ですから当初、旅順攻撃は日本陸軍の作戦プランの中には入っていませんでした。開戦 直前になって、急遽旅順の問題が起こり、海軍の要求で第三軍をつくり、要塞攻撃を命じ るのです。そしてご承知のように、乃木希典さんを軍司令官に、ドイツ留学の経験のある 伊地知参謀長の組み合わせで旅順攻撃を始める。これが惨憺たる失敗でした。死者一万余 という大損害を出しながら、要塞にカスリ傷も負わせることができずに戦況が続いていく。 その敗因の決定的な一つは、伊地知参謀長は陸軍の面子によって、海軍から申し出のあ った軍艦砲の支援は要らないと言ったことでした。海軍は二等巡洋艦を一つ裸にして、砲 術士官をつけて、大砲全てを提供しようとしたのです。これを第三軍は拒否しました。要 塞攻撃は大砲でやらなくてはしようがないのに、野砲程度の支援であとは肉弾攻撃あるの みという、とても考えられないような愚策をやったのです。 もうひとつ、いかに第三軍が火力を軽視していたかということで象徴的なのは、乃木さ んは、金州城及び旅順で初めて敵の機関銃の音を聞いたことでもわかります。 紀 世 日本軍の装備には機関銃がないとされていました。ところが同じ陸軍でも、当時世界一 十 一一の騎兵といわれたコサックを相手に、さきにふれたように、騎兵の長の秋山好古は既にこ 本っそり機関銃を手に入れていたのです。秋山は、サン・シールのフランスの士官学校に留 学して、ヨーロッパの正規の教育を受けた騎兵将校として、騎兵の元締として満洲の戦場 まれすけ 175
余年経ったばかりなのです。 新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の 状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしよう。 ーフェク 欧露から回航されてくるロシア艦隊を、伊藤正徳さんの表現を借りると、 ト・ゲームでもって残らず沈めねば日本は戦争そのものを失うのです。数艦でも生き残る と、当時ロシアの租借地だった旅順やウラジオストックに逃げ込まれ、日本海を走りまわ って通商破壊に出てこられる。となると、大陸に派遣している陸軍が干し上げられてしま しいましたが、 さきに世界史的に、海軍に戦術なし、と、 アメリカのニューポートの海軍 大学校で海軍戦史を講義していたアルフレッド・・マハンという退役大佐が、海軍戦 略・戦術を考えていたことは、よく知られていました。眞之が大尉時代にワシントン公使 館に駐在したとき、マハンを二度たずねています。眞之が望んでいたものが得られたとは 世思えません。 十 一一右は十九世紀末で、二十世紀になってから眞之は瀬戸内海の能島水軍の古い兵術書を読 本みます。小笠原という旧大名の蔵にあった古書だといいます 「ずいぶん古い本を読んでいるな」 173
に出る。騎兵の理想としては、日露騎兵同士の大会戦をしたかったのでしようが、それで カオよ は槍を伸ばす手の長いコサック騎兵には敵わず、日本騎兵はかならず負ける。 そこで彼が考え抜いた対コサック戦術は、陸軍省に頼んで機関銃を装備し、コサック兵 が大襲撃してくると、騎兵でありながらみんな馬から下りて、馬は後方にやり、インディ アンの襲撃を防ぐ幌馬車隊のようにして機関銃でなんとか凌いでいくというものでした。 負けなかった。 それしか手はなく、しかも辛うじて防ぎ得た程度でしたが、 この「負けない」という秋山好古の発想の全ては合理主義に基づいていて、そこには太 平洋戦争で蔓延した肉弾攻撃といった精神主義というのは徴塵もありませんでした。戦争 とは兵器と兵器の戦いであるという平凡な原則を、海軍も陸軍もみな知っていたわけです。 ただ旅順に配置された第三軍だけは、兵器の戦いだという考え方が少し薄かったようです。 しかし戦局末期において、三浦半島の観音崎に何門も据えてあった、東京湾防衛のため の海岸砲を旅順に持っていく。絶対移動不可能といわれた大砲を、児玉源太郎がむりやり 二〇三高地の麓までひきずって行って、砲撃した。これで旅順は落ちたのです。児玉源太 郎は歩兵科出身であり、大砲の専門家でもないがゆえに、素人の合理性から決断できたの でしょ , つ。 日露戦争を戦った陸海軍人は、明治人が持つ一種の合理主義と健全さと、日本風にアレ 176
