的 - みる会図書館


検索対象: やがて哀しき外国語
241件見つかりました。

1. やがて哀しき外国語

ことを考えずにとにかく細かい部分をコレクトに揃えておけば、それですんでしまうわけだ とにかく『ニュ 1 ヨーカー』を取 から。とにかく『タイムズ』を購読しておけばいい、 っておけばいい ( まわりを見ていると取ってるだけで読んでない人が多いようだ ) 、とにか とにかくガルシア・マルケスとイシグロとエイミー・タンを くオペラを聴いておけばいい、 でも日本ではそう簡単に とにかくギネス・ビ 1 ルを飲んでおけばゝ ) 。 読んでおけばいい、 。いかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ、今はもう歌舞伎だよ、という風にどう してもなってしまう。情報が咀嚼に先行し、咸覺が認識に先行し、批評が創造に先行してい る。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう先端的波乗り競争に はもともとあまり関ってこなかった人間だけれど、でもそういう風に神経症的に生きている 人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼き 興畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとには ムしばらくは草も生えない。本来なら豊かで自然な創造的才能を持っているはずの創作者が、 ビ時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていかなくてはならないはず スの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によ 学く映ることだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずし ていったい何と言えばいいのか。 そういうことを考えると、保守的だろうが、制度的だろうが、階級的だろうが、このプリ

2. やがて哀しき外国語

204 すごく大きな、まとまりのない世界へとアメーバー的に広がっている。そのような過酷な混 沌の中から、一貫性を持ったひとつの映画世界をどうやって作りあげていくか、それがアル トマン監督の腕の見せどころであるわけだ。はたしてそんなことができるのだろうか ? 予 想されるとおり、ものごとはそう簡単にはいかない。しかしその「簡単にはいかなさ」が結 果的にはこの映画の強烈な魅力のひとつになっている。 まあ実際にご覧になればおわかりになると思うし、ご覧になる前からあれこれとタネをば らさない方がいいと思うので、あまり多くは説明しないけれど、この映画の中にはいろんな 仕掛けがある。たとえば「タイエット騒動』にコーヒーハウスのウェイトレス役で登場する リリ・トムリンは、同時に『ささやかだけれど : : : 』で男の子をはねるドライヴァー役でも ある。そして別の挿話の女主人公の母役でもある。そのようにひとびとはいろんなところ ですれ違い、それぞれの他人の話に意識的に、あるいは無意識的にかかわったり、あるいは かかわらなかったりする。ひとつの話ともうひとつの話、ひとりの人物ともうひとりの人物 が、ひとつの町ともうひとつの町とが、そういった接合点のたすけによってかさなり、にゆ るにゆると結びついていく。しかしそれにもかかわらず、ストーリーそのものはまったく説 明的ではない。それらはただ単に物理的に結びついているというだけであって、その綺ひっ きによって何かが具体的に語られたり、証明されたり、あるいは仄めかされたりするわけで はない。この見事にあっけらかんとした思わせぶりのないオフ・ビートな映画咸見は『バー

3. やがて哀しき外国語

182 僕はもうとてもとても「男の子」と呼ばれるような年齢ではないけれど、それでも「男の 子」という言葉には、いまだに不思議に心引かれるものがある。その言葉の響きや、そこに こめられた心持ちのようなものが、わりに好きだ。世の中には「いやあ、あいつはオトコだ ね」と言われるような人もいるわけだが、僕はやはりどちらかといえば「オトコ」というイ メージよりは「男の子」というイメ 1 ジの方が、まだ自分自身に近しいような気がすること がある。こんなことを言うと、だからお前は未成熟で社会化してなくて幼児的なんだと言わ れそうだけれど、必ずしもそういうものでもないだろうと僕は思う。むしろ現実的年齢とは あまりーーーもちろんまったくというわけではないがーー関係なく成立しているある種のもの の見方、価値観の問題なのではあるまいか。社会的にちゃんと成熟していながら、それと同 時にある部分では「男の子」でありつづけられる人だってきっといるはずだ。 「じゃあ男の子とはいったいどういうものなのか」ということになるわけだが、こういうの 。たしたいが心情的、感覚的なものだから、ことばできっちりと定義することはむずかし

