いくのよ。要するにーーねえ岡田さん、あなたはこの前いっ奥さんとセックスしたか覚えて いる ? それひょっとしてけっこう前のことじゃないかしら。そうね、二週間くらい前じゃ ない ? 」 「悪いけど、もう客が来るから」と僕は言った。 「うん、本当はもっと前なのよね。声の感じでわかるもの。ねえ、三週間ってところか な ? 」 僕は何も言わなかった。 ル ク「まあそれはそれでいいわよ」と女は言った。それはまるで、窓のプラインドにつもったほ ほうき こりを小さな箒でさっさっと払っているような感じの声だった。「それは何といってもあな たと奥さんとのあいだの問題だものね。でも私はあなたの求めるものを何でもあげるわよ。 じそしてあなたはそれに対して何の責任も負わなくていいのよ、岡田さん。角をひとっ曲がる ね とね、そういう場所がちゃんとあるのよ。そこにはあなたの見たこともない世界が広がって いるのよ。あなたには死角があるって言ったでしよう。あなたにはそのことがまだわかって ないのよ」 僕は受話器を握ったままじっと黙っていた。 「あなたのまわりを見回してごらんなさい」と女は言った。「そして私に教えてちょうだい。 そこには何があるの ? そこには何が見えるの ? 」 そのとき玄関のベルが鳴った。僕はほっとして、何も言わずに電話を切った。 240
、カ 僕はレインコートのポケットに手をつつこんだまま、その狭い路地を抜け、やがて空き家 くぎ の前に着いた。空き家はあいかわらずひっそりとそこにあった。雨戸をしつかりと釘づけさ れた二階建ての家屋は、低く垂れこめた灰色の雨雲を背景に、いかにも陰鬱にそこにそびえ がんしよう ていた。ずっと前の嵐の夜に人江の岩礁に乗り上げて、そのまま放棄されてしまった貨物船 のように見えた。もし庭の雑草がこの前に見たときよりももっとその背丈を伸ばしていなか ったなら、何かの理由でその場所だけ時間が停まっているのだと言われても、あるいは僕は ク信じたかもしれない。何日か続いた梅雨の長雨のせいで、草の葉は鮮やかな緑に輝き、土に にお 根を下ろしたものだけが発することのできる野放図な匂いをあたりに放っていた。その草の 海のちょうど中央のあたりに、鳥の石像がこの前に見たときとまったく同じ姿勢で、今にも じ飛び立とうと翼を広げていた。しかしもちろんその鳥が飛び立てる可能性はなかった。それ ね は僕にもわかっていたし、鳥にもわかっていた。それはそこに固定されたまま、どこかに運 び去られるか、あるいは壊されるかするのを待っているだけだ。それ以外に、鳥がこの庭か さまよ ら出ていける可能性はなかった。そこで動くものといえば、ふらふらと草の上を彷徨ってい る季節遅れのモンシロチョウだけだった。モンシロチョウは、探し物をしているうちに、何 を探しているのかわからなくなってしまった人のようにも見えた。五分ばかりみつかるあて もない探し物をしてから、蝶はどこかに行ってしまった。 僕はドロップを舐め、金網の塀にもたれかかりながら、庭をしばらく眺めていた。猫の気 110 あらし ちょう いんうつ
「ねえ」と誰かが言った。 あわ 僕は慌てて目を開けた。そして横に身を乗り出すようにして、雑草の陰からフェンスの戸 ロの方を見た。戸は開いていた。開きつばなしになっていた。僕のあとから誰かがここに人 ってきたのだ。鼓動が激しくなった。 「ねえ」とその誰かはもう一度繰り返した。女の声だった。彼女は石像の陰から姿を現して、 僕の方にやってきた。この前、向かいの家の庭で日光浴をしていた女の子だった。彼女は前 と同じライトプルーのアデイダスのシャツを着て、ショート。ハンツをはいて、軽く足をひ ル クきずっていた。この前と違っているのは、サングラスをかけていないところだけだった。 「ねえ、そんなところでいったい何をしてるの ? 」と彼女は言った。 「猫を探しに来たんだよ」と僕は言った。 じ「本当 ? 」と彼女は言った。「私にはそんな風には見えなかったけれどな。それに、そんな ね ところにじっと座って、目をつぶって口笛吹いてたって猫はみつからないんじゃないかし ら」 僕は少し赤くなった。 「べつに私はどうでもいいんだけれどね、知らない人がそういうの見たらへンタイじゃない かって思うわよ。気をつけないと」と彼女は言った。「ヘンタイじゃないんでしよう、あな た ? 」 「違うと思う」と僕は言った。 114
