断した。これは訓戒の公然たる無 ↑といっていし なお、明治二十二年 ( 一八八九年 ) に発布された憲法にも、天皇が陸海軍を統帥すると いう一条がもうけられた。これはたいていの国の元首の権能とかわらない。 ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっ ばいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博 文が健在だったということと無縁ではない。 すくなくとも、明治二十年以後、明治時代いつばいは、統帥権が他の国家機能 ( 政府や 議会 ) から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。 統帥権には、 あく 「帷幄上奏」 という特権が統帥機関 ( 陸軍は参謀本部、海軍は軍令部 ) にあたえられていた。 帷幄とは、『韓非子』にも出てくる古い漢語で、野戦用のテントのことをいう。統帥に 関する作戦上の秘密は、陸軍の場合、参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏す 109
昭和の軍閥のはなしである。この存在とその奇異な活動は日本史上の非遺伝的な存在だ と私は感じてきた。 この主題を数回っづける。まず、江戸末期から、ふれたい。 明治維新 ( 一八六八年 ) が、植民地になるまいとする攘夷運動からはじまったことは、 いうまでもない。 幕府は、二百数十年、鎖国をしてきた。 のんきな国で、外敵をふせぐための国防施設はなにひとつもたなかった。平和主義とい うことでいえば、世界史上の奇観であった。 2 統帥権 ( 一 )
73 馬 明治初年、日本にきた外国武官が、日本陸軍の馬をみて、「猛獣のようだ」とおどろい たらしい 日本人は馬の去勢を知らなかったのである。 日本以外の多くの民族は牛馬や羊などに生活を依存してきたために、種馬以外のオス馬 は去勢するのが常識だった。この施術は人間の男性にもおよんだ。 かんがん 宦官のことである。宦官は古代エジプトなどオリエントには古代から存在し、中国では 清末までの政治の基本的な禍害の一つになっていた。 日本には、宦官も去勢馬も存在しなかった。 7
幕藩時代、幕府を公儀といい、諸藩は幕府の次元からみれば、法的に " 私〃であった。 しかばね 大名領は " 私領〃とよばれたりした。この〃法理論〃でいえば、越後や東北の山野で屍を さら 曝した官軍諸藩の死者たちは、私的な存在になる。極端にいえば、藩同士の私戦による私 死という解釈も成り立ちかねない。 戊辰戦争の結果、それまでの流動的存在だった新政府が、なんとか内外に公認される政 府になった。 内実はまだ封建体制のままながらも、戊辰戦争の勝利によって " 新国家〃ができたと考 えてよく、その新国家としては、日本におけるあたらしい〃公〃として、戦死者たちの " 私死〃を、〃公死〃にする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は、〃公〃とも 国家ともいえない存在になる。 戊辰戦争がおわった明治二年、九段の上に招魂社ができたのは、そういう事情による。 祭祀されるものは、時勢に先んじて、いわば〃国民〃のあっかいをうけた。さらにいえば、 魂九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる。 招 発議者は、長州の大村益次郎であった。ついでながら、かれはこの発案をふくむ国民国 家 ( 藩の否定 ) 思想に反対する激徒のために、この年のうちに暗殺される。
