ふしぎなことに、政治はないにひとしかった。政治不在というのに、農業生産高が空前 あが に騰った時代なのである。このことは、すでにふれた。 また、 こくじんじぎむらい 「国人・地侍」 とよばれる武装農場主が、津々浦々の地下を支配するようになったことも、すでにふれ 室町の支配体制は、足利将軍家と、管領、探題、それに〃大名〃と通称される守護であ る。かれらは本来、民のための政治をおこなうべき存在であるのに、その意識さえなかっ た。おなじ支配者でも、のちの北條早雲 ( 一四三二 ~ 一五一九 ) からはじまる領国大名の面 倒見のこまかさとはずいぶんちがっていた。 足利将軍家は十五代二百三十五年もつづくが、歴代のなかで後世の鑑となるような人は ひとりもいない。 もっとも、幕府の機能も、小さかった。室町幕府は、前時代の鎌倉幕府のように、御家 すいふく 人どもを推服させるような威厳はなく、また後世の江戸幕府のような巨大な行政機構も財 かがみ
いわば、徳川将軍家は大名同盟の盟主というべき存在だった。当然ながら統治の原理は 武であった。 げんなえんぶ 武でありつつも、元和偃武以来、文治主義そのものだった。さらには統治の方法といえ ば、儒教的人治主義ではなく、大隈重信がいうように一種の法治制をとってきた。 余談だが、のち日本は安政条約によって半ば国際社会に入る。当時、日本の幕藩体制は ヨーロッパ人にとっても不可解だった。フランス政府はいちはやく将軍を皇帝とよび、さ らには諸大名をつぶして郡県制を布くように内密ですすめた。これに対し、英国はべつな 見方をとった。やがて英国公使館員アーネスト・サトウは、将軍は大名同盟の盟主である という体質に気づいた。 幕府は、アヘン戦争という衝撃波に対し、鋭敏に反応した。国家を防衛する力はなかっ たとはいえ、武の原理の上に立っていた政権だけに、″敵情〃については鋭敏だったとい える。 また日本にとって幸いしたのは、厳格な鎖国をおこないつつも、長崎一港だけは限定的 に開港していたことであった。つまりオランダ商人と清国商人に対してのみ通商をゆるし、
ついでながら、清国・朝鮮・日本という東アジアのふるい三国は、そろって鎖国をして 朝鮮はアヘン戦争という、文明史的な大事件に対し、鈍感だった。 この鈍感さは、おそらく儒教体制の弊によるものだったろう。官学である朱子学が、空 ・一ろう 論と固陋さ、さらには自己の文明についての強烈な自己崇拝を朝鮮に植えつけていて、外 界の音響からひとびとの鼓膜を厚くしていた。 江戸時代の日本は、漢籍こそ読んでいたが、体制も社会慣習も中国ふうではなく、大胆 にいえば儒教でもなかった。大隈重信は幕末にあって「日本は強いていえば法家主義だ」 といったが、その当否はともかく中国や朝鮮とは体制がちがうということを言いたかった のだろう。 簡単にいえば、中国や朝は中央集権制をとっていたが、日本は偶然ながらある時代の ヨーロッパと似た封建制をとっていた。つまり大名たちが割拠的な自治体制をとり、その 帥上に将軍という統一の機構を載せていて、一国の平和と秩序を成立させていた。 言いかえると、事実上の主権者である徳川将軍家は四百万石 ( 一説では八百万石 ) を領す さんか る最大の大名で、その武力でもって傘下の大名群を束ねていた。
政力も持っていなかった。 きたやまだい 威福という点では、京の室町に第館を造営し、晩年は北山第 ( 金閣 ) に隠居した三代義 満の時代が全盛期で、つぎの四代義持の代もその余熱がつづいた。 ・よしか 義持は五代目を義量にゆずって隠居した。若い義量は在職三年、いまでいえば少年期 というのに酒色にふけり、わずか十九歳で急死した。ほどなく父の義持も子のあとを追っ 以下は、足利将軍家がどういうものであったかの一例である。 まんさい 垂死の義持の枕頭に護持僧の満済がいた。 ゅうし 満済は僧ながら貴人である。公家の子にうまれ、三代将軍義満の猶子になり、醍醐の三 宝院門跡を継いだ。 人柄がおだやかなところから、義持から信頼され、かれから後嗣についての遺言をきく 世ことになった。 の 「ノ、じよ、 。しカかで」ギ、ろ , つ」 町 室 と、満済がきくと、義持はうなずいた。 4 7 有資格者が、四人いる。四人とも三代義満の子である。 だいかん
「おのれ、わしの犬を殺しおったわ」 と、義教はうらみをふくみ、のち、室町御所に仕えていた満祐の妹を、罪もないのに追 いつめて自害させた。 犬の仇を討ったつもりだった。 さよ 満祐の赤松氏は播磨の佐用の土豪からおこった家である。 貴族好みの足利幕府にあっては、守護のなかではめずらしく土のにおいのする出身だっ えんしん たかうじくみ 満祐にとっての曾祖父の円心入道が、足利将軍家の祖の尊氏に与して戦功があったこと みまさか から、播磨、美作、備前の三カ国の守護となり、代々京に常駐して幕政に参加してきた。 た つらがま 満祐は狡智に長けた男で、面構えにもそれが出ていたために、人に好かれなかった。そ もそも先代の義持にもきらわれた。 きんじ 先代の義持がまださかんなころ、満祐の同族に持貞という男がいて、義持に近侍してい ねやちょう 義持は持貞の美貌をめで、これを閨で寵するようになった。やがて、 「あの満祐がもっ三国をおまえにやろう」 っ ) 0
