そのまま内地には戻されることなく終わってしまいました。私の人生なぞはかない夢のよう なものです」、間宮中尉はそのままし、はらく口をつぐんでいた。 「もしよかったら、あなたと本田さんとが知り合われたときのお話を聞かせていただくわけ にはいかないでしようか」と僕は言ってみた。僕は本当に知りたかったのだ。本田さんとい う人がかってはどのような人物であったのか。 間宮中尉は両手をきちんと膝の上に置いたまま、しばらく何かを考えていた。どうしよう かと迷っていたわけではない。ただ何かを考えていたのだ。 ぎ「長い話になるかもしれませんが」 「けっこうです」と僕は言った。 棒「この話はこれまで誰にもしたことがありません」と彼は言った。「本田さんも誰にも話し 部たことがないはずです。何故なら私たちは : : : このことだけは誰にも話さんことにしようと 第決めたからです。しかし本田さんも亡くなってしまわれた。残ったのは私ひとりです。話し てももう誰にも迷惑はかからんでしよう」 そして間宮中尉は話しはじめた。 247 ひざ
ル ク「私は五月二十九日に生まれました」と加納クレタは話し始めた。「そして私は、二十歳に なった誕生日の夕方に、自らの命を絶とうと心を決めました」 僕は新しいコーヒーを人れたコーヒーカップを彼女の前に置いた。彼女はそれにクリーム じを人れて、スプーンでゆっくりとかきまわした。砂糖は人れなかった。僕はいつものように 砂糖もクリームも入れず、プラックで一口飲んだ。置き時計がこっこっという乾いた音を立 てて時の壁を叩いていた。 加納クレタは僕の顔をじっと覗き込むようにして言った。「もっと前から順番に話した方 がよろしいでしようか。つまり私の生まれた場所とか、家庭環境とか、そういうものか ら ? 」 「好きに話してください。自由に、あなたが話しやすいように」と僕は言った。 「私は三人兄妹の三番めとして生まれました」と加納クレタは言った。「姉のマルタの上に 162 カ納クレタの長い話、 苦痛についての考察
朝、クミコを送りだしたあとで区営プールに泳ぎにいった。午前中はプールがいちばんす はんば いている時間なのだ。家に帰ると台所でコーヒーを作り、それを飲みながら、中途半端なま ま終わってしまった加納クレタの奇妙な身の上話についてあれこれと考えを巡らせた。彼女 じが話したことをひとつひとっ順番に思いだしていった。思いだせば思いだすほど奇妙な話だ った。でもそのうちに頭がうまく回らなくなってきた。眠くなってきたのだ。気が遠くなっ てしまいそうなほどの眠さだった。僕はソファーに横になって目を閉じ、そのまま眠ってし まった。そして夢を見た。 夢には加納クレタが出てきた。しかしまず最初に出てきたのは加納マルタの方だった。夢 の中で加納マルタはチロル風の帽子を被っていた。帽子には大きくて色の鮮やかな羽根がっ いていた。そこは多くの人々で込み合っていたのだけれど ( 広いホールのような場所だ ) 、 派手な帽子を被った加納マルタの姿はすぐに目についた。彼女は一人でバーのカウンターに 譱毛気の絶対的な不足と暗渠、 かつらについての笠原メイの考察
Ⅲも近いし、前もって話をしておけば、何か便宜をはかってもらえるのではないかというつも りもあったからだ。 「でも、あまりあてにしない方がいいと思う」とクミコはなんとなく言いにくそうに言った。 「うまく説明できないんだけれど、あの人はそういうタイプじゃないのよ」 「でもどうせいっかは会わなくてはならないだろうーと僕は言った。 「まあね。それはたしかにそうだけれど」とクミコは言った。 「じゃあ話してみてもいいだろう。何事も試してみなくちやわからないよ」 ル 「そうね。たしかにそうかもしれない」 電話をかけると、綿谷ノボルは僕と会うことに対してあまり気乗りがしない様子だった。 鳥 しかしもしどうしても会いたいということであれば、三十分くらいなら時間は取れると彼は 言った。そして僕らは御茶ノ水の駅の近くの喫茶店で待ち合わせた。彼はその当時はまだ本 かっこう ね も書いていない一介の大学の助手だったし、恰好の方もあまりばっとしたものではなかった。 ジャケットの。ホケットはおそらく長く手を突っ込まれすぎたせいで膨らんだままになってい たし、髪は二週間ぶんは長くなりすぎていた。芥子色のポロシャッとプルーグレイのツィー ドのジャケットは色がまったく合っていなかった。どこの大学にもいるあまり金とは縁のな い若い助手という風貌だった。彼は朝からずっと図書館で調べものをしていて、今ちょっと 抜け出してきたというような眠たげな目をしていたが、よく見るとその奥には鋭く冷たい光 が見て取れた。 からしいろ
