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検索対象: ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)
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1. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

それから僕は裏返してみた。 何も書かれていない。 その名刺の意味についてあれこれと考えているうちに、ウェイターがやってきて、彼女の 前に氷の人ったグラスを置いて、トニック・ウォーターを半分だけ注いだ。グラスの中には くさびがた 楔形に切ったレモンが人っていた。少しあとで銀色のコーヒーポットとトレイを持ったウェ イトレスがやってきて、僕の前にコーヒーカップを置き、そこにコーヒーを注ぎ、まるで悪 おみくじ い御神籤を他人に押しつけるみたいにそっと、伝票を伝票差しに差して去っていった。 ル ク「何も書いてありません」と加納マルタは僕に言った。僕は何も書いてない名刺の裏をまだ ぼんやり眺めていたのだ。「名前だけです。電話番号も住所も、私には必要ありません。誰 も私には電話をかけてこないからです。私の方が誰かに電話するのです」 あいづち じ「なるほど」と僕は言った。その意味のない相槌は、『ガリヴァー旅行記』に出てくる空に むな ね 浮かんだ島みたいに、テープルの上空にしばらくのあいだ虚しく漂っていた。 女は両手でグ一フスを支えるように持って、ストローでほんの一口飲んだ。それから徴かに わき 顔をしかめ、もう興味をなくしたように、グラスを脇に押しやった。 「マルタというのは、私の本当の名前ではありません」と加納マルタは言った。「加納とい うのは本当の名前です。でもマルタというのは職業上の名前です。マルタ島から取ったので す。岡田様はマルタには行かれたことはおありでしようか ? 」 ない、と僕は言った。僕はマルタ島に行ったことはない。近いうちに行く予定もない。行

2. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

言わずに黙っていた。僕も黙っていた。 やがて女はテープルの上の赤い帽子をとって、その下に置かれたハンドバッグのロ金を開 け、そこからカセットテープより少し小さいくらいのサイズの、光沢のある黒い革のケース を取りだした。それは名刺人れだった。名刺人れにもロ金がついていた。ロ金のついた名刺 人れなんて見るのは初めてだった。彼女はそこから大事そうに名刺を一枚出して僕に渡した。 僕も名刺を出そうとしたが、スーツのポケットに手を入れてから、もう自分が名刺を持って いないことを思いだした。 ぎ名刺は薄いプラスチックで作られていて、徴かなお香の匂いがしたような気がした。鼻を 近づけてみると、その匂いはもっと明確になった。間違いなくお香だった。そしてそこには 棒ただ一行、黒々とした小さな字で名前が書いてあった。 部 第 マルタ ? 加納マルタ かす にお

3. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

お前も知ってるように、あの辺の道は初めての人間にはちょっとわかりにくいからな。人間、 ぎわ 死に際を見定めるというのは簡単なことじゃないよ」 「そうですね」 「そのあとあそこはしばらく空き家になっていたんだが、やがてある映画女優がその家を買 った。もう昔の人だし、それほどは有名な女優じゃないから、お前は名前は知らんと思うよ。 その女優はそこに、そうだな、十年くらいは住んだかな。独り身でね、女中さんと二人で住 わずら んでいたんだ。ところがこの女優はその家に移ってきて何年かして目の病気を患った。目が ル かすんで、かなり近くのものでも、ぼんやりとしか見えなくなった。でも女優だから、眼鏡 をかけて仕事をするわけにはいかない。コンタクト・レンズも、その頃にはまだ今ほどいい ものができていなかったし、一般的じゃなかった。だから彼女はいつも、撮影現場の地理を じまずよく調べて、ここを何歩行けば何があって、そこからこっちに何歩行けば何がある、と いうのを頭の中に人れてから演技をすることにしていた。昔の松竹のホームドラマだからね、 それでなんとかやっていけたんだ。昔は何事によらずのんびりしていたんだな。でもある日、 彼女がいつものように現場を下調べして、これで大丈夫と安心して楽屋に帰ってしまったあ とで、事情をよく知らない若いカメラマンが、セットのいろんなものをちょっとずつ移動し てしまった」 「ふうん」 「それで彼女は足を踏みはずして何処かに転げ落ちて、もう歩けなくなってしまった。その 218

4. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

彼女は僕のそばに来て、軒の下に積み重ねられたガーデン・チェアの中から、汚れの少な いものを時間をかけて選び、それをもう一度仔細に点検してから地面に置いて、そこに腰を 下ろした。 「それに何の曲だかしらないけど、あなたのロ笛、とてもメロディーには聞こえないわよ。 ひょっとしてあなたおかまじゃないわよね ? 」 「違うと思う」と僕は言った。「どうして ? 」 「おかまって、ロ笛が下手だって聞いたから。それ、本当 ? 」 ぎ「どうだろうな」 「べつにあなたがおかまだって、ヘンタイだって、なんだって、私はちっともかまわないん 棒だけど」と彼女は言った。「あなたの名前はなんていうの。名前がわかんないと、呼びにく 部いから」 第「オカダ・トオル」と僕は言った。 彼女は僕の名前を口の中で何度か繰り返していた。「あまりばっとしない名前じゃない、 それ ? 」 「そうかもしれない」と僕は言った。「でもオカダ・トオルっていう名前にはなんとなく戦 前の外務大臣みたいな響きがあると思うんだけど」 「そんなこと言われても私にはわかんないな。歴史のことは苦手なのよ。でもまあいいや、 それは。それで、他に何かあだ名みたいなのはないの、オカダ・トオルさん ? もっと呼び 115 しさい

5. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

いつもちょっとしか食べないんです」 「本当に ? 」と僕は言った。「サンドイッチを作るくらい何でもないから、遠慮しないでい いんですよ。僕はそういうちょっとしたものを作るのには慣れてるから、ぜんぜん手間じゃ ないし」 彼女は小さく何度も首を振った。「ご親切にありがとうございます。でも本当に結構です。 お気遣いなく。コーヒーだけで十分です」 でも僕はためしにチョコレート・クッキーを皿に盛って出してみた。加納クレタはそれを ぎおいしそうに四個食べた。僕もクッキーを二個食べ、コーヒーを飲んだ。 クッキーを食べ、コーヒーを飲んでしまうと、彼女は少し落ちついたようだった。 棒「本日は姉の加納マルタの代理でまいりました」と彼女は言った。「私は加納クレタと申し 部ます。加納マルタの妹にあたります。もちろんこれは本名ではありません。本名は加納節子 第と申します。しかし姉の仕事を手伝うようになってから、このような名前を使うようになり ました。何といいますか、職業上の名前です。別に私はクレタ島に関係があるわけではあり ません。クレタ島に行ったこともありません。姉がマルタという名前を使っておりますので、 それに関係した名前を適当に選んだだけです。マルタがこのクレタという名前を選んでつけ てくれたのです。ひょっとして岡田様はクレタ島に行かれたことはありますか ? 」 残念ながらない、と僕は言った。クレタ島には行ったことがないし、近い将来に行く予定 もない。

6. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

8 欲望の根、 208 号室の中、壁を通り抜ける 9 井戸と星、梯子はどのようにして消滅したか 川人間の死と進化についての笠原メイの考察、よそで作られたもの 痛みとしての空腹感、クミコの長い手紙、予言する鳥 髭を剃っているときに発見したもの、目が覚めたときに発見したこと 加納クレタの話の続き 加納クレタの新しい出発 燔正しい名前、夏の朝にサ一フダオイルをかけて焼かれたもの、不正確なメタファ 笠原メイの家に起こった唯一の悪いこと、笠原メイのぐしゃぐしやとした熱源 についての考察 いちばん簡単なこと、洗練されたかたちでの復讐、ギターケースの中にあった もの クレタ島からの便り、世界の縁から落ちてしまったもの、良いニュースは小さ な声で語られる ( 第 3 部鳥刺し男編 ) 笠原メイの視点 2 首吊り屋敷の謎 3 冬のねじまき鳥 4 冬眠から目覚める、もう一枚の名刺、金の無名性 真夜中の出来事

7. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

いを好まなかった。しかし叔父は、ただ一人の甥である僕のことを昔からいろいろと気にか けてくれていた。僕が大学に人った年に母親が死んで、再婚した父親とのあいだが上手くい かなくなってからは、とくにそうだった。僕が大学生として東京で貧乏なひとり暮らしをし ていた時分には、銀座にある何軒かの自分の店でよくただでご飯を食べさせてくれたものだ 一軒家が面倒だからと言って、叔父夫婦は麻布の坂上にあるマンションに住んでいた。と くに贅沢な生活を好む人ではなかったが、珍しい車を買うのが唯一の道楽で、ガレージに古 ぎい型のジャガーとアルファロメオを持っていた。どちらももうアンティークに近かったが実 によく手入れされていて、まるで生まれたての赤ん坊みたいにびかびかだった。 泥 部叔父に用事があって電話をかけたついでに、ちょっと気になったので笠原メイの家のこと 第を訊いてみた。 「笠原ねえ」と叔父はしばらく考えていた。「笠原という名前には覚えがないな。そこに住 んでたころはひとりものだったし、近所づきあいもまるでしなかったからな」 「その笠原さんの家から路地を隔てた裏側に、ひとっ空き家があるんです」と僕は言った。 「以前は宮脇っていう人が住んでいたらしいんですが、今は空き家で、雨戸に板が打ちつけ てあります」 「その宮脇ならよく知ってるよ」と叔父は言った。「昔、何軒かレスト一フンをやってた男だ 215 ぜいたく おい ゆいいっ

8. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

井戸は庭を抜けて、家屋の横手にまわりこんだところにあった。直径はおおよそ一メート ル半くらいの丸いかたちの井戸で、分厚い丸い板の蓋が上に被せてあり、蓋の上にはおもし としてコンクリート・プロックがふたっ置いてあった。地面から一メートルほど立ち上がっ た井戸の縁の近くには、まるでその井戸を自分が護っているのだとでもいうように、古い木 が一本はえていた。何かの果樹のように見えたが、名前まではわからない。 井戸は、この家屋に属する他の事物と同じように、かなり長い期間にわたって放棄され、 見捨てられてしまっているようだった。そこには、〈圧倒的な無感覚〉とでも呼びたくなる ようなものが感じられた。あるいは人々が視線を注ぐことをやめると、無生物はもっと無生 棒物的になるのかもしれない。 部でも近くに寄って注意深く観察してみると、この井戸が実際には、まわりにある他のもの 第たちよりはずっと古い時代に作られたものであるらしいことがわかった。たぶんこの家が建 てられるずっと前から、井戸はここに存在していたのだろう。蓋の板からして、いかにも古 いものだった。井戸の壁はセメントでしつかりと塗り固めてあったけれど、それはどうやら 以前からあった何かの壁の上にーーたぶん補強のためだろうーーあらたにセメントを塗って 固めたように見えた。井戸の横に立っている木までが、自分はまわりのほかの木よりはずつ と昔からここにいたのだと主張しているような印象を与えていた。 プロックをどかし、半月形にふたつに分れた板の部分をとって、井戸の縁に手をかけて身 123 まも ふた

9. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

ロは小さく、上唇がほんの少し上にめくれあがっている。そして慣れた手つきで紙マッチを 擦って、煙草に火をつけた。娘が首をかがめると、耳のかたちがくつきりと見えた。つるり とした綺麗な耳で、ついさっきできあがったばかりという感じだった。耳のほっそりした輪 郭に沿って短いうぶ毛が光っている。 娘はマッチを地面に捨て、唇をすぼめて煙を吹きだし、思いだしたように僕の顔を見あげ た。レンズの色が濃くて、おまけに光をはねかえすっくりになっていたので、その奥にある 目を見とおすことはできなかった。「近所の人 ? 」と娘が訊いた。 ぎ「そう」と答えて、自分の家のある方向を指さそうとしたが、それが正確にどちらの方向に 位置しているのかわからなくなっていた。奇妙な角度に折れまがった曲り角をいくつも通り 棒抜けてきたせいだ。それで僕は適当な方角を指さしてごまかした。 部「猫を探してるんだ」と汗ばんだ手のひらをズボンでこすりながら言い訳するみたいに言っ 第た。「一週間ばかり前から家に戻ってこないんだけど、このへんでみかけた人がいるんだよ」 「どんな猫 ? 」 しつぼ 「大柄な雄猫だよ。茶色の縞で、尻尾の先が少し曲がって折れてる」 「名前は ? 」 「ノボル」と僕は答えた。「ワタヤ・ノボル」 「猫にしちゃずいぶん立派な名前ね」 「女房の兄貴の名前なんだ。感じが似てるんで冗談でつけたんだよ」

10. ねじまき鳥クロニクル 第1部(泥棒かささぎ編)

も電話のベルの鳴らない静かな一日だった。僕はソファーに寝ころんで本を読んだ。読書を 邪魔するものは誰もいなかった。ときどき庭でねじまき鳥が鳴いた。それ以外には物音らし い物音はしなかった。 四時頃に誰かが玄関のベルを押した。郵便配達人だった。彼は書留だと言って、僕に分厚 い封筒を差し出した。僕は受取りの紙に印鑑を押し、それを受け取った。 立派な和紙の封筒には毛筆で、黒々と僕の名前と住所が書いてあった。裏を見ると、差出人 の名前は「間宮徳太郎」とあった。住所は広島県ーー郡だった。間宮徳太郎という名前にも、 クその広島県の住所にもまったく覚えがなかった。それに毛筆の筆跡からしても、間宮徳太郎 氏はかなりの年配であるようだった。 僕はソファーに座って、はさみで封筒の封を切った。手紙は古風な和紙の巻紙に、やはり ま 毛筆ですらすらと書かれていた。教養のある人物らしくなかなか見事な字だったが、僕の方 にその種の教養がないせいで、読むのにひどく骨が折れた。文体もかなり古風でかしこまっ たものだった。しかし時間をかけて解読してみると、そこに書いてあるおおよその内容は理 解できた。彼の手紙によれば、僕らが昔通っていた占いの本田さんが二週間ばかり前に目黒 の自宅で亡くなったということだった。心臓発作だった。医者の話によれば、さして苦しま ずに短時間のうちに息を引き取ったであろうということであった。独り暮らしの身でありま したし、それはやはり不幸中の幸いというべきでありましよう、と手紙にはあった。朝お手 伝いさんが掃除にやってきて、彼がこたつの上につつぶして死んでいるのをみつけたのだ。