を口笛で吹いていた。 十一時に加納マルタから電話がかかってきた。 「もしもし」と僕は受話器を取って言った。 「もしもし」と加納マルタが言った。「そちらは岡田亨様のお宅でしようか ? 」 「そうです。岡田亨です」電話の相手が加納マルタであることは最初の声でわかった。 「私は加納マルタと申します。先日は失礼いたしました。ところで本日の午後は何かご予定 ル がおありでしようか ? 」 ない、と僕は言った。渡り鳥が抵当用資産を持たないのと同じように、僕も予定というも のを持たない。 じ「それでは本日の一時に妹の加納クレタがお宅にお邪魔いたします」 ね 「加納クレタ ? 」と僕は乾いた声で言った。 「妹です。先日写真をお見せしたと思うのですが」と加納マルタは言った。 「ええ、妹さんのことでしたら覚えています。でもーーー」 「加納クレタというのが妹の名前なのです。妹が、私の代理としてお宅に伺います。一時で よろしいでしようか ? 」 「それはかまいませんが」 「それでは失礼いたします」と加納マルタは言って電話を切った。 154
加納クレタ ? 僂は掃除機を出してきて床を掃除し、家の中を片づけた。新聞をまとめて、紐でしばって 押人れに放り込み、ちらばったカセット・テープをケースに人れて整理し、台所で洗い物を した。それからシャワーを浴び、頭を洗い、新しい服に着替えた。コーヒーを新しく作り、 ハムのサンドイッチとゆで卵を食べた。そしてソファーに座って『暮しの手帖』を読み、タ 食に何を作ろうかと考えた。僕は「ひじきと豆腐のサラダ」というべージにしるしをつけ、 必要な材料を買い物メモに書き込んだ。放送をつけるとマイケル・ジャクソンが『ビリ ・ジーン』を歌っていた。そして僕は加納マルタのことを考え、加納クレタのことを考え た。まったく姉妹そろってなんていう名前をつけるんだろう。これじゃまるで漫才のコンビ 棒じゃないか。加納マルタ・加納クレタ。 部僕の人生は間違いなく奇妙な方向に向かっている。猫が逃げた。変な女からわけのわから 第ない電話がかかってきた。不思議な女の子と知り合って、路地の空き家に出人りするように なった。綿谷ノボルが加納クレタを犯した。加納マルタがネクタイの出現を予言した。妻は 僕にもう仕事をしなくてもいいと言った。 僕はラジオを消し、『暮しの手帖』を本棚に戻し、もう一杯コーヒーを飲んだ。 155 一時ちょうどに加納クレタが家のベルを押した。彼女は本当に写真のとおりだった。小柄 てちょう ひも
朝、クミコを送りだしたあとで区営プールに泳ぎにいった。午前中はプールがいちばんす はんば いている時間なのだ。家に帰ると台所でコーヒーを作り、それを飲みながら、中途半端なま ま終わってしまった加納クレタの奇妙な身の上話についてあれこれと考えを巡らせた。彼女 じが話したことをひとつひとっ順番に思いだしていった。思いだせば思いだすほど奇妙な話だ った。でもそのうちに頭がうまく回らなくなってきた。眠くなってきたのだ。気が遠くなっ てしまいそうなほどの眠さだった。僕はソファーに横になって目を閉じ、そのまま眠ってし まった。そして夢を見た。 夢には加納クレタが出てきた。しかしまず最初に出てきたのは加納マルタの方だった。夢 の中で加納マルタはチロル風の帽子を被っていた。帽子には大きくて色の鮮やかな羽根がっ いていた。そこは多くの人々で込み合っていたのだけれど ( 広いホールのような場所だ ) 、 派手な帽子を被った加納マルタの姿はすぐに目についた。彼女は一人でバーのカウンターに 譱毛気の絶対的な不足と暗渠、 かつらについての笠原メイの考察
いつもちょっとしか食べないんです」 「本当に ? 」と僕は言った。「サンドイッチを作るくらい何でもないから、遠慮しないでい いんですよ。僕はそういうちょっとしたものを作るのには慣れてるから、ぜんぜん手間じゃ ないし」 彼女は小さく何度も首を振った。「ご親切にありがとうございます。でも本当に結構です。 お気遣いなく。コーヒーだけで十分です」 でも僕はためしにチョコレート・クッキーを皿に盛って出してみた。加納クレタはそれを ぎおいしそうに四個食べた。僕もクッキーを二個食べ、コーヒーを飲んだ。 クッキーを食べ、コーヒーを飲んでしまうと、彼女は少し落ちついたようだった。 