アメリカ - みる会図書館


検索対象: 村上朝日堂はいほー!
15件見つかりました。

1. 村上朝日堂はいほー!

としたバ 1 に入り、ついでにという感じで食事を注文した。メニューをみると "SURF AND TURF ごというのがある。文字通り訳せば「波と芝生」ということになる。よくわか えび らんけどまあいいやと注文してみると、やたら大きな海老のバター炒めと厚さ五センチはあ るステーキとピラフがたつぶり、それにおおもりのサラダまでついていた。なるほどね、そ れで「波と芝生」かと納得したわけだが、この量がまた無茶苦茶に多い。お見せできないの キ とてもまともな人間が食べきれる量ではない。それでたしか千五百円くらいだ が残念だが、 テ スったと思う。肝、いの味のほうもわりに僕好みのシンプルなもので、肉だって柔らかくてきち 一んとしたものだった。こういうしつかりとしたステーキがなんということのない町の普通の ーで出てくるというのは、アメリカの底力というべきなんだろうな、と感心してしまった まず 一りした。みんなアメリカのステーキは大きいだけで不味いというけれど、僕が南部で食べた テ ス ステーキはだいたいみんな美味しかった。つけあわせのフライド・ポテトがかりかりつとし わき 一ていて、ジューシーな肉にナイフを入れると肉汁が脇のピラフにしみこんでね。 しかしこういう文章を書いているとだんだんステーキが食べたくなってくる。困ったもの ですね。 アメリカの小説にはよくステーキを食べるシーンが出てくるが、僕か読んだものの中でい 長ー - リノ ・チェイスの『ミス・プランディッシの蘭』のでだ ちばん美味しそうだったのはハー しの部分である。小説そのものも面白いのだけれど、それとは別にこのでだしの部分を読む 145 らん

2. 村上朝日堂はいほー!

れているような気がする。会話にはもちろん技術が絶対に必要だけれど、まず自分という人 間の手応えというか存在感がなければ、それはただ構文と単語の丸暗記に終わってしまう。 そしてそういう会話力はどれだけ意味が通じてもそれより先にはまず進まないし、そういう おざわせいじ タイプの広がりのない会話力を僕は全然好まない。例をあげると小沢征爾氏の英語の喋りな んてあれだけ外国にいるわりに決して流暢とは言いがたいのだけれど、とても信頼感の持て るいい喋りである。どこかいいのかと訊かれてもうまく説明できないか、聞いていて「うん、 そうだな」と自然にうなずいてしまうところかある。逆にけっこう流暢に英語を喋るのにど うも信頼できそうにない人もいる。例をあげるとカドが立つのであげないけれど。 僕が大変に困るのは、僕が翻訳をしていることを知っている外国人と会ったときである。 堂 へらべらだろうと思いこんでいる 日だいたい相手はみんな翻訳しているくらいだから英語が。 社 ( アメリカ人にしてみればまあ当然そう思うだろう ) 。だからいつも冷汗をかくことになる。 日アメリカに一何ったとき、ミネソタ州セント・ポールとい、つ町でスコット・フィッンジェラ ルドをモデルにした芝居を見にいったのだが ( スコット・フィッツジェラルドはセント・ポ ールの生まれである ) 、芝居の終わったあとに司会者のような人が舞台に出てきて、「日本の 作家で、スコット・フィッツジェラルドの翻訳もやっておられるミスター・ムラカミかここ においでになっておられます。ひとつお話をうかがって : : : 」と観客に紹介し始めた。あの あいさっ ときは本当に辛かった。なんとか簡単に挨拶だけやって退散しようとしたら、十人くらいが 140 つら

3. 村上朝日堂はいほー!

福神漬としての懐疑 全な際の だして細かくその「わからない」という回答に 至った経緯を説明することもできるのだが、 かんせん話が長くなりすぎるし、だいいち質問 者はそんな説明を求めているわけではないのだ。 相手が求めているのは「 6 点」とか「 8 ・ 5 点」といったただの数値である。だから僕はア ンケートとい、つのはあまり好きではない 新聞の世論調査の結果なんかを見ると、「わ からない」とか「答えたくない」とか答えてい る人々がだいたい五パーセントずつくらいいる レけれど、僕にはこういう人の気持かよくわかる。 たとえば「あなたはアメリカという国を信頼 できますか ? 次のうちから選んで下さい」 ①信頼できる ②ある程度信頼できる ③あまり信頼できない ④信頼できない

4. 村上朝日堂はいほー!