るいわば数学のおたくのような少年が、仮の一点を設けて、ここで一つ数式をつくってい けば全部解答ができるというような感覚で、産油国にコンバスの心を置いて円を描いたと いうことではないでしようか。こんな国家行動は、世界史にあったでしようか。 そのために陸軍の兵力は分散され、海軍にいたっては、艦隊決戦思想から、輸送護衛の 兵力というぐあいに役害がかわりました。結果として、諸々の戦闘に伴う海戦はありまし 、連合艦隊の本質は輸送艦隊に過ぎませんでした。 二十世紀は仮想敵国をつくって自分の軍備を整える時代でしたから、日本陸軍はソ連、 海軍はアメリカを仮想敵国としていました。日本海軍の図上演習ではアメリカ連合艦隊は フィリピン沖からやってくることになっており、日本の連合艦隊は対馬沖で待ち伏せるこ とになっています。 まったく日本海海戦時のときにバルチック艦隊がやってきたコースと同じでした。勝者 というものは、自分がかって勝った経験しか思考の基礎にしない、だから間違うという教 世訓がここにもありました。結局、海軍大学校では、日本海海戦という型だけを一生懸命研 究していて、しかしながら肝心の戦争が蓋を開けたら、石油が出るポルネオ、スマトラに の 本心を置いてのとりとめもなくひろい戦場ができ上がっている。要は、数学の答案としては 立派でも、軍事的リアリズムは全くなかったのです。 7
しかし、一方においては、山県有朋を中心に、西欧ふうの徴兵制の施行がすすめられて いた。山県は、庶民から徴兵された兵を、国軍の中心にするつもりだった。 となれば、近衛は浮きあがる。当然、かれらと同階層の満天下三百万の士族も反対する。 このえととく 近衛の兵営は、不満で充満した。その近衛の総指揮官 ( 近衛都督 ) の職に、徴兵制をす すめている長州出身の山県有朋中将が就いたことで、爆発寸前になった。 山県は自分の不評判を感じ、すぐ近衛都督をやめ、その職を薩摩の西郷隆盛にゆずった。 西郷は、陸軍一兀帥 ( 翌年陸軍大将 ) の位を持ちつつ、近衛を統轄した。 しんちよく この間、徴兵制が進捗し、全国にいくつかの鎮台 ( のちの師団 ) が設けられた。薩摩出 身の近衛少将桐野利秋などは、 えき 「かれ ( 山県 ) 土百姓らを集めて人形を作る、果して何の益あらんや」 と、 いったりした。 翌明治六年、中将山県有朋は、陸軍卿 ( のちの陸軍大臣 ) になり、いよいよ徴兵と鎮台の 整備に専念した。 この時期、西郷は政府に諸事不満で、大将になった明治六年の十月、にわかに辞表を出 102
連合艦隊の本質は輸送艦隊 さきに、第一次大戦によって陸海軍が石油で動くようになってから、日本の陸海軍その ものが半ば以上虚構になった、という意味のことを言いました。 むろん、そのことは、陸軍も海軍も、だまっていた。やがて昭和になって、陸軍が、石 油もないのに旺盛な対外行動をおこす。それが累積して歴代内閣が処理できないほどの大 事態になり、事態だけが独り走りする。ついにアメリカをひき出してしまう。 それで、日本は戦争構想を樹てる。何よりも石油です。勝っための作戦よりも、まず一 路走って石油の産地をおさえる。古今、こういう戦争があったでしようか。 日本の海軍は、全艦隊が数カ月走るだけで備蓄がなくなるという程度しか石油をもって いません。軍艦は動かなければ、単に鉄のかたまりです。 南方進出作戦ーー大東亜戦争の作戦構想ーー・の真の目的は、戦争継続のために不可欠な石 油を得るためでした。蘭領インドネシアのポルネオやスマトラなどの油田をおさえること にありました。 しん その油田地帯にコンパスの心をすえて円をえがけば、広大な作戦圏になる。たとえばフ 184
85 統帥権 ( 四 ) ろうだん 重臣たちを殺し、統帥権をふりかざしてついに国家を壟断した。これは訓戒の公然たる無 ↑といっていし なお、明治二十二年 ( 一八八九年 ) に発布された憲法にも、天皇が陸海軍を統帥すると いう一条がもうけられた。これはたいていの国の元首の権能とかわらない。 ともかくも、『軍人勅諭』および憲法による日本陸軍のあり方や機能は、明治時代いっ ばいは世界史の常識からみても、妥当に作動した。このことは、元老の山県有朋や伊藤博 文が健在だったということと無縁ではない。 すくなくとも、明治二十年以後、明治時代いつばいは、統帥権が他の国家機能 ( 政府や 議会 ) から超越するなどという魔術的解釈は存在しなかった。 統帥権には、 あく 「帷幄上奏」 という特権が統帥機関 ( 陸軍は参謀本部、海軍は軍令部 ) にあたえられていた。 帷幄とは、『韓非子』にも出てくる古い漢語で、野戦用のテントのことをいう。統帥に 関する作戦上の秘密は、陸軍の場合、参謀総長が、首相などを経ず、じかに天皇に上奏す 109
