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検索対象: 村上朝日堂はいほー!
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1. 村上朝日堂はいほー!

思った人だっているだろうと推測する。あるいは中にはひとりくらい「え ? 私服になって たんですか ? 三日前から ? 気がっかなかったなあーとい、つ人だっているんじゃないだろ うか ? 僕は会社勤めをしたことがないので、確信を持って断言することはできないけれど、 人が集まるところ必ずバラケのようなものはあるし、それは銀行だって文壇だってそれほど のかわりはないんじゃないかという気がする。集団というのはそういうものである。みんな が同じ考えを持って、みんなが同じ感じ方をするものではないと思う。女の子が私服を着る ことを、つつとうしいと感じる人もいれば、なかなか可愛いと感じる人もいると思、つ。それを ショックだった」という記述だけで チ「日本長期信用銀行の男子行員にとって、カルチャー 加断定的にしめくくるのは、これはいささか強引なのではないだろうか。僕はこの文章を読ん 丁で、とても懐疑的になってしまった。それから「女の子」が「同僚」に変質して見えたなん 用 ていうのは、もっときめつけすぎである。もちろんそう感じた人もいただろう。でも全員が 長一致してそういうクリアな結論に行き着いたとは僕にはとても思えない。世界はそんなに単 本 純ではない。 たぶんこの記者は何人かの行員に「女子行員の私服についてどう思いますか ? 」と質問し たのだと思う。「どうかな、わかんないな。べつにいいんじゃない ? 」と答えた人もいたか しいよ。俺にしいから、そういうの考えてられないと答 もしれない。「そんなのどうでも、 すると中に「これは えた人もいるかもしれない。でもそういう答えは記事にはなりにくい ・ショック = 日 おれ かわ

2. 村上朝日堂はいほー!

ないではないか。それは誰がどう考えたって当然至極の話である。そうでしよう ? 日本語 で歌って音痴な人が英語で歌っても音痴なのと同じ理屈ではないですか ? 英会話習得における日本人の根本的な思い違いはおそらくこの辺にあるのではないかと僕 は田 5 う。会話というのは生まれつきうまい人とうまくない人かいるし、会話のうまくない人 なせ がどれだけ英会話に堪能になろうとしても、それはおのずから限界というものがある。何故 ならばそれは生き方の姿勢の問題だからである。日本語の文章を書くのが苦手な人がどれだ け英作文を習ってもおのずから限界があるのと同じである。 ところが世の中の多くの人は外国語会話というのを後天的に身につけることのできる純粋 な技術として捉えて考えているように見える。それなりのルールを覚え、しかるべき単語を 堂 きようせい 日 上手に暗記し、発音を矯正し、場数を踏めば誰でも英会話に堪能になれるのだという風に。 朝 ちまた あふ 社だからこそあれだけ巷に英会話教室が溢れ、書店にはテープやら本やらが山積みになりなが ら、きちんとした英会話能力を身につけた人があまり見当たらないという事態が生じるのだ。 僕は断言してもゝ しいけれど、その辺の町の英会話教室で英会話を身につけるのはまず無理で ある。もちろん身につけることのできる人だって中にはいるだろうが、それはよほど勉強と いう作業の好きな人か、あるいは語学・会話の才に先天的に恵まれた人くらいだと思う。そ れ以外のごく当たり前の一般市民にとっては、英会話教室なんてはっきり言ってーーまあ頭 むた の訓練にはなるかもしれないけれど 授業料と時間の無駄づかいだろう。英会話教室の営 とら

3. 村上朝日堂はいほー!

