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検索対象: この国のかたち 4 (1992~1993)
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1. この国のかたち 4 (1992~1993)

細部にいたるまではっきりしている。 " 事変。を軍部が統帥権的謀略によってつくりだすことで日本国を支配しようとしたこと については、陸軍部内に、思想的合意の文書というべき機密文書が存在した。 『統帥綱領』『統帥参考』 が、それである。この文書については、以前にふれた ( 第一巻「機密の中のが国家巳 ) 。 『綱領』のほうは昭和三年 ( 一九二八年 ) に編まれ、『参考』のほうは昭和七年 ( 一九三二年 ) に編まれた。 編んだのは統帥権の機関である陸軍の参謀本部であった。この書物は軍の最高機密に属 し、特定の将校だけが閲覧をゆるされた。修辞学的にいうと、統帥権の保持者である天皇 といえども見せてもらえなかったはずである。 国『綱領』が編まれた昭和三年といえば、統帥権を〃分与みされている陸軍の参謀将校によ って満洲軍閥のぬしの張作霖が爆殺されたとしである。統帥権に準拠していればどんな超 法行為でもできるという意味で、魔法の杖であった。 また、『参考』が編まれた昭和七年といえば、〃満洲国〃樹立のとしであって、この翌年 81 別

2. この国のかたち 4 (1992~1993)

日本人の二十世紀 あとがき 題字司馬遼太郎 装幀安彦勝博 初出掲載誌「文藝春秋」一九九二年四月号 ~ 一九九三年一一月号 ( 「日本人の二十世紀」は一九九四年四月号 )

3. この国のかたち 4 (1992~1993)

85 統帥権 ( 四 ) 長州出身の陸軍卿山県有朋はこれに懲り、統帥の意味をあきらかにすべく、西南戦争が おわった直後から、『軍人に賜はりたる勅諭』 ( 略称・軍人勅諭 ) の膳立てにとりかかった 反対者もいた。 おやとい ー大学助教授だったが、明治六年 御雇外国人・・ボアソナードが、そうだった。バ丿 ( 一八七三年 ) 来日し、以後、二十二年にわたって日本の法典整備に力をつくした人である。 「法体系とまぎらわしくなるのではないか」 と、不安がった。 、統帥のなんたるかを解していない危険な軍隊ーー・・・貔貅ーー・をかかえている山県とし ては、それどころではなかった。 にしあまね 勅諭は、西周が起草した。井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にもわかるように 八二年 ) であった。 文章をやわらかくした。公布は明治十五年 ( 一八 冒頭に、「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」とある。統帥権の歴史的根 拠をのべたのである。 この勅諭の一文が、ボアソナードが案じたように、のち美濃部達吉 ( 東大 ) や佐々木惣 107

4. この国のかたち 4 (1992~1993)

まんえん その二年後の万延元年、井伊は報復をうけた。江戸城登城の途中、桜田門外で水一尸浪士 らに行列を襲撃されて死ぬ。白昼、将軍の居城の門前で襲われたのである。以後、幕威は 急速におとろえた。 たとえば、桜田門外の変から三年後の文久三年 ( 一八六三年 ) 、京都に入った十四代将軍 いえもち 家茂の行列に対し、 「いよう、征夷大将軍 ! 」 ぐぶ と、芝居の大向うみたいに声をかけた者がいた。将軍に供奉する幕臣たちはとがめだて 一つせず、下をむいて屈辱と無念の涙をこらえたという。 幕末の中ほどまで、幕府・諸藩とも、正規軍を動かさなかった。″有志〃がいわば徒党 として散発的に武装行動し、幕府もこれに対し新選組など警察権をもっ組織を行使してい た程度だった。 過激派の本山のようになりはじめていた長州藩でさえ、元治元年 ( 一八六四年 ) 七月、 帥京都にほとんど自殺的な大乱入を敢行した程度であった。それも、表むきは陳情団という 形をとった。 幕藩体制は武を原理としながらも、幕府も諸藩も、〃軍〃という権力表現をとることを

5. この国のかたち 4 (1992~1993)

きずい 恥也」。さらに、「兵隊廟議を論じ、気随に辞表を出」したことは国のみだれであるとも書 結局、統帥のみだれが、明治十年 ( 一八七七年 ) の西南戦争という未曾有の内乱をひき おこした。 そのみだれは、隔世遺伝のように、昭和の陸軍に遺伝した。 昭和陸軍軍閥は、昭和六、七年以後暴発をつづけ、ついに国をほろばしたが、その出発 は明治初年の薩摩系近衛兵の政治化にあったといっていし

6. この国のかたち 4 (1992~1993)

るということである。 参謀本部制は、元来、ドイツの制度である。それをまねて日本に設けたのは山県有朋で、 明治十一年 ( 一八七八年 ) に発足した。発足早々、ドイツ風に帷幄上奏権も設けられた。 作戦は機密を要する。いちいち政府や議会に漏らすわけにもいかないからこれも妥当な 権能といっていし ただ、この権能までが、昭和になると、平時の軍備についても適用されるという拡大解 釈がなされるようになった。 おさち 首相浜口雄幸が、そのために右翼のテロに遭った。 浜口は財政家で、重厚かっ清廉な人格をもち、その魁偉な容貌から〃ライオン首相〃な どといわれた。かれは軍縮について海軍の統帥部の強硬な反対を押しきり、昭和五年 ( 一 九三〇年 ) 四月、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。右翼や野党の政友会は浜口を、 「統帥権干犯」 として糾弾した。 千犯などという酒精分のつよいことばは、法律用語にはない。統帥権に関してのみ、こ の異常なことばがっかわれたこと自体、昭和軍人が規定した統帥権の不安定さと、かれら かい 110