棒「本日は姉の加納マルタの代理でまいりました」と彼女は言った。「私は加納クレタと申し 部ます。加納マルタの妹にあたります。もちろんこれは本名ではありません。本名は加納節子 第と申します。しかし姉の仕事を手伝うようになってから、このような名前を使うようになり ました。何といいますか、職業上の名前です。別に私はクレタ島に関係があるわけではあり ません。クレタ島に行ったこともありません。姉がマルタという名前を使っておりますので、 それに関係した名前を適当に選んだだけです。マルタがこのクレタという名前を選んでつけ てくれたのです。ひょっとして岡田様はクレタ島に行かれたことはありますか ? 」 残念ながらない、と僕は言った。クレタ島には行ったことがないし、近い将来に行く予定 もない。
をクミコに対して秘密にしておこうと意識して思っていたわけではない。もともとそれほど 重要なことではないし、言っても言わなくてもどちらでもいいことだった。でもそれはある 徴妙な水路を通過することによって、最初のつもりがどうであれ、結局秘密という不透明な 衣をかぶせられてしまうのだ。加納クレタのことにしてもそうだ。僕は加納マルタの妹が家 かっこ・つ に来たことを妻に話した。妹の名前は加納クレタっていうんだ、一九六〇年代初め風の恰好 をしてるんだよ、その人がうちに水道の水を取りに来たんだ、と言った。でも彼女がそのあ 2 と突然わけのわからない打ち明け話を始めて、その話の途中で何も言わずにふっと消えてし ぎまったことは黙っていた。加納クレタの話はあまりにも突拍子もない話だったし、その細か いニュアンスを再現して妻に正確に伝えることはまず不可能だったからだ。あるいはまたク 棒 ミコは加納クレタが用事の終わったあとも長い時間うちに残って僕にややこしい個人的な打 泥 部ち明け話をしたことを喜ばないかもしれない。そしてそのことも僕にとってのささやかな秘 第密になってしまった。 あるいはクミコだって、僕に対してこれと同じような秘密を持っているのかもしれないな、 と僕は思った。でももしそうだとしても、僕には彼女を責めることはできなかった。誰だっ てそれくらいの秘密は抱えているものなのだ。しかしおそらく、彼女よりは僕の方がそうい う秘密を持っ傾向は強いだろう。クミコはどちらかといえば、思ったことはロに出してしゃ べってしまうタイプなのだ。しゃべりながらものを考えるタイプだ。でも僕はそうではない。 僕はなんとなく不安になって、洗面所まで行った。洗面所のドアは開けはなしになってい 225
火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について : 2 満月と日蝕、納屋の中で死んでいく馬たちについて : 3 加納マルタの帽子、シャーベット・トーンと アレン・ギンズ。ハーグと十字軍 : 4 高い塔と深い井戸、あるいはノモンハンを遠く離れて : 5 レモンドロップ中毒、飛べない鳥と涸れた井戸 : 6 岡田久美子はどのようにして生まれ、 綿谷ノボルはどのようにして生まれたか : 7 幸福なクリーニング店、そして加納クレタの登場・ 8 加納クレタの長い話、苦痛についての考察 : 電気の絶対的な不足と暗渠、かつらについての笠原メイの考察 : : : 一
それからしばらく沈黙があった。加納マルタは、あなたも少しそのことを考えてください というような顔をして、じっと黙りこんでいた。僕もそれについて少し考えてみた。綿谷ノ ポルが加納マルタの妹を犯したことについて、そしてそれと体の組成との関係について。そ してそれらとうちの行方不明の猫との関係について。 「ということは」と僕はおそるおそる切りだしてみた。「あなたも、あなたの妹さんもこの おもてざた ことを表沙汰にしたり、あるいは警察に訴えたりするようなことはないというわけです ル ク「もちろんです」と加納マルタは無表情に言った。「正確に言えば、私たちは誰を責めてい るわけでもないのです。私たちは何がそれをもたらしたのかをもっと正確に知りたいと思っ ているだけです。それを知って解決しないことには、もっと悪いことが起こる可能性だって じあるのです」 ね 僕はそれを聞いて少し安心した。僕は綿谷昇強姦罪で逮捕され、有罪になって刑務所に 人ったところでべつにかまわなかった。それくらいの目にあってもいいだろうと思っている くらいだった。しかし妻の兄は世間ではかなりの有名人だったから、それはちょっとしたニ ュースになるはずだったし、クミコがそのことでショックを受けるのはまず間違いのないと ころだった。僕としては、僕自身の精神衛生のためにも、そんなことになってほしくはなか っこ。 「今日お目にかかった用件は純粋に猫のことです」と加納マルタは言った。「猫のことで綿 ごうかんざい