ねじまき鳥クロニクル 244 「お兄さんと一緒に印刷所を共同経営しておられました」 僕は作業着を着た本田さんが印刷機械の前に立って、刷りだしを点検しているところを想 像してみた。でも僕にとっての本田さんとは、うす汚れた服を着て、腰に寝巻の帯のような ものを巻いて、夏も冬もこたつの前に座ってぜいちくをいじっているうすよごれた老人だっ 間宮中尉はそれから、手に持っていた風呂敷包みを片手で器用にほどいて、小さな菓子折 かっこ、つ のような恰好のものを取り出した。それはハトロン紙でくるまれ、紐で幾重にもしつかり結 んであった。彼はそれをテープルの上に置いて、僕の方に押しやった。 「これが、私が本田さんから岡田様あてにお預かりした形見の品であります」と間宮中尉は 言った。 僕はそれを受け取って、手に取ってみた。それはほとんど重みというものを持たなかった。 その中に何が人っているのか、見当のつけようもなかった。 「今ここで開けてみてよろしいのでしようか ? 」 間宮中尉は首を振った。「いや、申し訳ありませんが、どうぞお一人になられたときに開 けられるようにという、故人の指示でありました」 僕はうなずいて、その包みをテープルの上に戻した。 「実を申しますと」と間宮中尉は切りだした。「私が本田さんの手紙を受け取ったのは、彼 が亡くなる実に一日前のことでした。その手紙にはもうすぐ自分は死ぬであろうと書いてあ ちゅうい ふろしき
座っていた。大きなグ一フスに入ったトロピカル・ドリンクのようなものが彼女の前に置かれ ていたが、加納マルタが実際にそれに口をつけているのかどうかまでは、僕にはわからなか 僕はスーツを着て、例の水玉のネクタイをしめていた。彼女の姿を見つけると、まっすぐ さえぎ そこに行こうとしたが、人込みに遮られてうまく前に進むことができなかった。ようやくカ ウンターにたどり着いた時には、加納マルタの姿はもうなかった。トロピカル・ドリンクの グラスがぼつんと置かれているだけだった。僕はその隣の席に座ってスコッチのオンザロッ ぎクを注文した。スコッチは何がよろしいでしようかとバーテンダーが尋ね、カティーサーク と僕は言った。銘柄なんてべつになんだってよかったのだが、最初にカティーサークという 棒名前が頭に浮かんだ。 部でも注文した飲み物が出てくる前に、誰かが後ろからまるで壊れやすいものでもむよう 第に、そっと僕の腕を取った。振りかえると、そこには顔のない男がいた。本当に顔がないの かどうかまではわからない。でも顔のあるべき部分が暗い影にすっぽりと覆われていて、そ の奥に何があるのかがうかがえない。「こちらです、岡田さん」と男は言った。僕は何かを 言おうとしたが、彼はロを開く暇を与えなかった。「どうかこちらにいらしてください。あ まり時間がありません。急いで」、彼は僕の腕を掴んだまま込んだホールを早足で抜け、廊 下に出た。僕はとくべっ抵抗もせず、男に導かれるままに廊下を歩いていった。この男は少 なくとも僕の名前を知っている。誰彼かまわず行きあたりばったりにこんなことをしている 189 めいがら おお
ル ク「私は五月二十九日に生まれました」と加納クレタは話し始めた。「そして私は、二十歳に なった誕生日の夕方に、自らの命を絶とうと心を決めました」 僕は新しいコーヒーを人れたコーヒーカップを彼女の前に置いた。彼女はそれにクリーム じを人れて、スプーンでゆっくりとかきまわした。砂糖は人れなかった。僕はいつものように 砂糖もクリームも入れず、プラックで一口飲んだ。置き時計がこっこっという乾いた音を立 てて時の壁を叩いていた。 加納クレタは僕の顔をじっと覗き込むようにして言った。「もっと前から順番に話した方 がよろしいでしようか。つまり私の生まれた場所とか、家庭環境とか、そういうものか ら ? 」 「好きに話してください。自由に、あなたが話しやすいように」と僕は言った。 「私は三人兄妹の三番めとして生まれました」と加納クレタは言った。「姉のマルタの上に 162 カ納クレタの長い話、 苦痛についての考察
思うな」 「そんな風に言っちゃうのは簡単よ。みんなそうなんだ、みんな同じだって、言うのは」と 彼女は言った。 時計は十一時を回っていた。なんとかうまく話をまとめて切り上げなくてはと僕は思った。 でも僕が何かを言いだす前に、彼女は突然僕に向かって抱きしめてほしいと言った。 「どうして ? 」と僕はびつくりして訊いた。 「私を充電してほしいの」と彼女は言った。 ぎ「充電 ? 」 「体の電気が足りないのよ」と彼女は言った。「しばらく前から私は毎日ほとんど眠ること 棒ができないでいるのよ。少し眠ると目が覚めて、それつきり眠れなくなってしまうの。何を 部考えることもできないの。そういう時には、誰かに充電してもらわなくちゃならないの。そ 第うしないと、もうこれ以上生きていけなくなる。本当よ」 のぞ 僕は彼女が酔っぱらっているのかと思って目を覗き込んでみた。でも彼女の目はいつもと 同じ賢そうなクールな目に戻っていた。。 せんぜん酔っぱらってなんかいない。 「でもさ、君は来週結婚するんだぜ。彼にいくらでも抱いてもらえばいいじゃないか。毎晩 でも抱いてもらえる。結婚なんてものはそのためにあるようなものなんだ。これから先電気 に不足することはない」 彼女はそれには答えなかった。唇を結んで、ただじっと自分の足元を見ているだけだった。 197
