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検索対象: ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)
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1. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

新しい種類の経済学」として絶賛し、批評を書いたが、それらの批評の言わんとしているこ とすら僕にはぜんぜん理解できなかった。しかしやがてマス・メディアは少しずつ彼を新し 彼のその本を解釈する本まで何冊か現れた。彼が本 い時代のヒーローとして紹介し始めた。 , の中で使った「性的経済と排泄的経済」という言葉はその年の流行語にまでなった。雑誌や 新聞が、彼のことを新しい時代のインタレクチュアルの一人として取り上げ、特集した。綿 谷ノボルの書いた経済学書の内容が彼らに理解されているとは、僕にはとても思えなかった。 6 彼らが一度でもその本を開いたことがあるかどうかすら疑問だった。でも彼らにはそんなこ ぎとはどうでもよかったのだ。彼らにとって綿谷ノボルは若くて独身であり、わけのわからな めいせき い難解な本を書けるくらい頭脳明晰だった。 棒とにかくその本を出版したことによって、綿谷ノボルは世間に名を知られるようになった。 部彼は様々な雑誌に評論のようなものを書き、テレビに出演して経済や政治問題についてのコ 第メンテーターの役をつとめるようにもなった。それからやがて、討論番組のレギュラー出演 者にまでなった。綿谷ノボルのまわりの人間は ( 僕もクミコも含めてということだが ) 彼が そんな派手な仕事に向くとはまったく考えていなかった。彼はどちらかと言えば神経質で、 専門的なことにしか興味のない学者タイプの人間だと考えられていたのだ。しかしいったん マスコミの世界に人り込むと、彼は自分に与えられた役割を舌を巻くくらい見事にこなして いった。カメラを向けられても、少しもひるんだりはしなかった。現実の世界に対している ときよりは、カメラに向かっているときの方がむしろリラックスしているようにさえ思える はいせつ

2. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

「心配って、何が ? 」 「わかんないわ。何かよ」と彼女は言った。「でも疲れたわ。これ以上何も考えられない。 今日はもう寝ましようよ」 僕は洗面所に行って歯を磨きながら、自分の顔を眺めた。僕は仕事をやめてから三カ月、 ほとんど外の世界には出ていなかった。近所の商店と区営プールとこの家とのあいだをただ 行ったり来たりしているだけだった。銀座の和光の前と品川のホテルを別にすれば、僕が行 った家から最も遠い地点は駅前のクリーニング店だった。僕はそのあいだほとんど誰とも会 ル クっていなかった。三カ月のあいだに僕が「会った . と言える相手は、妻をべつにすれば、加 納マルタとクレタの姉妹と、笠原メイだけだった。それは本当に狭い世界だった。そしてほ とんど歩みを止めたような世界だった。しかし僕の含まれている世界がそのように狭くなれ じばなるほど、それが静止したものになればなるほど、その世界は奇妙なものごとや奇妙な あふ ね 人々で満ちて溢れてくるように僕には思えた。あたかも僕が歩を止めるのを、彼らが物陰に 隠れてじっと待ち受けていたかのように。そしてねじまき鳥が庭にやってきてそのねじを巻 くたびに、世界はますます混迷の度合いを深めていくのだ。 僕はロをゆすいで、それからまだしばらく自分の顔を見ていた。 イメージが持てないのだ、と僕は自分に向かって言った。僕は一二十で、立ち止まって、そ れつきりイメージが持てないのだ。 洗面所から出て寝室に行ったとき、クミコは既に眠っていた。 232 みが なが

3. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

朝目を覚ますと、私はべッドに横になったまま、自分の体が痛みと呼べるほどの痛みを感 じていないことを確認しました。目を開け、ゆっくりと意識をまとめ、それから頭から足の さきまで順番に、自分の肉体の感覚を確認していきました。どこにも痛みはありせんでし た。本当に痛みが存在しないのか、それとも痛みそのものは存在しているのだけれど、自分 がそれを感じないでいるのか、私には判断できませんでした。しかしいずれにせよ、痛みは ありませんでした。痛みだけではなく、そこにはどのような種類の感覚もないのです。それ 8 から私はべッドを出て、洗面所に行って歯を磨きました。。ハジャマを脱いで裸になり、熱い ぎシャワーを浴びました。体がひどく軽く感じられました。それはひどくふわふわとして、自 分の体のようには感じられませんでした。まるで自分の魂が、自分のものではない肉体に寄 棒生しているような、そんな気分でした。私は鏡に自分の体を映してみました。でもそこに映 部っているものはひどく遠くにあるように私には感じられました。 第痛みのない生活ーーそれは私が長いあいだ夢見てきたものでした。しかしそれが実際に実 現してみると、私はその新しい無痛の生活の中にうまく自分の居場所をみつけることができ ませんでした。そこにははっきりとしたずれのようなものがありました。そのことは私を混 乱させました。私は自分という人間がこの世界のどこにもつなぎ止められていないように感 じました。これまで私は世界というものをずっと激しく憎んでいました。その不公平さと不 公正さとを私は憎みつづけてきました。しかし少なくとも、そこにあっては、私は私であり、 世界は世界でした。しかし今では世界は世界でさえありませんでした。私は私でさえありま 185 みが

4. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

喜んでマス・メディアを受け人れた。 でも僕は彼の文章を読むのも、彼の姿をテレビで見るのも嫌だった。彼にはたしかに才気 があり、才能があった。それは僕も認める。彼は短い言葉で、短い時間のあいだに相手を有 効に叩きのめすことができた。風向きを瞬時にして見定める動物的な勘も持っていた。しか し注意して彼の意見を聞き、書いたものを読むと、そこには一貫性というものが欠けている ことがよくわかった。彼は深い信念に裏づけされた世界観というものを持たなかった。それ は一面的な思考システムを複合的に組み合わせて作り上げられた世界だった。彼はその組み ぎ合わせを必要に応じていかようにも瞬時に組み換えることができた。それは巧妙な思想的順 列組み合わせだった。芸術的といってもいいくらいだった。でも僕にいわせればそんなもの 棒はただのゲームだった。もし彼の意見に一貫性のようなものがあるとすれば、それは「彼の 部意見には常に一貫性がない」という一貫性だけだったし、もし彼に世界観というものがある 第とすれば、それは「自分には世界観の持ち合わせがない」という世界観だった。しかしそれ らの欠落は、逆に言えば彼の知的な資産でさえあった。一貫性や確固とした世界観といった ようなものは、時間を細かく区切られたマス・メディアでの知的機動戦には不必要なもので あり、そのような重荷を背負わずにすんだことは、彼にとっての大きなメリットになった。 彼には何も守るべきものがなかった。だから純粋な戦闘行為に全神経を集中することがで きた。彼はただ攻めればよかったのだ。ただ相手を叩きのめせばよかったのだ。綿谷ノボル はそういう意味では知的なカメレオンだった。相手の色によって、自分の色を変え、その場 141

5. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

考えたり、何かを望んだりすることを一切やめてしまうのだ。状況は彼女の判断能力を遥か に越えていた。クミコは目を閉じ、耳を塞ぎ、思考を厚止した。それから何カ月かのあいだ の記憶は彼女にはほとんどない。そのあいだに何が起こったのか、何ひとっ覚えていないと いう。しかしとにかく気がついたときには、クミコは新しい家庭の中にいた。それは本来彼 女がいるべきはずの家庭だった。そこには両親がいて、兄と姉がいた。しかしそれは彼女の 家庭ではなかった。それはただのしい環境だった。 どのような事情で自分が祖母から引き離されて、そこに連れてこられたのか、クミコには ぎわからなかったけれど、新潟の家での生活にはもう戻らないということだけは本能的に理解 できた。しかしその新しい場所は、六歳のクミコにとってはほとんど理解を越えた世界だっ 棒た。クミコがそれまでにいた世界と、その世界とでは何もかも違った様相を呈していたし、 部似たように見えるものも、まったく違う動き方をしていた。彼女にはその世界を成立させて 第いる基本的な価値観や原理のようなものを把握することができなかった。新しい家族との会 話に加わることさえできなかった。 クミコはそんな新しい環境の中で、無ロで、気むずかしい少女になった。彼女は誰を信用 し、誰に無条件に寄りかかればいいのか、見極めることができなかった。たまに母親や父親 の膝に抱かれても、心はやすまらなかった。彼らの体が発する匂いは彼女には覚えのないも のだったからだ。その匂いは彼女をひどく落ちつかない気持ちにさせた。ときにはその匂い を憎みさえした。家族の中で彼女が辛うじて心を開くことができるのは、姉だけだった。両 131 ひぎ ふさ はあく にお はる

6. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

るのです。それはどこか遠くの世界で女が嘆き泣いている声のような音でした。そのどこか 遠くの世界とここの世界とが、細い穴でつながっていて、その声がこちらに聞こえてくるの です。しかしそんな音が聞こえてくるのも、ほんのときたまのことでした。私は深い沈黙と 深い暗闇の中にひとりで取り残されていました。 私は痛みをこらえながら、まわりの地面をそっと手で探ってみました。井戸の底は平らで した。それほど広くはありません。直径にして、一メートル六十か七十センチというところ です。手で地面を撫でているうちに、私の手は突然硬く尖ったものに触れました。私は驚い ぎて反射的にさっと手を引きましたが、もう一度ゆっくりと用心深く、そこにある何かに手を 伸ばしてみました。そして私の指は再びその尖ったものに触れました。最初のうち、私はそ 棒れを木の枝かなにかだと思いました。しかしやがてそれが骨であることがわかりました。人 部間の骨ではありません。もっと小さな動物の骨です。それは長い時を経たせいか、あるいは 第私が落下したときに下敷きにしたせいか、ばらばらになっていました。その何かの小動物の 骨の他には井戸の底には何もありませんでした。さらさらとした細かい砂があるだけです。 それから私は手のひらで壁を撫でてみました。壁は薄く平らな石を積み重ねて作ってある ようでした。日中は地表はかなり暑くなるのですが、その暑さもこの地下の世界までは届か すき ず、それはまるで氷のようにひやっとしていました。私は壁に手を這わせて、石と石との隙 間をひとつひとっ調べてみました。うまくいけばそれを足場にして地上にあがることもでき るかもしれないと思ったのです。しかしその隙間は、よじ登る足場にするにはあまりにも狭 299

7. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

順して育ちました。他のひとたちには絶対に言ってはいけないよと言いきかせて、『近いうち に近所で火事があるよ』とか、『世田谷の叔母さんの具合が悪くなるよ』とか、そういうこ とをこっそりと教えてくれました。そしてそれらは実際そのとおりになったのです。私はま だ小さな子供でしたから、それが面白くてたまりませんでした。怖いとか気味が悪いなんて 思いもよりませんでした。私は物心ついてからずっと、いつもマルタにくつついて歩いて、 彼女の〈お告げ〉を聞いていました。 マルタのそういう特殊な能力は、成長するにしたがってだんだん強いものになっていきま クした。しかし彼女は自分の中にあるそんな能力をどのように扱い、どのように伸ばしていけ ばいいのかがわかりませんでした。マルタはそのことでずっと脳みつづけました。彼女は誰 に相談することもできませんでした。誰の指示を仰ぐこともできませんでした。その意味で じは、十代の彼女は非常に孤独な人でした。マルタは自分ひとりのカですべてを解決しなくて はならなかったのです。彼女はその答えを全部自分でみつけなくてはならなかったのです。 私たちの家庭の中では、マルタは決して幸せではありませんでした。彼女はそこでは心をひ とときもやすめることができませんでした。そこでは自分の能力を抑え、人目から隠してお かなくてはならなかったからです。それはちょうど、カのある植物を小さな鉢の中で育てて いるようなものでした。それは不自然で、間違ったことだったのです。マルタにわかってい るのは、自分がここを少しでも早く出ていかなくてはならないということだけでした。世界 のどこかに、自分のための正しい世界があり、生き方があるはずだと彼女は考えるようにな はち

8. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

あまりにも細かくばらばらになってしまったせいで、復元することがもはや不可能になって しまった動物の骨を思わせた。 なが 求人広告のページを長い時間じっと眺めていると、僕はいつもある種の麻痺のようなもの を感じることになった。自分が今いったい何を求めているのか、これからどこに行こうとし ているのか、あるいはどこに行くまいとしているのか、そういうことが僕にはますますわか らなくなってしまった。 キイイイイイ、と 例によって、ねじまき鳥がどこかの木の上で鳴いているのが聞こえた。。 ル クそれは鳴いた。僕は新聞を置いて体を起こし、柱にもたれかかって庭を眺めた。すこしあと で鳥はもう一度鳴いた。隣の庭の松の木の上の方で、そのギイイイイイイイという鳴き声が き聞こえた。目をこらしてみたが、鳥の姿を認めることはできなかった。鳴き声だけだ。いっ じものように。とにかくこのようにして世界の一日分のねじが巻かれるのだ。 十時前に雨が降りはじめた。たいした雨ではない。降っているのかいないのかよくわから ない程度のかすかな雨だ。でも目をこらして見ると、たしかに雨が降っていることがわかる。 世界には雨が降っているという状況と、雨が降っていないという状況とがあり、そのふたっ の状況にはどこかで境界線が引かれなくてはならないのだ。僕はしばらくのあいだ、縁側に にら 腰を下ろして、そのどこかにあるはずの境界線をじっと睨んでいた。 それから僕はこのあと昼食の時間まで近所の区営プールに泳ぎに行こうか、それとも路地 に猫を探しに行こうかと迷った。縁側の柱にもたれかかって、庭に降る雨を眺めながらしば 108 まひ

9. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

本田さんが Z の放送を特別に愛していたのか、チャンネルを変えるのがただ面倒だった のか、それとも z しか人らない特殊なテレビだったのか、僕には判断できない。 僕らが行くと、彼は床の間に据えられたテレビに向かって座り、ぜいちくをこたつの上で ばらばらとかきまわしていた。そのあいだは料理番組やら盆栽の手人れの仕方やら定 時ニュースやら政治座談会やらをいささかの中断もなく大音量で放送していた。 「あんたはあるいは法律には向かんかもしれんな」とある日本田さんは僕に向かって言った。 あるいは彼は僕の二十メートルくらい後ろにいる誰かに向かって言ったのかもしれない。 ぎ「そうですか」と僕は言った。 つかさど 「法律というのは、要するにだな、地上界の事象を司るもんだ。陰は陰であり、陽は陽であ 棒るという世界だ。我は我であり、彼は彼であるという世界だ。〈我は我、彼は彼なり、秋の 部暮れ〉。しかしあんたはそこには属しておらん。あんたが属しておるのは、その上かその下 第だ」 「その上と下とではどちらがいいのですか ? 」、僕は純粋な好奇心からそう質問してみた。 「どちらがいいというものでもない」と本田さんは言った。そしてしばらくのあいだ咳きこ たん み、ちり紙の上にべっと痰を吐いた。彼はその自分の痰をひとしきり眺めてから、ちり紙を 丸めてごみ箱に捨てた。「どちらがいいどちらが悪いという種類のものではない。流れに逆 らうことなく、上に行くべきは上に行き、下に行くべきは下に行く。上に行くべきときには、 いちばん高い塔をみつけてそのてつべんに登ればよろしい。下に行くべきときには、いちば

10. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

部ぎるようだったが、顔だち自体は美しいと表現してもいいくらいに整っており、年齢はたぶ ん二十代初めから半ばというところだった。僕はしばらく眺めてからその写真を加納マルタ に返した。彼女は写真を封筒に戻し、それをハンド・ハッグに人れ、ロ金を閉めた。 「妹は私より五つ年下です」と加納マルタは言った。「そして妹は綿谷ノボル様に汚されま した。暴力的に犯されたのです」 やれやれ、と僕は思った。僕はそのまま何も言わずに席を立って帰ってしまいたかった。 でもそうもいかない。僕は上着のポケットからハンカチを出した。そしてロもとを拭いて、 ル せきばら クそれをまた同じポケットに戻した。そして咳払いをした。 「詳しい事情はよくわかりませんが、そのことで妹さんが傷つかれたのだとしたら、僕とし ても本当にお気の毒に思います」と僕は切り出した。「でも御承知おき頂きたいのですが、 じ僕と妻の兄とはとくに個人的に親しいというわけではないんです。ですからもしそのことに ついて何かーーー」 「そのことで岡田様を責めているわけではありません」と加納マルタはきつばりとした口調 で言った。「もし誰かがそのことに関して責められるべきであるとしたら、まず最初に私が 責められなくてはならないでしよう。私の注意が足りなかったのです。本来ならば私が妹を ちゃんと守ってやらなくてはならなかったのです。でも様々な事情があって、私にはそうす ることができませんでした。よろしいですか、岡田様、そういうことは起こりうるのです。 岡田様もよくご存じのように、ここは暴力的で、混乱した世界です。そしてその世界の内側