「私が二十歳になったときですから、今から六年前、つまり、一九七八年の五月のことで す」と加納クレタは言った。 一九七八年の五月は僕らが結婚した月だ。ちょうどそのときに加納クレタは自殺をはかり、 加納マルタはマルタ島で修行をしていたのだ。 「私は盛り場に出て適当な男に声をかけ、値段の交渉をし、近くのホテルに行って寝まし た」と加納クレタは言った。「セックスをすることに、私はもう一切の肉体的苦痛を感じな いようになりました。もう以前のように痛くはないのです。そこには快感というものはまっ ル クたくありませんでした。でも苦痛もありませんでした。それはただの肉体の動きにすぎませ んでした。私はお金をもらってセックスをすることに何の罪悪感も感じませんでした。私は 底も見えないほどの深い無感覚に包まれていました。 じそれはとてもいいお金になりました。私は最初の一カ月で百万近くのお金を貯めることが できました。そのままあと三、四カ月それを続ければ、楽に借金を返し終えることができる はずでした。私は大学から帰ると、夕方に町に出て、遅くとも十時までには仕事を終えて帰 宅するようにしました。両親にはレストランでウェイトレスの仕事をしているのだと言って おきました。誰もそれを疑いませんでした。あまり沢山のお金を一度に返してしまうと変に 思われそうなので、私は一月に十万円だけ返すことにしました。そしてそれ以外は銀行に預 金しておきました。 でもある夜、いつものように駅の近くで男の人に声をかけようとしたときに、私は突然後 182
ル ク「私は五月二十九日に生まれました」と加納クレタは話し始めた。「そして私は、二十歳に なった誕生日の夕方に、自らの命を絶とうと心を決めました」 僕は新しいコーヒーを人れたコーヒーカップを彼女の前に置いた。彼女はそれにクリーム じを人れて、スプーンでゆっくりとかきまわした。砂糖は人れなかった。僕はいつものように 砂糖もクリームも入れず、プラックで一口飲んだ。置き時計がこっこっという乾いた音を立 てて時の壁を叩いていた。 加納クレタは僕の顔をじっと覗き込むようにして言った。「もっと前から順番に話した方 がよろしいでしようか。つまり私の生まれた場所とか、家庭環境とか、そういうものか ら ? 」 「好きに話してください。自由に、あなたが話しやすいように」と僕は言った。 「私は三人兄妹の三番めとして生まれました」と加納クレタは言った。「姉のマルタの上に 162 カ納クレタの長い話、 苦痛についての考察
「私にもよくわかりません」と彼女は言った。そして彼女は頭の上のびかびかと光る髪どめ に手をやって、それをちょっと後ろにずらせた。「しかし姉を信頼してください。もちろん すべてのことが姉にわかるというわけではありません。しかしもし姉が『そこにはもっと長 い話がある』と言うのなら、そこにはたしかに『もっと長い話がある』のです」 僕は黙ってうなずいた。それ以上何も言いようがなかった。 「岡田様は今、お忙しいですか ? これから何か予定はおありですか ? 」と加納クレタはあ らたまった声で言った。 ぜんぜん忙しくはない、何も予定はない、と僕は言った。 「それでは私自身のことを少しお話ししてもよろしいでしようか ? 」と加納クレタは言った。 棒彼女は手に持っていた白いエナメルのバッグをソファーの上に置き、緑色のタイト・スカー ひざ きれい 部トの膝の上に手をかさねた。両手の指は綺麗なピンク色にマニキュアされていた。指輪はひ 第とつもつけていなかった。 どうぞ話してください、と僕は言った。そして僕の人生はーーそんなことは加納クレタが 玄関のベルを押したときから十分に予測されていたことなのだが、ーーますます奇妙な方向に 流されていくことになった。 161