人間 - みる会図書館


検索対象: 村上朝日堂はいほー!
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1. 村上朝日堂はいほー!

こ不得意である。 とい、つよりははっきり一一一一口って相山ョ。 英会話というのがあまり得意ではない。 僕はけっこう翻訳の仕事もしているし ( ああ、実に十冊も翻訳書を出しているのだ ) 、こ たんのう このところずっと年の大半は外国暮らしをしているから、会話のほうもさぞや堪能なんだろ うと世間で思われがちなのだけれど、そんなことはなくて、恥ずかしながらまったく苦手で ある。何か用事があって外国人と会って英語で話さなくてはならないような時には、朝から なんとなく胃が重くて仕方ない。 5 でもよく考えてみれば、これは僕としては決して不自然な話ではない。だって僕は日本語 の会話からして圧倒的に不得意なのだ。よほど親しい人が相手ならともかく、人前に出ると 言葉がうまく出てこないし、すごく緊張して声がうわずってしまう。その結果ろくでもない なかづ ことを口走ってしまうし、無茶苦茶な間違いもする。よく電車の中吊り広告で「あなたは話 し下手で損をしていませんか ? 、というようなのがあるけれど、だいたいあれに近い状態で りゆ・つちょう しゃべ ある。そんな日本語もろくに上手に喋れない人間が、英語をべらべらと流暢に喋れるわけが 135 CAN YOU SPEAK ENGLISH 7

2. 村上朝日堂はいほー!

一三ロ ないで生活していた人間が急に目を見るようになると、相手の考えていることがありありと わかるようになるのである。だからまたつい相手の目から目を背けてしま、つことになる。 そんなこんなで、僕は「相手の目を見る」ということについてはすいぶん苦労をした。あ まり強く意識せずに相手の目を見て話ができるようになったのは二十五を過ぎてからのこと だ。しかし今でも心のどこかでは「本当は相手の目を見ないで話をする方が礼儀にかなって いるんじゃないか」と考えているような気もする。わりにしつこい性格なのかもしれない。 見 ときどきそんな数多くの思い違いが、思い違いとしてではなく正当な行為・状况として存 会 者在している世界がどこかにあるのではないかとふと考えることがある。そこではべッドのわ ときまで車で乗りつけられるモーテルがあり、政治家は夜汽車に乗って政局を語り、人々は相 テ手の目をのぞきこむことなく会話を交わしているのだ。僕は車を運転しないから、モーテル モ かどういう構造になっていようか関係ないといえば関係ないんだけどね。

3. 村上朝日堂はいほー!

自漫するわけじゃないけれど、僕は昔かなり貧乏だったことがある。結婚したばかりの頃 で、我々は家具も何もない部屋でひっそりと生きていた。ストープさえなくて、寒い夜には 猫を抱いて暖を取った。猫だって寒いから真剣に人間にしがみついていた。こうなるともう のど 共生みたいなものである。町を歩いていて喉が乾いても喫茶店になんて入ったこともなかっ 堂 日こ。旅行もしなかったし、服も買わなかった。ただただ働いていた。でもそれで不幸だと思 社ったことは一度もなかった。金があればなあとはもちろん思ったけれど、ないものはないん だからまあしようがないやと思っていた。どうしようもなく金に困って女房と二人で夜中に じっとうつむいて道を歩いていて一万円札を三枚拾ったことがある。悪いとは思ったけれど、 交番には届けないでその金で借金を返した。人生も捨てたものじゃないんだ、とそのとき思 った。我々は若くて、かなり世間知らずで、そして愛しあっていて、貧乏なんて全然怖くな かった。大学を出たけれど、就職なんかしたくないやと思ってけっこう好きに生きていた。 客観的に見れば世の中からおちこばれていたようなものだけれど、不安というほどのものも 176 貧乏はどこに行ったのか ? ころ

4. 村上朝日堂はいほー!