類の痛みについて知っているのよ。私が痛いというときは本当に痛いのよ』、私はそう言い ました。そしてこれまで自分が経験してきた痛みという痛みを洗いざらい並べあげて説明し ました。でも彼にはほとんど何も理解できませんでした。本当の痛みというものは、それを 経験したことのない人には絶対に理解できないのです。そのようにして私たちは別れました。 そして私は二十歳の誕生日を迎えました。私は二十年じっと我慢してきたのです。どこか で何か大きな輝かしい転換があるのではないかと思って。しかしそんなものはありませんで 8 した。私は本当にがっかりしてしまいました。私はもっと前に死んでおけばよかったのです。 ぎ私は回り道をして苦痛を長びかせただけだったのです」 加納クレタはそこまで話してしまうと大きく息を吸い込んだ。彼女の前には卵の殻がはい 棒った皿と、からになったコーヒーカップが置かれていた。スカートの膝の上にはハンカチが たな 部きちんと折り畳まれたまま置かれていた。彼女はふと思いだしたように、棚の上の置き時計 第に目をやった。 「申し訳ありません」と加納クレタは小さな乾いた声で言った。「思っていたよりすっかり 話が長くなってしまいました。これ以上岡田様のお時間を取ってしまってもご迷惑だろうと 思います。長々とつまらない話をしてしまって、本当になんとお詫びすればいいか」 そう言って彼女は白いエナメルのバッグのストラップを掴むと、ソファーから立ち上がっ 「ちょっと待ってください」と僕は慌てて言った。何はともあれ、こんな中途半端なところ 175 あわ はんば
しろもの 言葉を交わす機会を持った。しかしそれは会話とも呼べないような代物だった。僕らのあい だには、たしかに彼が言うように、共通した基盤というものがなかった。だからどれだけ話 しあったところで、それが会話になるわけはなかったのだ。我々はまったく別の言語を話し ているようなものだった。死の床にあるダ一フィ・ラマに向かって、エリック・ドルフィーが ハス・クラリネットの音色の変化によって、自動車のエンジン・オイルの選択の重要性を説 いている方が、あるいは我々の会話よりはいくぶん有益で効果的だったかもしれない。 誰かと係わることによって長いあいだ感情的に乱されるということは、僕にはほとんどな ぎい。不愉快な思いをして、それで誰かに対して腹を立てたり苛立ったりというようなことは もちろんある。しかし長くは続かない。僕には、僕自身の存在と他人の存在とを、まったく 棒別の領域に属するものとして区別しておける能力がある ( これは能力と言ってさしつかえな 部いと思う。何故ならそれは、自慢するわけではないが、決して簡単な作業ではないからだ ) 。 第つまり僕は、何かで不愉快になったり苛立ったりしたときには、その対象をひとまず僕個人 とは関係のないどこか別の区域に移動させてしまう。そしてこう思う。よろしい、僕は今不 愉快になったり苛立ったりしている。でもその原因は、もうここにはない領域に人れてしま った。だからそれについてはあとでゆっくりと検証し、処理することにしようじゃないか、 と。そうして一時的に自分の感情を凍結してしまうわけだ。あとになって、その凍結を解い てゆっくりと検証を行ってみて、まだたしかに感情がかき乱されるということもある。しか しそのようなことはむしろ例外に近い。しかるべき時間の経過によって、大抵のものごとは
僕は自己紹介をしたあと、自分は近いうちにクミコと結婚するつもりでいるのだと言った。 僕はできるだけ正直に彼に説明した。今は法律事務所で働いているが、それは正確には自分 の望んでいる仕事ではない。まだ自分自身を模索している段階なのだ、と僕は言った。そう いう人間が彼女と結婚するのは、あるいは無謀に近い行為かもしれない。しかし僕は彼女を 愛しているし、彼女を幸せにできると思う。我々はお互いを癒しあい、お互いに力を与えあ うことがでをると田むう、と。 しかし僕の言ったことは、綿谷ノボルにはほとんど理解できなかったようだった。彼は腕 ぎを組みながら、何も言わずに僕の話を聞いていた。話し終えても、彼はしばらく身動きもし なかった。何か他のことをじっと考えているように見えた。 棒最初のうち、彼の前にいることがひどく居心地わるく感じられた。それはたぶん自分の置 部かれた立場のせいだろうと思った。初対面の相手に向かって、実はあなたの妹さんと結婚し 第たいのですが、と切りだすのはたしかに居心地のいいものではない。しかし彼と向かい合っ ているうちに、居心地のわるさというようなものを越えて、僕はだんだん不快な気持ちにな ってきた。まるですえた臭いを放っ異物が少しずつ腹の底にたまっていくような気分だった。 彼の言動の何かが僕を刺激したわけではない。僕が嫌だったのは綿谷ノボルという人間の顔 おお そのものだった。僕がそのときに直観的に感じたのは、この男の顔は何か別のものに覆われ ているということだった。そこには何か間違ったものがある。これは本当の彼の顔ではない。 僕はそう感じたのだ。 145 にお いや いや