なぜリアリズムを失ったか 人間というのははかないもので、自分の経験したところからべつな方向へ飛躍するとい うのは、困難なようですね。とくに国家という集団になるとそうです。 軍事にかぎっていうと、日本は第一次大戦を実戦として経ていなかったことが、二十世 紀の世界の軍事思想から遅れたということになるでしよう。欧州の戦場には、日本からは ほと 観戦武官で行った人がいる程度で、日本陸軍は、第一次大戦を経ない装備のまま んど日露戦争のときの実態のまま , ー - ー太平洋戦争へと突入する。太平洋戦争で使われた小 銃は、日露戦争末期に使用されたのと同じ三八式歩兵銃でした。 第一次大戦の特徴をあげれば、火力の増大と、くりかえしいうように兵員物資の輸送が ガソリンで行われるようになったことです。一般に海軍の軍艦は石炭から重油で航行する ようになって速力を増し、航続距離も飛躍的に延びた。陸軍も、徒歩の移動、馬力から、 トラックによる輸送になって、移動と集結が早くなった。さらに戦車が出現し、陸戦の主 役になる。こうした軍事技術的変革に日本は対応できませんでした。むろんフランスのル ノーから戦車の試作品を買って研究をし、日本式の戦車をつくりだし、二度ばかりモデル 8
八三二年、ジャーディン・マジソン商会を興した。主として清国にインド製のアヘンを 密輸 ( 清国では禁制品としていた ) することで巨利を得た。 ウィリアム・ジャーディンは、利益追求者としては人間ばなれしていた。あるとき清国 の役所に請願にゆき、清国官憲によって棒で後頭部をなぐられながらも、直立しつつ願書 ラオスー を読みあげていたという。清国人はこの男にあきれ、「老鼠」というあだなでよんだ。 カントン こもん きんさ 一八三八年、広東にくだった欽差大臣林則徐は、翌年、押収アヘンを虎門海岸で焼きす てた。曲折のすえ、英国は報復のため軍艦十六隻、兵員輸送船二十七隻、陸軍約四千を送 りこんできた。 英軍は連戦連勝した。 華南ばかりか、華北の天津をおさえ、北京と交渉し、賠償金をとり、香港を割譲させた。 武力が、おそろしいばかりの利益を英国にもたらしたのである。 あ 英軍は倦くことを知らず、華中の浙江をおさえ、長江流域に進出し、上海を占領したあ 一八四二年のことである。 と、五港の開放と再度の賠償金を要求し、かちとった。 翌々年の一八四四年、清国の意外な弱体ぶりをみた米と仏が、このどさくさにつけ入っ て、英国と同様の待遇 ( 片務的な最恵国待遇など ) を清国に強制し、成功した。中国が半植 民地化されてゆくのはこのときからはじまる。 テンシン ホンコン 4 ・
しちょう チェンジをしました。またノモンハンのときも、一部輜重は馬からトラックになってもい ました。ノモンハンのときの自動車部隊は、気の毒なことに、戦場からの死体輸送が主た る実務になっていましたが、いずれも微々たるものでした。 どうして大正のある時期に、日本はもう戦争できない、専守防衛の国である、というこ とがいえなかったのでしよう。言えば敵が攻めてくるというような時代でもなかったし、 たとえべつな国際環境にあっても、敵はおいそれと攻めてくるものではありません。軍人 の威厳にかかわることでもない。そのような勇気ある態度こそ、窺う者を怖れさせるので すから。 陸軍省や海軍省の省益がそれをさせなかったのでしような。官吏としての職業的利害と 職業的面子が、しだいに自分の足もとから現実感覚をうしなわせ、精神主義に陥って行っ たのでしよう。物事が合理的に考えられなくなる。この傾向は、昭和四年、昭和恐慌のパ ニック以降にさらに顕著になり、それが太平洋戦争の敗戦まで続いていきます。 紀 世 昭和四年 ( 一九二九年 ) のニューヨークの株式恐慌にはじまる昭和恐慌は、世界も日本 一一も大変でした。日本では東北農民が、不作に続く不作で娘を売るという話が昭和の青年将 本校の救国思想を刺激したと言われていますけれども、東京に出稼ぎに来た人が、もう職が なくて帰るのに、遠い故郷まで鉄道線路を歩いて帰るという人が多かったというほどの不 189