まんえん その二年後の万延元年、井伊は報復をうけた。江戸城登城の途中、桜田門外で水一尸浪士 らに行列を襲撃されて死ぬ。白昼、将軍の居城の門前で襲われたのである。以後、幕威は 急速におとろえた。 たとえば、桜田門外の変から三年後の文久三年 ( 一八六三年 ) 、京都に入った十四代将軍 いえもち 家茂の行列に対し、 「いよう、征夷大将軍 ! 」 ぐぶ と、芝居の大向うみたいに声をかけた者がいた。将軍に供奉する幕臣たちはとがめだて 一つせず、下をむいて屈辱と無念の涙をこらえたという。 幕末の中ほどまで、幕府・諸藩とも、正規軍を動かさなかった。″有志〃がいわば徒党 として散発的に武装行動し、幕府もこれに対し新選組など警察権をもっ組織を行使してい た程度だった。 過激派の本山のようになりはじめていた長州藩でさえ、元治元年 ( 一八六四年 ) 七月、 帥京都にほとんど自殺的な大乱入を敢行した程度であった。それも、表むきは陳情団という 形をとった。 幕藩体制は武を原理としながらも、幕府も諸藩も、〃軍〃という権力表現をとることを
さな国民国家ができていたといっていし やがて幕府は第二次長州征伐を発動した。が、幕軍は長州の四境で惨敗した。庶民軍に、 歴世の武士たちが負けたのである。 ばしん 変転して、戊辰になる。 新将軍慶喜は、大坂城にあった。すでに " 大政奉還。によって、かれは政権を返上した。 ただし領地は保持していた。 京にあっては薩長の兵四千五百が、幼少の天子を擁している。 薩長は、朝命と称し、大坂の慶喜に対し、その領地をも返納するよう強要した。 これに対し、大坂城の慶喜の身辺には、会津・桑名の藩兵が多数いた。かれらは " 薩 賊′とよんで薩摩藩の横暴に激昂した。ついに正月早々、京都にむかって押し出すことに なる。作戦行動という明解なものでなく、武装陳情というあいまいなものだった。 総数一万五千、先鋒は新選組、会津・桑名の藩軍で、これに大坂で徴募した " 歩兵 , と いう庶民兵が加わっていた。 ただし、統帥者がいなかった。 将軍慶喜が陣頭に立つわけでもなく、傍観者として大坂城にいた。 よしのぶ
日本の近世は、計量の時代でもあった。 コメその他の商品が計量され、貨幣によって数字化される世になった。流通は全国にお よび、あらゆる階層に浸透した。 ひとびとの意識もかわった。 また流通経済の盛行によって、自覚的ではないにせよ、個人の輪郭が鮮明になりはじめ 新井白石の自伝『折たく柴の記』には、あざやかに個人の意識が成立している。 としゅ かれの境涯は徒手から出発した。浪人の子にうまれ、貧窮のなかで学問をし、ついには 将軍の最高政治顧問になった。 しかしながら、運命が転変した。在任七年余で将軍の代がわりに遭い、罪なくして失脚 するのである。ただ、かれ自身が一代で獲得した旗本という身分はのこった。 近代以前の自伝は公刊を目的とせず、多くが子孫に読ませるために書かれた。白石の子 孫が旗本でありつづけることによって、読むべき対象 ( 読者 ) の永続性が保証されたこと になる。 近世・近代の精神の特徴は、商品を見るように自分や物事を客観的に見ることだった。 白石の自伝における自他についての客観的把握力は、その点、おどろくほかない。 132
84 統帥権 ( 三 ) 屋はかくまってひきわたさないというのが、右の申しあわせの骨子である。その思想的根 拠ものべられている。 一君万民思想というものであった。 天皇という、当時、無か空に近かった一点を、架空ながら論理の頂点に置くことによっ えそらごと て、浮世は平等になる。将軍も大名も上士も一瞬にして絵空事になるのである。 さらには、農民こそ上古から連続する存在で、従って大名の領民というよりも本質的に は天皇の民であるとする。 そういう農民をあずかっている庄屋は、理論の上での天皇の官なのだというのである。 一君万民という平等思想は、幕末、この藩だけでなく多くのひとびとに共有された。 江戸体制の基本思想は、忠ということである。 革命化した藩士たちにとって藩主 ( 大名 ) の主君である将軍を討っ ( 倒幕運動 ) のは、藩 主に不忠を強いることになる。また藩をつぶすこと ( 明治四年の廃藩置県 ) も藩主への不忠 になる。これらの矛盾を一挙に解決できる思想が、一君万民思想であった。 ークスが、 とくに廃藩置県については、当時の英国公使・・ 「大変な流血をともなうだろう」
屈辱の講和。「春秋左氏伝し。この大げさすぎる激情を、主として在野人が共有した。 珍妙なのは、その在野人たちは、鎖国こそ神代からの祖法であると信じていたことであ きんきん る。むろん鎖国は僅々二百数十年前に徳川幕府がやったことにすぎない。かれらの日本史 知識の貧困さがうかがえる。 江戸時代の京都はさびしかった。 ところが、幕末、一変した。諸国の鎖国攘夷派が京都にあつまり、公家たちの屋敷に出 えんそう 入りして論壇を形成したために、京都が開国に反対する在野勢力の一大淵叢になった。 幕府は、京都御所を擁する在野勢力から″朝命〃をもって攘夷をうながされた。つまり は対米戦争をやれということであった。 幕府は、一国を保持する責任政権である。 幕府は、矛盾にくるしんだ。〃攘夷などできない〃 と公然と言えば、兵馬の権をゆだね かなえけいちょう 帥られている征夷大将軍 ( 将軍の正称 ) として鼎の軽重を問われる。将軍の称号は、夷 ( 外 国勢力 ) を征するという意味なのである。