です。蒙古兵たちのやってくることがわかっていたのなら、どうして彼は私たちを起こして みんなで一緒に逃げなかったのか、どうして自分一人だけで逃亡したのか、とあなたは疑間 に思われるかもしれない。しかしそんなことをしたところで、私たちにとても勝ち目はあり ませんでした。彼らは私たちがそこにいることを知っていました。そこは彼らの土地であり、 人数も装備も彼らの方が上でした。彼らは私たちを簡単に見つけだし、皆殺しにし、書類を 手に人れていたでしよう。つまりあの状況では、彼が一人で逃げることが必要だったのです。 本田伍長の行為は戦場では明らかに敵前逃亡になります。しかしこのような特殊任務におい ぎては、臨機応変ということがいちばん大事なのです。 彼はロシア人たちがやってきて山本の皮をそっくり剥いでしまうのを見ていました。そし 棒て蒙古兵たちが私を連れていくのを見ていました。しかし彼は馬を失ってしまっていたので、 部私のあとをすぐに追うことができませんでした。本田伍長は歩いてやってくるしかありませ 第んでした。彼は土に埋めた装備を掘りだし、そこに書類を埋めました。それから彼は私たち のあとを追いました。とは言っても、彼が井戸にたどり着くのは大変なことでした。何故な ら、私たちがどちらの方向に向かったのかさえ彼にはわからなかったからです」 「どうして本田さんにはその井戸が発見できたのですか ? 」と僕は訊いてみた。 「それは私にもわかりません。彼もそれについては多くを語りませんでした。しかし彼には ただそれがわかったのだと思います。彼は私を見つけると、服を裂いて長いロープを作り、 ほとんど意識を失っていた私を苦労して穴からひつばりあげました。それから彼はどこかか 305
彼らは羊とともに暮らし、羊とともに生きる。彼らは非常に上手に羊の皮を剥ぐ。そしてそ の皮でテントを作り、服を作るのだ。君は彼らが羊の皮を剥ぐところをみたことがあるだろ 『殺すんなら早く殺せばいいだろう』と山本は言いました。 ロシア人は手のひらを合わせてゆっくりとさすりながら、うなずきました。『大丈夫、ち ゃんと殺す。心配することはない。心配することは、何もない。少し時間はかかるが、ちゃ あわ んと死ぬから案ずることはない。慌てることはない。ここは見渡すかぎり何もない荒野だ。 時間ならたつぶりとある。それに、私にもいろいろと話したいことはあるんだ。さてその、 皮を剥ぐ作業のことだが、どの集団にも皮を剥ぐ専門家のような人間がひとりはいる。プロ 棒フェッショナルだ。彼らは本当にうまく皮を剥ぐ。これはもう奇跡的と言ってもいいくらい 部のものだ。芸術品だ。本当にあっというまに剥いでしまうんだ。生きたまま皮を剥がれても、 第剥がれていることに気がっかないんじゃないかと思うくらい素早く剥いでしまうんだ。しか しーー』と彼は言って胸のポケットからまた煙草人れを取り出し、それを左手に持って、右 手の指先でとんとんと叩きました。『ーーーもちろん気がっかないわけはない。生きたまま皮 を剥がれると、剥がれる方はものすごく痛い。想像もできないくらいに痛い。そして死ぬの に、ものすごく時間がかかる。出血多量で死ぬわけだが、これはなにしろ時間がかかる』 彼は指をばちんと鳴らしました。すると彼と飛行機で一緒にやってきた蒙古人の将校が前 に出ました。彼はコートの。ホケットの中から、鞘に人ったナイフを取り出しました。それは、 287
目にあわされるのか、私には見当もっきませんでした。私にわかっていることは、私という 人間が彼らにとっては何の価値もない余計な存在であるという事実だけでした。私はあのロ シア人の将校の言ったことを頭の中で何度も繰り返してみました。彼は私を殺さないと言い ました。殺しはしないーーしかし生き延びるチャンスはほとんどないだろう、と言ったので す。それが具体的にどのようなことを意味するのか、私にはわかりませんでした。彼の言っ ばくぜん たことはあまりにも漠然としていました。あるいはそれは、何かおぞましい趣向を盛り込ん だゲームのようなものに私を使うということなのかもしれません。あっさりと殺してしまう ぎのでなく、ゆっくりとその趣向を楽しもうという魂胆かもしれません。 しかしそうはいっても、自分がそこであっさり殺されてしまわなかったことに、とりわけ あんど 棒山本と同じように生きたまま皮を剥がれたりしなかったことに、私は安堵の息をつきました。 