7. この国のかたち 4 (1992~1993)

ちょう 良い人間は兵にならない」というのがあるように、あぶれ者ややくざ者が王朝の徴に応じ て兵になる。 もっとも、申維翰が見誤ったのも、むりはない。 徳川の幕藩体制は、関ヶ原の勝利 ( 一六〇〇年 ) からはじまった。 戦後、その戦時体制が、そのまま統治組織になった。幕府直轄軍と三百ちかい諸侯の軍 兵が、行政職その他平時の職についたのである。官吏・公吏の人数がこれほど過剰な社会 は世界史になかった。 はるかな後年、明治維新 ( 一八六八年 ) で幕藩体制がおわって四民平等になり、士の階 級は特権をうしない、ただ士族という呼称をもらった。明治六年 ( 一八七三年 ) 現在の士 族の数は、戸数にして四十万八千余戸、人数にして百八十九万二千余人である。この人数 を、江戸時代に遡及させていし 江戸体制はいうまでもなく身分は世襲制だった。 また中国や朝鮮のように科挙の制がなかった。なかったからこそ幸いだったといってよ く、もし漢文の古典を朱子学の法則どおりに丸暗記して身分上昇せねばならないような体

8. この国のかたち 4 (1992~1993)

師うるし 漢代、中国漆器はさらに上質なものになった。 らくろう 紀元前一〇八年、漢の武帝は朝鮮半島に楽浪郡など直轄領を置いた。その遺跡から、む ろん漆器も出土する。朝詳漆器は、楽浪文化を源流としているはずである。 日本の漆工芸は、たしかに中国・朝鮮を源流としている。 しかし、一面、最近の考古学の発見が、この先入主を混乱させもしている。 みかた 福井県三方郡三方町鳥浜字高瀬の地は、大きくは若狭湾にのぞみ、小さくは三方湖にの ぞんでいる。昭和三十六年 ( 一九六一年 ) 、ここで縄文遺跡 ( 鳥浜貝塚 ) が発見された。 時代は縄文草創期から同前期までというふるいもので、一九六一一年以来、同志社大学と 立教大学が合同して、十次にわたる発掘調査をした。 縄文人は、採集でくらし、そのくらしは粗放であると想像されてきた。 が、鳥浜で発掘されたものの中に短弓、縄、編籠、櫛などの生活財があり、それらが意 外に高度なものだった。 うるしえ それ以上に関係者に衝撃をあたえたのは、漆の容器や漆絵の断片が出てきたことだった。 もん 出土した漆絵の破片には、赤い漆でもって乱線や抽象文が描かれていた。 この遺跡は、縄文草創期はじめのものなら約一万二千年前だし、縄文早期末なら約六千 あぎ あみかごくし

9. この国のかたち 4 (1992~1993)

ぐんせん にぶね 〇九年 ) 、五百石積以上の船は、軍船・荷船を問わずこれを禁じた。 しゆいんせん その時期まで、日本には航洋船として多帆の朱印船型の大船があり、航海には南蛮渡来 の天測具もっかっていた。 あたけ また軍船としては大船の安宅型があり、さらにはスピードが速く、駆逐船の機能をもっ せきぶね 関船もあった。これらはみな禁じられた。 もし禁じなければ、関ヶ原でくじかれてもなお雄心を残していた西国大名が、伊勢の鳥 羽湾あたりに大船を集結させ、遠州灘をこえてはるか江戸湾に進入するかもしれなかった。 すでに、南蛮船・オランダ船が、地球を半周して日本にきていることをひとびとが知っ ていた時代だから、荒唐な想像ではなかった。 この幕府の大船への予感は、後世、的中した。関ヶ原から二百五十三年後の嘉永六年 ( 一八五三年 ) 六月、ペリー提督にひきいられたアメリカの東洋艦隊四隻という途方もない 大船が突如江戸湾に進入してきたのである。 いわゆる〃黒船〃の到来であった。国中騒動し、幕府はその弱さを世間に露呈し、威信 は一挙に失墜し、崩壊への第一歩になった。 づみ 巧 2

10. この国のかたち 4 (1992~1993)

82 統帥権曰 あんばこ そのことで、暗箱にあけた針の穴ほどながら外光を入れていた。 幕府は、長崎奉行に命じ、アヘン戦争が終了した翌年 ( 一八四三年・天保十四年 ) 、情報 の収集に乗りだした。 長崎在留のオランダ人には英軍についての情報を、また清国人に対しては、清国の応戦 の実態について問うた。調査は、質問書を発し、回答をもとめる形式でおこなった。 幕府は、英国のことなど、ほとんど予備知識がなかったが、西洋学として蘭学が学ばれ てきたために、未知の英国を十分想像することができた。 それにしても幕府の驚きは大きかった。そのことは、十数年来、沿岸の諸藩に対して出 、っち・はら - い しつづけていた「異国船打払令」という乱暴な法令をひっこめたことでもわかる ( 異国船 打払令は、文政八年〈一八二五年〉に出された。〃有無に及ばず打払え〃という容赦のないものだっ た。幕府にすれば、もしこの令が諸藩によって本気で実行されればアヘン戦争の二の舞になることを おそれたのである ) 。 石井孝氏の「日本開国史』 ( 吉川弘文館 ) には、当時清国に駐在していたデーヴィスとい う貿易監督官が本国の外相アバディーンに送った秘密書簡がかかげられている。その秘密 書簡では″つぎは日本だ〃とある。