を使うのなら、いくら「水物」であるにせよ一人でこせこせと小説を書いていたほうがずつ それで今のところ夫婦二人一応飯が食えているんだからそれでいいじゃないか、先 のことは先になってまた考えりやいいや、と田 5 う。要するに面倒臭いのである。とことん利 殖には向かない性格だと思う。べつに自漫しているわけではない。ただ単にそういう能力に 欠けているだけである。 だいきようこう ところで話をスコット・フィッツジェラルドに戻すと、彼は一九二九年のあの大恐荒でま なぜ ったく被害を被らなかった数少ないアメリカ人の一人であった。何故なら被害を被ろうにも みぞう 資産というものを全然持っていなかったからだ。一九二〇年代という未曾有の好景気の時代 を過ごし、あれだけ金を儲けながら彼は殆ど一片の資産をも残さなかったのだ。小説以外に 日は . 何、も。 社僕はスコット・フィッツジェラルドのことを思、つと、とても励まされる。経済観念につい ていえば、僕だって少なくとも彼よりは少しましだと。 128

5. 村上朝日堂はいほー!

ここに収められたエッセイは一九八三年から約五年間にわたって書かれたものです。その 大部分は『ハイファッション』という雑誌に連載されました。連載は三十五回続いたのです が、あとになって読み返してみるとそのうちの十二回ぶんはあまり気に入らなかったので単 行本には収録せず、そのかわりに他の雑誌のために書いたり、あるいはあてもなく書いて放 りだしておいたエッセイを押入れから一山ひつばりだしてきて、使えそうなものに手を入れ、 あ八編を追加しました。 僕にとっての一九八三年から八八年というと、年齢的には三四歳から三九歳までで、小説 でいうと『羊をめぐる冒険』から『ノルウェイの森』までの時期になります。このあいだに 僕は四回くらい弓 ーっ越しをし、あとの何年かはヨーロ ッパに住んでいました。あちこちと移 り歩いてまあけっこ、つにしかった : といいながらまたまた引っ越して今度はアメリカに住 んでいるのだけれど。 昔に書いたものだから、細かく読んでいくといろいろと今の実情にそぐわない部分もある 181 亠の A かさ

6. 村上朝日堂はいほー!

そう言われてみてみると、たしかに将軍の家の庭には東南アジアから持ち帰ったと思われ る置物や飾り物があちこち見受けられる。考えようによってはマダム・タルヴァンデの幽霊 よりはインドシナの地に倒れた何十万、何百万の人々の血の方がずっとリアリティーがある わけだけれど、この優雅なチャールストンの町でそんなこと言いたてたって、それは野暮と いうものである。それにウォルターだってとても親切な人なのだ。こんどの週末に友人たち ーティーをしたりする と大型ョットに乗って近くの島に行って、泳いだりバーベキュー 霊んだけれど、君も一緒に来ないかと誘ってくれる。日程の関係で残念ながら彼らに同行はで のきなかったけれど、でもべつに島まで行かずとも、この町でのんびりとしているだけで心は こぎれい ゆっくりと和んでくる。たぶんここの人々には この気品のある静かで小綺麗な町に住む ス ほとん 7 人々には インドシナかどういうところかなんて殆ど何もわかりはしないのだ。要するに チそれだけのことなのだ、と僕は思う。夜の十時半に月明りの下で、ウエストモアランド将軍 家の庭先のプールで泳ぎながら。 チャールストンは美味い食事ができる町である。やたら沢山レストランがあるし、その味 のレヴェルもアメリカの水準からすればかなり高く、失望させられることはあまりない 僕はクイーン通りにある『プーガンズ・ポーチ』という南部風シーフード・レストランか でたらめ 気に入って、ここで何度か夕食を食べた。華氏百度という出鱈目な暑さにもかかわらず、こ

7. 村上朝日堂はいほー!

それを誤解していたのである。だから今でもラジオのニュースで「キシャカイケン」という 言葉を耳にすると、ダレス国務長官を乗せた夜汽車が ( 僕の想像の中では汽車会見の汽車は いつも夜汽車なのだ ) 広々としたアメリカの平原を横切っていく一九五〇年代的風景を一瞬 思い浮かべてしまうことがある。その誤解が解消されてから約四半世紀もの歳月が経過した というのにである。 それからこれは前のふたつの例とは違ってもっと重大な結果をもたらす思い違いだけれど、 一僕は長いあいだ「相手の目をじっと見て話をするのは大変失礼なことだ」と思いこんでいた。 どこでどのような経過を経てこんな誤解が生じたのかは不明だが、とにかくそう信じていて、 いつもなるべく相手の目を見ないようにして人と話していた。その誤解は結局高校生になっ 堂 日て誰かに「ちゃんと相手の目を見て話すようにした方がいいよ」と忠告されるまでつづいた。 社「相手の目を見ないと、何かやましいところがあるか自分に自信がないからだと思われるこ とになるし、それにだいたい失礼なことだから」と。 しかしそうは言われても、価値観の百八十度の転回というのはそうそう簡単にできること ではない。 つい昨日まで相手の目を見ないのが礼儀だと思っていた人間に、何の抵抗もなく 相手の目をのぞきこむことができるわけはない。理屈ではそれでいいのだとわかっていても、 相手の目を見ているとその心の奥底までじっとのぞきこんでいるような気がして、どうにも 落ちつかないのである。これはべつに誇張して言っているのではない。ずっと相手の目を見

8. 村上朝日堂はいほー!