なかった。 でもまあ、とにかく貧乏だった。 そのときの話をするときりかない。あんなこともあった、こんなこともした、と話が次か ら次へと出てくる。いわゆる貧乏自漫というやつだ。昔は人が集まるとみんなよくこの手の 貧乏自漫をした。誰かが自分がかって ( あるいは今 ) どれほど貧乏であったか ( あるか ) と いう話をする。すると他の誰かが「冗談じゃないよ、そんなの貧乏のうちにはいらねえよ おれ かと言い出す。「俺なんか一週間キャット・フード食って生きてたんだぞ」とかなんとか。こ れは僕個人の置かれた環境のなせるわざかもしれないけれど、僕のまわりには貧乏な人間が っ 行 つはいいた。彼らは冗談抜きで本当に貧乏だった。小林君は食べるものがなくて、椎茸の どしんを丼いつばい食べて食あたりした。まともな人間はそんなもの食べない。堀内君だって 乏ものすごく貧乏だった。いつも腹を減らせてよろよろとよろけながら歩いていた。ちょっと ほとん 前まで ( ほんの四、五年前まで ) 僕のまわりには車を持っている人間なんて殆どいなかった。 いたとしてもものすごい音のする三モデル前のカローラとか、汚いライトエースとか、それ くらいの車しか持っていなかった。そしてそういうのが当たり前みたいに僕らは考えていた。 でもいつのまにかみんな不田 5 議に貧乏でなくなってしまった。僕のまわりにはメルセデス を持っている人間が何人かいる。 CQ を持っているのもいるし、ポルポを持っているのも いる。僕のまわりに金持ちの知人が増えたわけではない。昔から知っている人間がみんな何 どんぶり

5. 村上朝日堂はいほー!

いたから、まず読み書きから英語に入り、そこから少しすっ会話に入っていった。だから会 話ができるようになるまでにずいぶん時間がかかったし、初めに言ったように今だってとて とっとっ も日ザ意とはい、んなし = = ロ 、。内々とした不器用な喋り方である。発音だってヤクザである。うまく さっと言葉が出てこない。でもそれが僕という人間なのだ。僕には向くこともあるし、向か ないこともあるのだ。そう思ってなんとか間にあわせている。僕らはとても不完全な存在だ ワ・ し、何から何まで要領よくうまくやることなんて不可能だ。世の中にはいろいろな人間がい 凵る。ひとりひとり良いところもあれば、悪いところもある。得意なものもあれば不得意なも のもある。女の子を口説くのがうまい人もいれば、日曜大工のうまい人もいる。セールスの 得意な人もいれば、黙々と小説を書くのに向いた人もいる。我々は自分以外の人間になるこ とはできない。 これは根本的な原則である。でもそれにあわせて自分にあったスタイルを身 につけていくことは可能である。だからたとえば会話のことを考えても、喋ること自体の得 3 意・不得意はともかくとして、人にはそれぞれにいろんな会話のスタイルがあるはずなのだ。 得意な人には得意な人の会話のスタイルがあり、不得意な人には不得意な人の会話のスタイ ルがあるべきなのだ。 外国に行くとよくわかることだけれど、ろくに言葉が通じなくても気の合う人間とはちゃ これ んと気が合うし、どれだけ言葉が通じても気の合わない人間とはやはり気が合わない。 かちゅ・つ はもう自明のことなのだが、 ーの渦中では意外に忘れら 今の日本の圧倒的な英会話フィーバ

6. 村上朝日堂はいほー!

だ。「村上さんですか ? 」と訊かれる。「ええ、そうです、と答える。それ以外に答えようが ない。そしてそこからもうひとっ先に進むために必要な話題がない。なぜなら話の中心は僕 か村上春樹であるかどうかという一点にかかっているからである。僕が「そうです」と答え てしまえばおおかたの場合話はそこで終わってしまう。どこにもたどりつけないままに終わ ってしまう。大抵の場合、相手もそれ以上何と言えばいいのかわからないし、僕だって全然 わからない。そしてよくわけのわからないまま「じゃあ」「どーも」なんて別れてしまう。 本当に変なものである。僕はどうしても、何年たっても、そういうのにうまく馴染めない ー—という人間を昔からよく知っているし、そしてそんな存在に対して見ず知らずの他人 が興味を持つなんてどうも実感として理解できないのだ。 堂 考えてみれば、子供の頃からあまり目立っ存在ではなかった。成績だって目立って良くは 朝 すなかったし、運動の方もあまりばっとしなかった。リーダ 1 の器でもなかった。社会的順応 すみ しゃべ 力にも問題があった。人前に出ると混乱してうまく喋れなかったし、ひとりで隅のほうで本 を読んでいるのが好きだった。要するにごく平凡に生きているごく普通の子供だった。目立 ちたいとも思わなかった。先生に目をかけられるというタイプの子供でもなかった。小学校 を出て、中学校を出て、高校を出て、大学を出るまでそれが続いた。みんな僕をごく普通の 少年であり、ごく普通の青年であると考えていた。僕自身そう考えていた。そうとしか考え られなかった。だって自分が普通ではないと考える根拠なんて何もなかったのだ。 ころ

7. 村上朝日堂はいほー!