部こうなった以上、殺されるのは仕方ないとしても、あんなひどい死に方だけはごめんです。 第それになにはともあれ、少なくとも私はまだこうして生きて、呼吸をしているのです。そし てロシア人の将校の言ったことをそのまま信じるなら、私はすぐには殺されないのです。死 ぬまでに時間の余裕があるということは、それだけ生き延びる可能性もあるということです。 それがどれほど徴小な可能性であるにせよ、私はそれにすがりつくしかないのです。 ごちょう それから本田伍長の言葉がふと私の脳裏によみがえってきました。私が中国大陸で死ぬこ とはないというあの奇妙な予言のことです。私は馬の鞍に縛りつけられて、裸の背中を砂漠 の太陽にじりじりと焼かれながら、彼のロにした一一一口葉のひとつひとつを何度も反芻しました。 293 はんすう
うに、山本の皮を剥いでいきました。私はそれを直視することができませんでした。私は目 だいしり を閉じました。私が目を閉じると、蒙古人の兵隊は銃の台尻で私を殴りました。私が目を開 けるまで、彼は私を殴りました。しかし目を開けても、目を閉じても、どちらにしても彼の 声は聞こえました。彼は初めのうちはじっと我慢強く耐えていました。しかし途中からは悲 鳴をあげはじめました。それはこの世のものとは思えないような悲鳴でした。男はまず山本 の右の肩にナイフですっと筋を人れました。そして上の方から右腕の皮を剥いでいきました。 いつく 彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかに、ロ ぎシア人の将校が言ったように、それは芸術品と言ってもいいような腕前でした。もし悲鳴が さ 聞こえなかったなら、そこには痛みなんてないんじゃないかとさえ思えたことでしよう。し ・刀 ものすご 棒かしその悲鳴は、それに付随する痛みの物妻さを語っていました。 部やがて右腕はすっかり皮を剥がれ、一枚の薄いシートのようになりました。皮剥ぎ人はそ 第れを傍らにいた兵隊に手渡しました。兵隊はそれを指でつまんで広げ、みんなに見せてまわ りました。その皮からはまだぼたぼたと血が滴っていました。皮剥ぎの将校はそれから左腕 に移りました。同じことが繰り返されました。彼は両方の脚の皮を剥ぎ、性器と睾丸を切り 取り、耳を削ぎ落としました。それから頭の皮を剥ぎ、顔を剥ぎ、やがて全部剥いでしまい ました。山本は失神し、それからまた意識を取り戻し、また失神しました。失神すると声が や 止み、意識が戻ると悲鳴が続きました。しかしその声もだんだん弱くなり、ついには消えて ちょうか しまいました。ロシア人の将校はそのあいだずっと長靴の踵で、地面に意味のない図形を描 289 かたわ したた こうがん
顔は髭だらけで、耳あてのついた帽子をかぶっていました。男は遊牧民のような汚い服を着 ていましたが、職業軍人であることは身のこなしですぐにわかりました。 男は馬から下りると、山本に向かって話しかけました。それはモンゴル語であったと思い ます。私はロシア語も中国語もある程度は理解できましたが、彼の言葉はどちらでもありま せんでした。だからまず間違いなくモンゴル語であったと思います。山本も男に対してモン ゴル語で話しかけました。それで私はこの男はやはり情報部の将校なのだという確信を持ち ました。 『間宮少尉、私はこの男と一緒に出かける』と山本は言いました。『どれくらい時間がかか るかはわからんが、ここに待機していて欲しい。言うまでもないことだとは思うが、歩哨は 棒常に立てるように。三十六時間たっても戻らなかったら、そのよしを司令部に報告してもら 部いたい。誰か一人を渡河させて満軍の監視所に送れ』。わかりました、と私は答えました。 第山本は馬に乗り、モンゴル人と二人で西に向かって走り去りました。 私たちは三人で野営の準備をし、簡単なタ飯を食べました。飯を炊くことも、焚き火をす しゃへいふつ ることもできませんでした。低い砂丘以外、見渡すかぎり遮蔽物ひとつない壙野ですから、 煙をだせばあっというまに敵に捕捉されてしまいます。私たちは砂丘の陰に低くテントを張 かんづめ り、隠れるようにして乾。ハンを齧り、冷たい肉の缶詰を食べました。太陽が地平線に落ちる やみ と、たちまちにして闇があたりを覆い、空には数え切れぬほどの星が輝きました。ハルハ河 の流れの轟々という音に混じって、どこかで狼の鳴く声が聞こえました。私たちは砂の上に 259 ごうごう おお こうや