が、秩序という機械を掃除したり、油をさしたり、ゴミを取りのぞく雑用の者がいなけ れば、機械は動かなくなる。〃御坊主〃はそのためにいた。 僧はむかしから、〃方外〃 ( 世間の外 ) といわれた。殿中の坊主衆の頭は、″私どもは世間 くろご の秩序の外の者でございます〃というしるしとして剃っているのである。芝居の黒衣に似 ている。舞台で役者が落とし物をすれば黒衣が出てきて拾うが、その存在は舞台の進行と は関係がない。 将軍の家庭である〃奥〃は男子禁制の場所だが、奥坊主だけは出入りして、雑用をする。 そこに居ても、居ない。 かんがん 奥坊主にかぎっていえば、中国やユーラシア大陸全域に存在した宦官の役割に、かすか ながら似ていなくもない。ただ奥坊主その他坊主衆が中国の宦官のように政治に口を出し た例は一度もない。 江戸城では、御坊主衆の組頭のことを、とくに、 「同朋」 とよんだ。この職名は、室町幕府の職制からきている。 ほうがい くみがしら
国 81 別 わたしは、二十二歳のとき、凄惨な戦況のなかで敗戦を迎えた。 おろかな国にうまれたものだ、とおもった。昭和初年から十数年、みずからを虎のよう ほっ ) ろ・ に思い、愛国を咆哮し、足もとを掘りくずして亡国の結果をみた。 お そのことは、さて措く。 この回は、昭和初期十数年間の〃別国〃の本質について書く。 " 日本史的日本〃を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあったということは、こ の連載の冒頭のあたりでのべた。 こまかくいえば、統帥権そのものというより、その権についての解釈を強引に変えて、 魔法のたねとした。この十数年の国家は日本的ファシズムなどといわれるが、その魔法の ししカ たねの胚芽のあたりをふりかえってみたい。 旧憲法的日本は、他の先進国と同様、三権 ( 立法・行政・司法の三権 ) の分立によってな ただが りたっていた。大正時代での憲法解釈では、統帥権は三権の仲間に入らず、「但し書き」 として存在した。要するに統帥権は、一見、無用の存在というあっかいだった。さらには、 とうすいけん
疲れることですが、もう歴史がそのように選択してしまったんです。 日本が国家目標を失った時、どうしたわけか、いつも江戸回帰という現象が起こってき ます。たとえば敗戦の時に、徳川夢声は、「もう日本はたいそうなことは考えずに、極東 の小さな島国としてひっそり生きていこう」という趣旨のことを言っていますが、彼のよ うな賢者でも、江戸時代回帰を考える。いまの日本にもそうした主張が出てきています。 しかし我々はもはや江戸時代のお百姓さんには戻れない。徳川夢声に象徴されるような 江戸時代回帰にはもう逃げ込めない。いったん明治元年に国家として出航してしまった以 上、我々は常に次なる目標を考えなけれま、ナよ、。、 ししレオししま我々の足元を見ると、結局、物 をつくって売って国を航海させているわけですから、やはりお得意さん大事という精神、 このリアリズムだけが、 日本を世界に繋ぎとめる唯一の精神だと思えてなりません。 アフリカの僻地の人々までがお得意さんです。その代表的な存在がアメリカや QO とす れば、彼らの立場も要求もかなり分かってくるのではないでしようか。ところが日本の対 応の仕方は、そうした良き商人の伝統に反するような非常にまずい対応でしかない。もっ とお得意さん大事という精神を呼び覚ますべきでしよう。 日本は商人国家などと、わりあい自虐的に語られますが、歴史的に日本の商人は十分に 魂の入った存在でした。 202
ハン事変など、すべて統帥権の発動であり、首相以下はあとで知っておどろくだけの滑稽 な存在になった。それらの戦争状態を止めることすらできなくなった。〃干犯〃になるか らである。 統帥権の憲法上の解釈については、大正末年ごろから、議会その他ですこしばかりは論 議された。 が、十分に論議がおこなわれていないまま、軍の解釈どおりになったのは、昭和十年 ( 一九三五年 ) の美濃部事件によるといっていい。憲法学者美濃部達吉が″天皇機関説〃の 学説をもっとして右翼の攻撃をうけ、議会によって糾弾された事件である。結果として著 書が発禁処分にされ、当人は貴族院議員を辞職した。 美濃部学説は、当時の世界ではごく常識的なもので、憲法をもっ法治国家は元首も法の 下にある、というだけのことであった。 それが、議会で否定 ( 議会が否定するなど滑稽なことだが ) されることによって、以後、敗 戦まで日本は〃統帥権〃国家になった。こんなばかな時代は、ながい日本史にはない。