いたから、まず読み書きから英語に入り、そこから少しすっ会話に入っていった。だから会 話ができるようになるまでにずいぶん時間がかかったし、初めに言ったように今だってとて とっとっ も日ザ意とはい、んなし = = ロ 、。内々とした不器用な喋り方である。発音だってヤクザである。うまく さっと言葉が出てこない。でもそれが僕という人間なのだ。僕には向くこともあるし、向か ないこともあるのだ。そう思ってなんとか間にあわせている。僕らはとても不完全な存在だ ワ・ し、何から何まで要領よくうまくやることなんて不可能だ。世の中にはいろいろな人間がい 凵る。ひとりひとり良いところもあれば、悪いところもある。得意なものもあれば不得意なも のもある。女の子を口説くのがうまい人もいれば、日曜大工のうまい人もいる。セールスの 得意な人もいれば、黙々と小説を書くのに向いた人もいる。我々は自分以外の人間になるこ とはできない。 これは根本的な原則である。でもそれにあわせて自分にあったスタイルを身 につけていくことは可能である。だからたとえば会話のことを考えても、喋ること自体の得 3 意・不得意はともかくとして、人にはそれぞれにいろんな会話のスタイルがあるはずなのだ。 得意な人には得意な人の会話のスタイルがあり、不得意な人には不得意な人の会話のスタイ ルがあるべきなのだ。 外国に行くとよくわかることだけれど、ろくに言葉が通じなくても気の合う人間とはちゃ これ んと気が合うし、どれだけ言葉が通じても気の合わない人間とはやはり気が合わない。 かちゅ・つ はもう自明のことなのだが、 ーの渦中では意外に忘れら 今の日本の圧倒的な英会話フィーバ

4. 村上朝日堂はいほー!

までも、くすぐったさは昔に比べてずいぶん軽減されたように田」う。おかげで床屋に行くの か昔よりずっと苦痛ではなくなってきた。人というものは、こういうちょっとしたことの積 みかさねで歳をとっていくものなのだろう。 しかしそれでもまだ「村上さんは肩がこらないんですね。これくらい筋肉の柔らかい人っ てあまりいないですよ」と床屋さんにときどき言われる。どうしてだろうな、と僕は田 5 う。 両親も肩のこる体質の人だったし、女房もそうだ。僕だけが全然こらない。 「いろいろと肩を揉んでますけれど、いちばん肩がこる人っていうと、これは何と言っても 将棋の棋士の方ですね」と床屋さんが言う。僕の行く床屋は将棋会館の近くなので、将棋を さす人がよく来るのである。「あれくらい肩のこってる人ってあまりいないですね。もう石 堂 みたいにこちこちですと床屋さんは一言う。きっと頭を使うせいなんだろうな、と僕は田 5 う。 朝 おれ 社気の毒である。でも待てよ、考えてみたら俺だって一応小説家なんだし、そこそこに頭使っ てるんだけどな、とも思う。いや、実際はそれほどは使ってないんだろうか ? 何となく頭 を使っているような気がするだけなんだろうか ? 小説を書くというのは将棋をさすよりは 頭を使わない作業なんだろうか ? この床屋さんに僕以外にも小説家が客として来ていれば そのへんの比較もできるのかもしれないが、残念ながら小説家の客は僕くらいしかいないの で、比較のしようがない。あるいは「私もいろんな人の肩を揉んでますか、小説家くらい肩 のこらない人もいないですね」なんて言われているのかもしれない。

5. 村上朝日堂はいほー!

ーを越えてしまっているわけである。その仮説をもっと追求すれば「なんとかポルノ・双子 責め」なんていう領域に入っちゃうし、僕としてはあまりそういう領域にまで物事を追求し たくはなし 、。少なくとも今の段階でそこまで話をややこしくしたくはない。僕が双子に求め けいじじよ・つ ているのは、そのような男と女一対一のリアルな仮説を排除した、いわば形而上的な領域な のである。 つまり僕が追求しているのは、制度としての双子である。コンセプトとしての双子である。 そしてその双子的制度なりコンセプトの中で自分を検証してみることなのである。すいぶん まわりくどい検証の仕方だとは田 5 うけれど。 でも現実的に細かく考えていくと、双子と交際するというのもけっこう大変かなとも思う。 堂 日まずだいいちに費用がかかる。食事代だって普通のデートの二倍かかる。プレゼントだって、 上 どちらか一人だけにというわけによ ーいかない。同じものをきちんとふたっ用意する必要があ るだろう。費用だけではない。二人それぞれに対して常に公平に振る舞うというのはとても むずかしいことだと思う。たとえば自動車に乗ってデートするとき、一人をフロント・シー し。ーし力ないと田 5 う。そ、つすると、一一 トの隣に乗せて、もう一人を後ろに乗せるというわナこよ、 きようざ 人とも後ろに乗せなくてはならないということになるし、これではいささか興醒めである。 それからディズニーランドに行ってスペース・マウンテンに乗るときだってそうだ。女の子 なんて叫んで、僕だけ一人でぶすっと乗るこ 「きや 1 二人が並んで乗って「きゃー

6. 村上朝日堂はいほー!

