るいわば数学のおたくのような少年が、仮の一点を設けて、ここで一つ数式をつくってい けば全部解答ができるというような感覚で、産油国にコンバスの心を置いて円を描いたと いうことではないでしようか。こんな国家行動は、世界史にあったでしようか。 そのために陸軍の兵力は分散され、海軍にいたっては、艦隊決戦思想から、輸送護衛の 兵力というぐあいに役害がかわりました。結果として、諸々の戦闘に伴う海戦はありまし 、連合艦隊の本質は輸送艦隊に過ぎませんでした。 二十世紀は仮想敵国をつくって自分の軍備を整える時代でしたから、日本陸軍はソ連、 海軍はアメリカを仮想敵国としていました。日本海軍の図上演習ではアメリカ連合艦隊は フィリピン沖からやってくることになっており、日本の連合艦隊は対馬沖で待ち伏せるこ とになっています。 まったく日本海海戦時のときにバルチック艦隊がやってきたコースと同じでした。勝者 というものは、自分がかって勝った経験しか思考の基礎にしない、だから間違うという教 世訓がここにもありました。結局、海軍大学校では、日本海海戦という型だけを一生懸命研 究していて、しかしながら肝心の戦争が蓋を開けたら、石油が出るポルネオ、スマトラに の 本心を置いてのとりとめもなくひろい戦場ができ上がっている。要は、数学の答案としては 立派でも、軍事的リアリズムは全くなかったのです。 7
この幻影のような積木を追認したり、糊塗したりするだけでした。軍部の " 謀略〃は多分 それを亡国の遊びだというふうに根底から批判しつくすという に子供じみていましたが、 意見が大展開されたということは、なかったのです。 ひとつには、日本の知識人の教養に、軍事知識という課目がなかったということもある でしよう。世界環境のなかにおける日本の軍事力という場からみても、日本軍が持ってい る自己認識 ( ノモンハンにおける須見大佐や小松原中将の述懐を参照 ) は、おかしいと思うべき 幻想を共有することが だったのです。昭和十年代には、軍部の気分に乗ることが 愛国だと思われるようになったのは、知性の敗北などと戦後の論評者は言いますが、知性 という抽象的なことよりも、具体的には、世間のひとびとーーノモンハンの小松原中将ま でふくめてーーが軍事という具体性のなかから、内外を見ようとしなかったからでしょ いトシをした大人たちが感心したり、当惑したりしなが ″子供〃が積んでゆく積木を、 世ら、賛美したり追認したりするうちに、戦争の規模は拡大して、仏印 ( ヴェトナムなど ) に 二進駐し、そのことによって、ヨーロツ。ハの既得権に挑戦することになります。〃大東亜共 本栄圏〃などとは、むろん美名です。自国を亡ばす可能性の高い賭けを、アジア諸国のため に一打 , っ A い , っ つまり身を殺して仁を為すようなーー酔狂な国家思想は、日本をふくめ
あの戦争は、多くの他民族に禍害を与えました。領地をとるつもりはなかったとはいえ、 以上にのべた理由で、侵略戦争でした。ただ当時、日本が宣戦布告したのは米英仏蘭であ って、その諸領土のなかの油田を奪おうとし、また英国のシンガポール、米国のコレヒド ールなどの要塞を攻撃したのです。この点では欧米との戦いだと当時の日本人は思ってい 士した。 しかし土地に現実にいるのは土地の人々であって、その人々が、日本軍の作戦によって ひどい目にあいました。 あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、 たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にあり、その獲得を 防衛するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。 真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放 していなければならないのです。 ともかくも開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深 刻な思慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。 地域への迷惑も、子孫へのつけもなにも考えず、ただひたすらに目の前の油だけが目的 でした。そこから付属してくる種々の大問題は少しも考えませんでした。数学のよく出来 186