のんき 代だったのです。しかし新京で呑気な将校暮らしを送っていると、正直に申し上げまして、 戦争なんぞいったいどこでやっているんだという感じがしたものです。我々は毎夜のように ばかばなし 酒を飲み、みんなで馬鹿話をし、白系ロシア娘のいるカフェに行って遊んだりもしました。 しかしある日、昭和一三年四月の終わり頃でしたが、私は参謀本部の上官に呼ばれ、山本 くちひげ という平服の男に引き合わされました。髪が短く、ロ髭をはやした男でした。背はそれほど 高くありません。年齢は三十代の半ばくらいだったと思います。首筋には刃物で切られたよ うな傷がついていました。上官はこう言いました。山本さんは民間人で、軍に依頼されて満 ル 州国内に住むモンゴル人の生活・風俗を調査しておられる。そして今回はホロン。ハイル草原 もうこ の外蒙古との国境地帯の調査をなさることになっている。軍はその調査に数名の警護の兵を 同行させる。貴官もその一員として役にあたってもらうことになる。でも私はその話を信じ しませんでした。山本という男は、平服こそ着ていたもののどうみても職業軍人だったからで す。目つきや喋り方や姿勢を見ればそれはわかります。高級将校、それもおそらく情報関係 だろうと私は踏みました。おそらく彼は任務の性格上、軍人であることを明らかにできない のです。そこには何かしら不吉な予感のようなものが漂っていました。 山本に同行する兵の数は私を含めて全部で三人でした。警護の役にしてはあまりにも少な すぎますが、兵の数を多くすると、そのぶん国境付近に展開する外蒙古の兵隊の注意を引く ことになります。少数精鋭と言いたいところですが、実際にはそうではありませんでした。 唯一の将校である私からして、実戦経験がまるでなかったからです。戦力として計算できる 250 ゆいいっ
ら浜野はそう言いました。それから真顔になりました。『しかし少尉殿、もしそうだとした ら、こいつは本当に剣呑ですぜ。ひょっとしたら戦争になりかねませんからね』 私はうなずきました。外蒙古は独立国とはいえ、完全にソ連に首ねっこを抑えられた衛星 国家のようなものです。その点では日本軍に実権を握られた満州国とまあどっこいどっこい です。しかしその中で反ソ連派の暗躍があることはよく知られていました。それまでにも、 反ソ連派は満州国の日本軍と内通して何度か反乱を起こしていました。反乱分子の中核はソ 連軍人の横暴に反感を抱く蒙古人軍人と、強引な農業集中化に反抗する地主階級と、十万を ル 越すラマ教の僧侶たちでした。そのような反ソ連派が外部勢力として頼ることのできたのは、 ロ満州に駐在する日本軍だけでした。また彼らには、ロシア人よりは、同じアジア人である日 本人の方に親しみが持てたようでした。前年の昭和一二年には首都のウラン 、ートルで大規 し模な反乱計画が露顕し、大粛清が行われました。何千という数の軍人やラマ教の僧侶が、日 ね 本軍と内通した反革命分子として大量処刑されましたが、それでもまだ反ソ連感情は消えや らず様々なところでくすぶっておりました。ですから日本の情報将校がハルハ河を越えて、 こっそりと反ソ連派の外蒙軍の将校と連絡を取ったとしても決して不思議なことではありま せんでした。外蒙軍もそれを警戒して頻繁に警備隊を巡回させ、満州国との国境線から十キ ロないし二十キロの地域を立ち人り禁止にしておりましたが、なにしろ広い国境地帯ですか ら、監視の目が行き届くわけはありません。 しかしもし仮に彼らの反乱が成功したとしても、ソ連軍が即時介人してその反革命を圧殺 そうりよ ひんばん
けんしゅう 大きな自動拳銃を取り出しました。彼は安全装置を外し、かしやっという音を立てて弾丸を 薬室に送り込みました。そして私の頭に銃口を向けました。 しかし彼は長いあいだ引き金を引きませんでした。彼は銃身をゆっくりと下におろしまし くちびる た。それから彼は左手を上げ、私の背後の井戸を指さしました。私は乾いた唇を舌で舐めな がら、じっと彼の拳銃を見ておりました。要するにこういうことなのです。私にはふたつに ひとつの運命を選ぶことができます。まずひとつは、今すぐ彼に撃たれることです。私はあ っさりと死んでしまいます。もうひとつは自分から井戸の中に飛び込むことです。深い井戸 ぎですから、打ちどころが悪ければ死んでしまうかもしれません。