財好きな作家を三人選べと言われたら、すぐに答えられる。スコット・フィッツジェラルド、 レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カボーティ。この三人の小説だけはかれこれ二十 ラ年くらい飽きもせずに何度も何度も読みかえしている。長い外国旅行するときはいつもこの 】ン 三人の小説を必ずスーツケースの中に入れていく。何度読みかえしてもがっかりするという ことがない。長期旅行用にあと二人別の作家をプラスしろと言われれば、これはフォークナ フ ーとディッケンズ。この二人の作家はけっこう旅行に向いている。旅行ででもなきや読む気 ツになりつらいとい、つところはいくぶんあるにせよ。 ス さてフィッツジェラルド、チャンドラー、カボーティの共通点というと、これはやはり私 生活があまりまともじゃなかったことだろう。三人ともどう控え目にいっても清緒が安定し ているとは言いがたい人々であった。カボーティは極めてセンシティヴな性格で、ゲイで、 時折の奇行で有名だった。チャンドラーは二十歳も年上の妻と奇妙な結婚生活を送り、アル コール中毒だった。フィッツジェラルドはやはりアルコール中毒で、経済観念ゼロで、借金 123 スコット・フィッツジェラルドと財テク

7. 村上朝日堂はいほー!

している。まあのんびり生活できるくらいには本も売れているし、その結果ある種の有名人 にはなった。 有名人であるのがどういうことかというのは、これは有名人になってみなくてはわからな そして有名人にもいろんな種類があり、いろんな側面がある。でもひとくちで言うなら、 有名人になるというのは、自己を取り囲む好意と悪意の総量を両方向に飛躍的に増大させる ことなのだ。誰。 こも ( おそらく ) まわりに何人かは自分のことを好いてくれる友達のような 人々かいるだろう。そしてそれと同時にあまり好いてはいない人々もまた何人かはいるだろ はあく う。でも誰が自分を好いていて、誰が自分を好いていないか、大体のところは把握できる。 それは把握可能な範囲の世界なのである。「松下と本田とはうまくやれるけれど、鈴木とは 堂 日まず駄目だろうな、あいっとは相性悪いから」という具合に。それが普通の人の生活だ。と 上 ころが人は一度有名になると、まったく把握不能な世界から把握不能な種類の好意や悪意を ばとう 受けることになる。あるときには無意味に罵倒され、あるときには無意味にちやほやされる。 カカ 一度も会ったことがなく、一度も関わったことがなく、名前さえ知らない相手から。そうい う人生が好きな人は有名人に向いている。好きじゃない人は : : : あきらめるしかない。 僕は僕自身のやり方でそれに対処している。僕は原則的に村上春樹という作家と、村上春 樹という個人を完全に二つに分けて物事を考えることにしている。つまり僕にとって作家・ 村上春樹はひとつの仮説である。仮説は僕のなかにあるが、僕自身ではない。僕はそう考え 150 ため

8. 村上朝日堂はいほー!

がとう」とお礼を言われたりしたらそれはやはり気持の良いものだろうと思う。その分野が 何であるにせよ、そういう風に他人に素直に喜ばれるというのはとても嬉しいことなのだ。 僕だって、僕の書いた本を読んで「ああ面白かった」と喜んでくれる人がいればこそ、こう して小説家をやりつづけているのである。励まされるし、もっと面白いものを書こうとも思 う。べつに褒めてもらおうと思って書いているわけではないけれど、もし誰も褒めてくれな かったら、いくら僕があっかましくてもめげて途中でやめていると思う。人に喜ばれて嫌な 気持になる人はいない。そういうのか続けばそのままプロにだってなっちゃうだろう。これ いいだろうと思う。ひとつの傾向が生まれると、それが自動的にど は才能の傾向と呼んでも んどん先に進んでいくのだ。そしてある人は結果的にプロになる。その傾向がどのようにし 堂 て生まれるのか僕にはよくわからない。たぶんその傾向は本来的に人間にインブットされて 朝 村いるのだろう。ある人は他人の体をちょっちょっといじっただけで、ああここかこういう風 にこってるからここをこう押さえればいいんだなとわかるし、ある人は全然わからなくて ( つまりそういう才能がインブットされていなくて ) 、間違えた関節をやみくもにぎゅうぎゅ う押して女房の叱責を買ったりする。世界はこのように激しく不公平なのである。 僕はどうしてマッサージのプロにならなくて ( あるいはなれなくて ) 、こうしてプロの作 家になっているんだろうと、ときどき真剣に不田 5 議に思う。それはあるいは本質的な違いで はなくて、向き不向きのほんのちょっとした違いだったんじゃないかなとも思う。そのよう