新秩序。構想につながっていく。しかしもっと重要なことは、大正末年から昭和初年にか けて疑似的な普遍思想、すなわちイデオロギーがひろがり始めたのです。具体的にいえば、 「右翼」と「左翼」が出てきた途端に、明治からの資産だったはずのリアリズムが、大き く足をすくわれたといえるでしよう。 左翼歴史観に日本史はなかった 「右翼」といっても、元からそうした思想があったというわけではありません。大正末年 に「左翼」が生まれ、その反作用として「右翼」が生まれたんです。もともとは十八世紀 末のフランス国民議会の席が、議長席からみて左にジャコバン党がすわっていたからとい うことですが、日本語としての左翼、右翼は、明治時代にはありません。 左翼思想とは、いわば疑似的普遍性をもった信仰であって、国家や民族を超えてこの疑 世似的普遍性に奉仕せよということでしよう。日本の左翼はその成立の瞬間から日本史をと 一一らえる点でリアリズムを失っていました。そうすると、左翼の反作用として出てきた右翼 本も同時にリアリズムを失っています。二十世紀のソ連崩壊までの間、我々を非常に惑わし たのはこの左右のイデオロギーでした。明治の漱石や子規たちが幸いにして知らずにすん 191
と予想したが、結果は容易だった。その秘密は、一君万民思想にあった。 話が外れた。 ここでの主題は、軍の統帥についてである。 幼少の天皇 ( 明治天皇 ) を擁する新政府は兵をもたなかった。世界史上、軍隊をもたな い革命政権は、他に例がない。 「一君万民」 は平等思想であって、革命的な諸藩の兵さえ、天皇が自分の主君であるとはおもってい なかった。げんに食禄もいただいていないのである。 戊辰戦争が終わると、主力をなした薩長土三藩の藩兵は、長州の小部隊をのこして風許 に帰ってしまった。 その間、廃藩置県までの四年、新政府は、旧徳川家の直轄領を領地にして食いつないで 徳川家の直轄領はうばったものの、諸藩の領地や士民は手つかずだった。もとの大名が " 藩知事〃という名のもとで在藩し、日本じゅうは依然として割拠のかたちをとっていた。 く・、・もと 8
78 庭 ほ - つじ . よう 禅寺の方丈の南の軒に沿ってつくられた枯山水である。 本来、日本庭園のいのちは「遣り水」だった。 が、枯山水にあっては水を用いず、水をも象徴化したのである。滝も流れも、ときに海 りようあんじ でさえ、石組と白砂で表現した。竜安寺の庭の場合、わずか七十五坪の平庭に十五個の 石を置くことによって大海をあらわし、大徳寺大仙院の庭の場合、天地を枯淡幽寂という 主題のもとにちぢめ、禅の理想境を造形化した。 こほうあん 大徳寺には、大仙院とはべつの思想で表現された孤篷庵の庭がある。 こんじ、よう・ 孤篷庵の庭にあっては、思想性を前面に出さず、むしろ今生の華麗さを樹と苔と石で えがきだした。作庭は、ト / 堀遠州 ( 一五七九 ~ 一六四七 ) の作もしくは好みとされる。 遠州は秀吉に仕え、徳川幕府にも仕え、近江小室で一万石を領した大名であった。生涯、 他からたのまれて茶室や庭をつくることにいそがしかった。 日本人の庭園好きは、ついに大名身分の庭作りまで出した、ということになる。 や かれさんすい
ィリピンにはアメリカの要塞があるから、産油地を守るためにそこを攻撃する。むろん、 英国の軍港のシンガポールも。またその周辺にあるニューギニアやジャワもおさえねばな らず、サイバンにも兵隊を送る。 それを総称して、大東亜共栄圏ととなえました。日本史上、ただ一度だけ打ち上げた世 リアリズムが稀薄なだけにーー華麗でもあり、 界構想でした。多分に幻想であるだけに 人を酔わせるものがありました。 石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別なことばにつつまれて窺うこと ができません。この構造を裏づけるに十分な経済力も戦力も日本にないということまで、 さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせたのです。敗戦 の日に、佐々木邦というューモア作家が「雲の峰日本の夢は崩れたり」という俳句をつく りましたが、この間の消息が想像できます。 なにしろ、いまでもこの幻想を持続している人がいます。この幻想のもとにそこに参加 世して生死した数百万の人々の青春も死霊も、浮かばれない、という気持があるからでしょ てお 十 う。しかし、自己を正確に認識するというリアリズムは、ほとんどの場合、自分が手負い の たましず 人 になるのです。大変な勇気が要ります。この勇気こそ死者たちへの魂鎮めへの道だと思う 本 しかありません。 185
亦遠からず乎」と、まことにたかだかとしている。 吉川幸次郎は『論語』 ( 「中国古典選」 ) のなかで、士のことを、原義としては「家老でな い若手の官吏をさす」としつつ、この場合、「ひろく教養のある人間と解していいであろ , つ」と一い , っ はるかにくだって、江戸中期の一七一九年、八代将軍吉宗のときに来日した朝詳通信使 しんいかん ( 一行四七五名 ) のなかに、製述官として申維翰がいた。 よ のちに科挙に及第した人物で、詩文を能くした。その著『海游録』はそのときの日本紀 行文である。平凡社の「東洋文庫」に、姜在彦氏のすぐれた訳がある。 人間の思考が神学的価値観から解放されたときに、近代がはじまる。 近代は、洋の東西を問わず、商品経済の盛行によってひらかれたようである。 商人が品物の質量をはかるように、読書人もそのように物事を計量して思考するときに 人文的な思想がおこる。日本の江戸中期はすでに濃厚に近代がきざしていた。 江戸中期は、アジア史では異常な社会だった。封建制をとりつつも、同時に沸騰した商 や
84 統帥権 ( 三 ) 屋はかくまってひきわたさないというのが、右の申しあわせの骨子である。その思想的根 拠ものべられている。 一君万民思想というものであった。 天皇という、当時、無か空に近かった一点を、架空ながら論理の頂点に置くことによっ えそらごと て、浮世は平等になる。将軍も大名も上士も一瞬にして絵空事になるのである。 さらには、農民こそ上古から連続する存在で、従って大名の領民というよりも本質的に は天皇の民であるとする。 そういう農民をあずかっている庄屋は、理論の上での天皇の官なのだというのである。 一君万民という平等思想は、幕末、この藩だけでなく多くのひとびとに共有された。 江戸体制の基本思想は、忠ということである。 革命化した藩士たちにとって藩主 ( 大名 ) の主君である将軍を討っ ( 倒幕運動 ) のは、藩 主に不忠を強いることになる。また藩をつぶすこと ( 明治四年の廃藩置県 ) も藩主への不忠 になる。これらの矛盾を一挙に解決できる思想が、一君万民思想であった。 ークスが、 とくに廃藩置県については、当時の英国公使・・ 「大変な流血をともなうだろう」
日比谷公会堂の焼き打ちという愚かな騒ぎの果てに日露戦争も終わり、政府は大変な債 務を抱え、また庶民にとっては戦後の不況が直撃していた時代です。しかし人々の意識は、 戦争に勝って一流の国になったつもりでいる、この意識が、どの国にもない滑稽さだと漱 石は思っている。そういう諸相が全て集約されて、広田先生の「亡びるね」という台詞に なる。それから太平洋戦争の敗戦までわずか約三十有余年です。広田先生がいったとおり に、亡びたんです。国家といっても、はかないものですね。 文化にも現実が根づかない 明治のリアリズムは、正岡子規の写生主義を生んだことで、文化としては大きな収穫が あります。ただ写生主義は、その借家は間ロは何間で、玄関は明るいか暗いか、小庭には 鶏頭が何本あるか、座敷の藤の花房は畳の上にとどいているかどうか、というリアリズム にとどまって、つぎの社会 ( 大正時代 ) の思想的基盤になるほどの力はありませんでした。 大正プルジョワジー、大正デモクラシー、大正ロマンティシズムといった言葉はありま したが、大正リアリズムとは言わないでしよう。そうしたリアリズムの側面を文化の面か ら見ても、どうも日本の文化風土のなかには、リアリズムは根づかなかった感じがしま 194