僕はうなずいた。「仕事なんだから、遅くなることもある。それはかまわないよ。君が疲 れてるんじゃないかって心配しただけだよ」 彼女は長いあいだシャワーに人っていた。僕は彼女が買って帰ってきた週刊誌をばらばら と読みながら、ビールを飲んでいた。 ふとズボンのポケットに手をつつこむと、そこにはまだアル。ハイトのギャラが人ったまま になっていた。僕はその金を封筒から出してもいなかった。そして僕はそのアルバイトのこ とをクミコには話していなかった。べつに隠すつもりはなかったのだが、話す機会をなくし て、なんとなくそのままになってしまっていたのだ。そして時間が経過すると、僕にはその ことが不思議に話しづらくなってしまった。近所に住んでいる奇妙な十六歳の女の子と知り 合いになって、ふたりで一緒にかつらメーカーの調査のアル。ハイトに行ったんだよ、ギャラ じは思ったより悪くなかったよ、と言えばそれで済んだのだ。クミコは「へえ、そうなの、良 ね かったわね」と言って、それで話は終わってしまったかもしれない。しかし彼女は笠原メイ について知りたがるかもしれなかった。僕が十六の女の子と知り合ったことを気にするかも しれなかった。そうなると僕は笠原メイというのがどういう女の子で、僕がいつどこでどう いう風に彼女と知り合ったかというようなことを、初めからいちいち説明しなくてはならな いかもしれない。僕はものごとを順序だてて他人に説明するのがあまり得意ではないのだ。 僕は封筒から金だけを出して、それを財布に人れ、封筒は丸めて屑かごに捨てた。人はこ へつにそれ のようにして少しずつ秘密というものを作り出していくのだな、と僕は思った。。 224
できることならそのまま席を立ってさっさと帰ってしまいたかった。でも話し始めた以上、 そんな風に中途半端に切りあげることはできない。それで僕は冷めたコーヒーを飲みながら、 そこに踏みとどまり、彼が話し始めるのを待っていた。 「正直に言って」と彼はまるでエネルギーを節約しているような小さな静かな声で話し始め た。「君が今言ったことは私にはよく理解できないし、またあまり興味も持てないように思 う。私に興味があるのはもっと違った種類のことなのだけれど、それは君にはたぶん理解も できないし、興味も持てないと思う。結論を要約して言えば、君がクミコと結婚したいと思 ル クい、クミコが君と結婚したいと思っているのなら、それに対して私には反対する権利もない し、反対する理由もない。だから反対しない。考える迄もない。しかしそれ以上のことを私 には何も期待しないでほしい。それから、私にとってはこれがいちばん重要なことなのだが、 私の個人的な時間をこれ以上奪わないでほしい」 ね そして彼は腕時計を見て、立ち上がった。もう少し違う喋り方をしたような気もするのだ が、僕には正確な一一一一口葉づかいまでは思いだせない。しかし間違いなく、これが彼のそのとき の発言の骨子である。とにかくそれは非常に簡潔にして要を得た発言だった。余計な部分も なければ、足りない部分もなかった。彼の言わんとすることは非常に明確に理解できたし、 彼が僕という人間についてどのような印象を持ったかもおおむね理解できた。 そのようにして我々は別れた。 クミコと結婚して義理の兄弟という関係になったせいで、僕と綿谷ノボルはその後何度か 146 まで
で話を終えて欲しくはなかった。「もし僕の時間のことだけを気にしているんだとしたら、 そんな必要はありません。今日の午後はどうせ暇なんです。そこまで話してしまったんだか ら、きちんと最後まで話していったらどうですか。話はもっと長く続くんでしよう ? 」 「もちろんもっと長く続きます」と加納クレタは立ち上がったまま、僕の顔を見下ろすよう にして言った。両手で。ハッグのストラップをぎゅっと握っていた。「これまでのところはい わば前置きのようなものなんです」 僕はちょっとそこで待っていてくれと言って、台所に行った。流し台に向かって二度深呼 ル ク吸をしてから、食器棚から二個のグラスを出し、氷を人れた。そして冷蔵庫のオレンジ・ジ ュースを注いだ。ト / さな盆の上にその二個のグラスを載せ、それを持って居間に戻った。そ れだけの動作をずいぶんゆっくりと時間をかけてやったのだが、僕が戻ってきたとき、加納 じクレタはまだじっと立ったままだった。でも僕が彼女の前にジュースのグラスを置くと、思 わき ね いなおしたようにソファーに腰を下ろし、バッグを脇に置いた。 「本当によろしいのですか」と彼女は僕に確かめるように尋ねた。「すっかり最後まで話し てしまって」 「もちろん」と僕は言った。 加納クレタはオレンジ・ジュースを半分飲んでしまってから話の続きを始めた。 「もちろん私は死ぬことに失敗しました。それはもう岡田様にもおわかりだと思います。私 が死ぬことに成功していましたら、私はここにこうして座ってジュースを飲んだりはしてい 176