9. 村上朝日堂はいほー!

れているような気がする。会話にはもちろん技術が絶対に必要だけれど、まず自分という人 間の手応えというか存在感がなければ、それはただ構文と単語の丸暗記に終わってしまう。 そしてそういう会話力はどれだけ意味が通じてもそれより先にはまず進まないし、そういう おざわせいじ タイプの広がりのない会話力を僕は全然好まない。例をあげると小沢征爾氏の英語の喋りな んてあれだけ外国にいるわりに決して流暢とは言いがたいのだけれど、とても信頼感の持て るいい喋りである。どこかいいのかと訊かれてもうまく説明できないか、聞いていて「うん、 そうだな」と自然にうなずいてしまうところかある。逆にけっこう流暢に英語を喋るのにど うも信頼できそうにない人もいる。例をあげるとカドが立つのであげないけれど。 僕が大変に困るのは、僕が翻訳をしていることを知っている外国人と会ったときである。 堂 へらべらだろうと思いこんでいる 日だいたい相手はみんな翻訳しているくらいだから英語が。 社 ( アメリカ人にしてみればまあ当然そう思うだろう ) 。だからいつも冷汗をかくことになる。 日アメリカに一何ったとき、ミネソタ州セント・ポールとい、つ町でスコット・フィッンジェラ ルドをモデルにした芝居を見にいったのだが ( スコット・フィッツジェラルドはセント・ポ ールの生まれである ) 、芝居の終わったあとに司会者のような人が舞台に出てきて、「日本の 作家で、スコット・フィッツジェラルドの翻訳もやっておられるミスター・ムラカミかここ においでになっておられます。ひとつお話をうかがって : : : 」と観客に紹介し始めた。あの あいさっ ときは本当に辛かった。なんとか簡単に挨拶だけやって退散しようとしたら、十人くらいが 140 つら

10. 村上朝日堂はいほー!

思って訊いてみると、そのあたりの土地は地下水が多くて地盤がゆるいので、地元の人は昔 からずっと手をつけないで放置していたのだが、何年か前に土地開発業者がまとめて買いあ げて分譲住宅にして売ってしまったらしいのである。「知らないで買った人は気の毒だよね え」と彼は言う。もちろん本当かどうか確証はないわけだが、 いかにもありそ、つな話だし、 もし本当だとしたらこれは布い話である。これから土地を買おうと計画されている方は地元 一のタクシーに乗って、情報を仕入れてからにした方がよさそうである。何も知らすにいわく ア ヴつきの家や土地を買って、地震が来て家が全部潰れたとか、毎晩血だらけの女の幽霊が廊下 ラを行ったり来たりするというのは、やはりいくらなんでもまずいと思う。 それからある運転手は僕に一度殺人犯を乗せたことがあるという話をしてくれた。殺人犯 といっても、殺人を犯したあとの殺人犯ではなくて、殺人を犯す前の殺人犯である。だから タ 県そのタクシ 1 に乗った段階では彼は。ーー・説明がややこしいけれどーーーやがて殺人犯となるべ 千く運命づけられた普通の人である。運転手はその前殺人犯時代の「普通の人」である殺人犯 をタクシーに乗せて、その顔を何カ月か後にテレビのニュースで見かけるまでずっと記億し ていたのである。「あ、こいつあのときの客だってすぐにわかったね。テレビ見てて」 「だって一日に百人くらいの客を乗せるわけでしよう ? と僕は訊いてみた。「それでその 一人の顔だけを何カ月も覚えていたってこと ? そのときに何か特別なことがあったわけで すか ? 」