デスクをひとっ定めるのだ。そしてそこに原稿用紙やら ( アメリカには原稿用紙はないけれ そろ ど、まあそれに類するもの ) 、万年筆やら資料やらを揃えておく。きちんと整頓しておく必 要はないけれど、いつでも仕事ができるという態勢にはキープしておかなくてはならない そして毎日ある時間をーーーたとえば二時間なら二時間をーーーそのデスクの前に座って過ご すわけである。それでその二時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。しかし そううまくはいかないから、まったく何も書けない日だってある。書きたいのにどうしても うまく書けなくて嫌になって放り出すということもあるし、そもそも文章なんて全然書きた くないということもある。あるいは今日は何も書かない方かいいな、と直観が教える日もあ まれ る ( ごく稀にではあるけれど、ある ) 。そういう時にはどうすれば、ゝ、 たとえ一行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい、とチャンドラー 朝 社は一言う。とにかくそのデスクの前で、一一時間じっとしていなさい、と。 その間ペンを持ってなんとか文章を書こうと努力したりする必要はない。何もせずにただ ほおっとしていればいいのである。そのかわり他のことをしてはいけない。本を読んだり、 雑誌をめくったり、音楽を聴いたり、絵を描いたり、猫と遊んだり、誰かと話をしたりして はいけは ) 。 書きたくなったら書けるという態勢でひたすらじっとしていなくてはならない たとえ何も書いていないにせよ、書くのと同じ集中的な態度を維持しろということである。 こうしていれば、たとえその時は一行も書けないにせよ、必ずいっかまた文章が書けるサ せいとん

9. 村上朝日堂はいほー!

とか「気取っているとやけどをします」とか「下半身の冷えに気をつけて」とか、もうそう い、つのばかりである。たまには「何もかもわすれて恋の炎に身を焦がしなさい」とか「思い 切って芸術方面に」とか書いてあってもいいじゃないかと思う。星占いページの担当ライタ ーは山羊座の < 型の悪口を書くのを唯一の楽しみにしてやっているとしか僕には思えない。 山羊座の < 型の人にこの話をすると ( どういうわけかけっこうまわりにいるのだ ) 、みん なそうだそうだと賛同してくれる。みんな山羊座の < 型であることにとことんうんざりして いるのだ。僕だってたまには女の子にむかって「俺はさそり座の < だから、下手にかかわる みずがめ 羊と我をするよ」というくらいのことはさらっと言ってみたい。それが駄目なら水瓶座の CQ しい。なんだって山羊座の < 型よりはましだ。 う型でもいし それが駄目なら獅子座の 0 型でも ) ところであまりイメージ的にばっとしない山羊座だが、山羊座出身の有名人というのは他 わ の星座に比べて多いか少ないか一度調べてみたことがある。アメリカの有名人紳士録みたい なのを繰って、一日がかりでひとりひとり星座を調べてみたのだ。そして星座別の表にして みた。結論からいうと、とくに有名人の多い星座、少ない星座というのはない。だいたいみ んな平均している。芸術方面には向かないといわれる我が山羊座だってそう捨てたものでは ない。デヴィッド・ボウイもダイアン・キートンもケイリー ・グラントもドナ・サマーも、 みんな山羊座である。 しこともあるかもしれない 山羊座のみなさん、みんなでがんばろう。そのうちにい、

10. 村上朝日堂はいほー!

かどうかは大変むずかしいところである。日本も国際社会化してるんだからそれくらい必要 でしようと言われればまあそのとおりだとは思うけれど、その一方でたまに外人に道を訊か れるくらい "l'm so 「「 y 」 cannot speak English" で済むだろうにとも思、つ。だって外人に道 を訊かれることなんて三年に一回もないでしよう ? ( ちなみに僕が日本で外人に道を訊か れたことはこの十年間でたった一度しかない ) 。そのためにわざわざ英会話教室に通うとい うのは、かなり不経済な時間の使い方ではあるまいか ? その時間があればもう少し人生に とって有益なことができるのではないか ? まあ人の勝手といえばそれまでだけど。 はや それから今流行っている幼児のための英会話教室というのもよくわからないですね。うち の甥もちょっとやっていて "Thank you ve 「 y much" "You a 「 e welcome" なんてやっている 日けれど、ああいうのもやはり必要なんだろうか ? 子供の頃の語学学習がいちばん必要なん 社だと言われればそれまでだけれど、普通の六歳の子供がどうしてバイリンガルにならなくち ゃいけないのか僕には全然理解できない。日本語もちゃんとできない子供が表層的にちょこ っとバイリンガルができてそこにいったい何の意味があるのだろう ? 何度も一言うようだけ れど、才能かあるいは必要があれば、子供英会話教室に通わなくったって英会話は人生のど こかの段階でちゃんとできるようになる。大事なことはまず自分という人間かどういうもの に興味があるのかを見定めることだろう。日本語の真の会話がそこから始まるのと同じよう 英語の会話だってそこから始まる。たとえば僕は高校時代アメリカの小説ばかり読んで