でなければ、私はその暗い 穴の底でじわじわと死んでいくことになります。私にはやっと理解できました。これがあの 棒ロシア人の言っていたチャンスということなのです。それから下士官は今は彼のものになっ 部た山本の腕時計を示し、それから指を五本上げました。考える時間を五秒与えるということ 第です。私は彼が三まで数えたときに、壁に脚をかけ、思い切って井戸の中に飛び込みました。 それ以外に私には選ぶべき道もなかったのです。私は井戸の壁につかまって、それをつたっ て下におりようと思ったのですが、実際にはそんな余裕は私にはありませんでした。私の手 は壁をみそこね、そのまま下に転げ落ちてしまいました。 それは深い井戸でした。私の体が地面に当たるまでに随分長い時間がかかったような気が します。もちろん実際にはそれはせいぜい数秒のことでしたし、とても『長い時間』と呼べ くらやみ るようなものではありません。しかし私はその暗闇を落下していくあいだに実にいろんなこ
いていました。蒙古人の兵隊たちは一様に押し黙って、じっとその作業を眺めていました。 けんお キ」ようがく 彼らはみんな無表情でした。そこには嫌悪の色もなければ、感動も驚愕もうかがえませんで した。彼らはまるで、私たちが散歩のついでに何かの工事現場を見物しているときのような 顔つきで、山本の皮が一枚一枚剥がれていくのを眺めておりました。 私はそのあいだ何度も吐きました。最後にはこれ以上吐くものもなくなってしまいました が、私はそれでもまだ吐きつづけました。熊のような蒙古人の将校は最後に、すつぼりとき れいに剥いだ山本の胴体の皮を広げました。そこには乳首さえついていました。あんなに不 気味なものを、私はあとにも先にも見たことがありません。誰かがそれを手に取って、シー ツでも乾かすみたいに乾かしました。あとには、皮をすっかりはぎ取られ、赤い血だらけの 肉のかたまりになってしまった山本の死体が、ごろんと転がっているだけでした。いちばん じいたましいのはその顔でした。赤い肉の中に白い大きな眼球がきっと見開かれるように収ま ね っていました。歯が剥き出しになったロは何かを叫ぶように大きく開いていました。鼻を削 がれたあとには、小さな穴が残っているだけでした。地面はまさに血の海でした。 ロシア人の将校は地面に唾を吐き、私の顔を見ました。そしてポケットからハンカチを取 り出してロもとを拭きました。『どうやらあの男は本当に知らなかったようだな』と彼は言 いました。そしてハンカチをまた。ホケットに仕舞いました。彼の声は前よりも幾分か乾いて しやペ いました。『知ってたら絶対に喋ったはずだ。気の毒なことをしたな。しかし彼はなんとい ってもプロなんだし、どうせいっかはろくでもない死に方をするんだ。仕方あるまい。まあ
ね。このへんにいるどこかのおじさんの髪は、実はインドネシアの女の子の髪だったりする のよ」 マンは反射的に車内を見回してしまった。 そう言われると、僕とその〈竹〉のサラリー 僕らは新橋にあるそのかつら会社に寄って、紙袋に人った調査用紙と鉛筆を受け取った。 会社は業界で二番の売上ということだったが、顧客が気楽に人ってこられるように会社の人 9 ロはひどくひっそりとしていて、表には看板ひとつ出ていなかった。紙袋にも用紙にも、会 ぎ社の名前は一切人っていない。僕は名前と住所と学歴と年齢をアルバイトの登録用紙に記人 して、調査課に提出した。そこはおそろしく静かな職場だった。電話に向かって怒鳴ってい たた 棒る人もいなければ、シャツの袖をまくってコンピューターのキーポードを夢中になって叩い 部ている人もいなかった。みんな清潔な服を着て、それぞれの物静かな仕事に携わっていた。 第かつら会社には、これは当然なことなのだろうが、禿げている人の姿はなかった。そのうち の何人かはあるいは自社のかつらをつけているのかもしれない。でも誰がかつらをつけてい るのかつけていないのか、見分けることはできない。それは僕がこれまでに見た中では、い ふんいき ちばん奇妙な雰囲気のある会社だった。 僕らはそこから地下鉄に乗って銀座通りまで行った。まだ少し時間があったし、腹もへつ クイーンに入ってハン。ハーガーを食べた。 ていたので、僕らはディリー・ 「ねえ、ねじまき鳥さん」と笠原メイは言った。「あなたがもし禿げたら、かつらをつける 207 そで