九時五十分に電話のベルが鳴った。たぶん間宮中尉だろうと僕は思った。僕の住んでいる 家はかなりわかりにくいところにあるのだ。何度かここに来たことのある人間でさえ迷うこ とがあるくらいなのだ。でもそれは間宮中尉ではなかった。受話器から聞こえてきたのは、 なぞ このあいだわけのわからない電話をかけてきた謎の女の声だった。 「こんにちは、お久しぶりね」とその女は言った。「どうだった、このあいだのは良かっ た ? 少しは感じてもらえたかしら。でもどうして途中で電話を切っちゃったの。いよいよ これからっていうところだったのに」 ル 僕は一瞬彼女の言っているのが、加納クレタの登場した例の夢精の夢のことだと錯覚した。 でもそれはもちろんべつの話だった。 , 彼女はこの前のス。ハゲティーの電話のことを言ってい るのだ。 じ「ねえ、悪いけど今はちょっと忙しいんだよ」と僕は言った。「あと十分でお客が来るし、 ね いろんな用意もしなくちゃならないんだ」 「失業中にしちゃ毎日ずいぶん忙しいのね」と彼女は皮肉っぽい声で言った。前と同じだ。 すっと声の質が変わる。「ス。ハゲティーをゆでたり、お客を待っていたり。でも大丈夫よ、 十分あればじゅうぶんだわ。二人で十分間お話ししましようよ、お客が来たらそこで切れば いいじゃない」 僕はそのまま黙って電話を切ってしまいたかった。でもそうすることができなかった。僕 は妻のオーデコロンのことでまだ少し混乱していた。誰とでもいいから、何かを話したかっ
た。僕は戸口に立って、妻のうしろ姿を眺めた。彼女は青い無地の。ハジャマに着替え、鏡の 前に立ってタオルで髪を拭いていた。 「ねえ、僕の仕事のことなんだけどね」と僕は妻に言った。「僕も僕なりにいろいろと考え てはいるんだよ。友達にも声をかけてみた。自分でもいろいろとあたってはみた。仕事はな くはないんだ。だからいつでも働こうと思えば働けるんだよ。気持ちさえ決まれば、明日か らでも働ける。でもさ、なんだか気持ちがまだ決まらないんだよ。僕にもよくわからないん だ。そんな風に適当に仕事を決めちゃっていいものかどうか」 ル ク「だからこの前も言ったでしよう。あなたのやりたいようにやればいいって」と彼女は鏡に 映った僕の顔を見ながら言った。「何も今日明日のうちに仕事を決めなくちゃいけないとい うわけでもないのよ。もし経済的なことをあなたが気にしているのならね、それは心配しな じくてもいいわ。でももしあなたが仕事をしないと精神的に落ちつかないっていうのなら、私 ね ひとりが外に出て働いてあなたが家で家事をやっていることを負担に感じるっていうのなら、 とりあえず何か仕事をみつければいいじゃない。私はべつにどっちでもいいのよ」 「もちろんいっかは仕事をみつけなくちゃいけない。それはわかりきっているんだ。一生こ んなことをやってぶらぶら暮らしていくわけにはいかないものね。遅かれ早かれ仕事はみつ けるさ。でも正直に言って、どんな仕事に就けばいいのか、今の僕にはよくわからないんだ。 仕事を辞めてしばらくのあいだは、また何か法律関係の仕事に就けばいいと気楽に思ってい た。そういう関係のコネクションなら僕にも少しはあるからね。でも今はそういう気持ちに
類の痛みについて知っているのよ。私が痛いというときは本当に痛いのよ』、私はそう言い ました。そしてこれまで自分が経験してきた痛みという痛みを洗いざらい並べあげて説明し ました。でも彼にはほとんど何も理解できませんでした。本当の痛みというものは、それを 経験したことのない人には絶対に理解できないのです。そのようにして私たちは別れました。 そして私は二十歳の誕生日を迎えました。私は二十年じっと我慢してきたのです。どこか で何か大きな輝かしい転換があるのではないかと思って。しかしそんなものはありませんで 8 した。私は本当にがっかりしてしまいました。私はもっと前に死んでおけばよかったのです。 ぎ私は回り道をして苦痛を長びかせただけだったのです」 加納クレタはそこまで話してしまうと大きく息を吸い込んだ。彼女の前には卵の殻がはい 棒った皿と、からになったコーヒーカップが置かれていた。スカートの膝の上にはハンカチが たな 部きちんと折り畳まれたまま置かれていた。彼女はふと思いだしたように、棚の上の置き時計 第に目をやった。 「申し訳ありません」と加納クレタは小さな乾いた声で言った。「思っていたよりすっかり 話が長くなってしまいました。これ以上岡田様のお時間を取ってしまってもご迷惑だろうと 思います。長々とつまらない話をしてしまって、本当になんとお詫びすればいいか」 そう言って彼女は白いエナメルのバッグのストラップを掴むと、ソファーから立ち上がっ 「ちょっと待ってください」と僕は慌てて言った。何はともあれ、こんな中途半端なところ 175 あわ はんば