だ。ノン・フィクションとい、つのは原理的に現実をフィクショナイズすることであり、フィ クションというのは虚構を現実化することなのだ。それをどちらがパワフルかと比べるのは、 はあく 無意味である。そこをきちんと把握していないと、この新聞記事のような文章が大量生産さ れて世間にばらまかれることになる。 たいきら クそれはそうと、僕は制服というのが昔から大嫌いだった。高校時代は学生服を着せられて、 あれには本当にうんざりした。まったく無意味なことだと思った。でも僕かいちばん驚いた のは、全校生徒に制服廃止、私服化についてのアンケ 1 トを取ったときに約七割くらいが あぜん と答えたことだった。これには僕もいささか唖然とした。そうか、日 チ「制服のままでいい 加本人というのは基本的にとことん制服か好きなんだと思った。みんなが私服化に反対した一 行番の理由は「私服になると服装が華美になり、競争が生まれて好ましくない」というものだ 用った。僕にはこれが信じられなかった。それはあまりにも管理者的な、ことなかれ主義的な 長発想である。すぐそこに自由があるというのに、どうしてそれを手にとらないのだ ? どう 日して後戻りなんかするのだ ? まず自由を手にいれること、そしてそれを維持するために自 分たちで問題を解決していくこと。それが我々の世界の原則ではないのか ? もちろん私服化すれば、中には華美に走る者だっているかもしれない。でもそんなのはご く一部であるはずだ。みんなが競争してせっせと高い服を着るなんてことは現実的にありえ 町ない。大抵の人間はごく普通のリーズナプルな服を着て学校に来るはずである。もし何か不

8. 村上朝日堂はいほー!

無人島の辞書 107 凵七 e in ド please 片ハよ 5 ここだけの話ですけどね : といった側面を 見せはじめる。たとえば例文ひとっとってみて も、なかなか含蓄のあるものがあってうならさ れることが多い。僕の人生観 ( といってもけっ こう貧相なもんですけど ) のかなりの部分は英 和辞典の例文で成立しているんじゃないかとい う気がするくらいのものである。 『リーダーズ英和辞典』の li ttle の項に出てい る "Little things please little minds" とい、つ例 ) ) ) 文なんか、「そうだな、たしかにそうだ」と十 回くらい一人でうなずいてしまう。日本語に訳 すと「小人は小事に興ずる」となるが、もう少 しわかりやすく言うと、「つまらん人間はつま らんことで喜ぶものだ」という風になる。 しかし僕の意見をつけ加えさせて頂くなら、 つまらない人間というのはつまらないことで喜 ぶと同時に、つまらないことで腹を立てるもの

9. 村上朝日堂はいほー!

「スペースシップ」号の光と影 175 きくて馬鹿重い恐竜的機械の習性なのだ。でもある種の人間はそういうものにある時期 ( た ぶん ) ど、つしようもなく引きつけられるのだ。個人的に、験的に、僕はそう思う。

10. 村上朝日堂はいほー!

にくることもあるけれど、星占いからすれば事態はこんなものではなくて、もっともっとひ どくなるはずだから、とにかくどれくらいひどいことになるのか、見るべきものはとことん 見てしまおうという感じで生きている。こういう生き方もこれはこれでなかなか味わい深い もっともっと底があるはすだ」なんてね。 「いや、こんなものじゃない。 と言えなくもない こういう考え方はひょっとして結婚生活における幸福の鍵ではないかとふと思うこともある。 とくに他人に積極的に勧めようとは思わないけれど、まあある種の生き方ではある。 もともとは僕は占いというのに興味のない人間で、星座とか血液型とか天中殺だとか、そ 羊 ) と田 5 っている。頭から信じないとか、そ、つい、つのを信じて 、つい、つことはヘつにど、つでもいし ういる人間を馬鹿にするとか、そういうのではない。ただ単に積極的な興味を持たないだけで ある。世の中にはまあそういうものもあっていいだろうと思っている。でも自分の方からは わ進んで関わり合いになろうとは思わない。たとえば何かの占いで「あなたは今年いいことな んてひとつもありません。どんどん落ちていくだけです」と言われたって僕としてはちっと も気にならない。興味がないから「へえ」っと田 5 うだけである。経験的に言って、そういう 占いは当たることもあるし、当たらないこともある。だからそんなことをいちいち気にして いてもしようがない。やるべきことをきちんとやっていれば、それほど悪いことは起こらな いだろ、つと田 5 っている でも僕は例外的にこの「山羊座と天秤座の組み合わせはロクなことがない」という占星学 カカ かぎ