4. やがて哀しき外国語

230 しかしはっきりと言って、アメリカの今の若い人たちはそういう種類の洋服をまず着な い。僕は今いわゆる東部「アイヴィー・リ ーグ」の大学に属しているわけで、これは六〇年 代のアイヴィー・スタイル世代からすればまさにメッカⅡ聖地みたいなものであるはずなの だが、実際に暮らしてまわりを見回してみると、ここの学生はみんなほんとうにひどい冾好 ン、材質のものを売っているのだろうと思うのだけれど、どうもそれが以前ほどは魅力的に は見えないのだ。これはあるいは全般的な時代の流れのせいかもしれないし、あるいは僕が イタリアで何年か暮らして、カラフルでエキサイティングな当地の洋服を毎日毎日目の前に してきたせいかもしれないけれど、いずれにせよそういう古くからの東部の老舗の洋服が今 の僕の目には、なんとなく堅苦しくて退屈なものに映るのだ。もちろんこういうのは個人的 な好みの領域に属する問題であって、客観的にみてどうこうという断定はむずかしい。い や、お前の一一一一口うことは間違っている、アメリカン・トラッドは今でも新鮮で、魅力的だとい う人が世間に数多くいたとしてもまったく不思議はない。僕は何もそういう服装を非難した うまでもな り、そういう服を愛好している人の足を引っ張ったりしているわけではない。い いことだが人には自分の着たい服を着たいように着る権利がある。だから僕はただ自分の感 じていることを、個人的に文章化しているだけである。ドント・ティク・イット・ レ。

5. やがて哀しき外国語

202 いうきりのない連なりを眺めていると、そのうちに人間の営みというのはいったい何の意味 を持っているのだろうとふと考え込んでしまうことになる。そういう無力感はアメリカでし か味わえない種類の感情である。これはヨーロッパでも味わえないし、日本でも味わえな 絶対的なアメリカン・オリジナルである。 この『ショート・カツツ』の中に収められた無数の挿話の羅列が観客に与えるやるせなさ も、そのようなアメリカ地表移動的無力感に共通するところがある。映画がひとつの挿話か ら次の挿話に移動すると僕らは ( すくなくとも僕は ) 、ひとつの町からひとつの町に移動す る。それらのひとつひとつは違う話であるはずなのに、僕らは次第にそれらの違いをうまく 見分けることができなくなってくるのだ。スクリ 1 ンを見つめているうちにだんだん頭が麻 痺してきて、僕らはその映画の現出する世紀末サバービアのだるい悪夢の中にひきずりこま れていく。この咸見はもちろんカーヴァーの小説世界に負うところも大きいが、基本的には やはりアルトマンの持ち味だろう。もう少し正確にいうなら、カーヴァーの造り上げた執拗 なまでに個人的な世界にインスパイアされてどんどん膨らんでいった、これもまた執拗なま でに個人的なアルトマンの世界だろう。それは膨らんで、膨らんで、膨らんで、膨らみがほ とんどその限界にまで達し、遥か遠くにまでさがらないことには、そもそもそこに何があっ たのかさえわからない。そのどこからどこまでがカーヴァーランドで、どこからどこまでが アルトマンランドであるかを見分けるのは、まったく至難の業であるーーーというか現実的に

6. やがて哀しき外国語

ズボンを穿いていようが、そんなことは僕にとってはたいした問題ではない。しかし結果的 に見ると、僕が訳しているのはたしかに男の作家ばかりだ。どうしてかその理由はわからな いけれど。でもそういうときには僕は「僕はグレイス・ペイリーの作品もいくつか訳してい ます」と一一一一口うことにしている。グレイス・ペイリーはフェミニズム的見地から見ればほば百 ーセント・コレクトの人だから、それでだいたい「まあよかろう」と許してもらえること になる。ペイリーさんに感謝しなくてはならない。でも僕がグレイス・ペイリーの小説を好 きなのは、彼女が女性作家であるからではなく、あるいはまたフェミニズム的姿勢を有して 察いるからでもなく、ただ作家として文是豕として彼女が優れているからだ。一人の読者とし のてただ単純に素直に共感できるからだ。そういう発想はあるいは反動的で、無自覚的で、そ の結果僕をフェミニズムの敵たらしめているのかもしれないけれど。 っ 僕はべつに当地で隆盛をきわめているフェミニズム文学批評に文句をつけているわけでは たない。そういう新しい切り口から新しい視点で文学を読み取るというのはたしかに面白い試 のみだと思うし、批評の分野においていくつかの良い仕事がなされたのは事実だと思う。そし なてまたそういう観点はこれからの小説の書き方に確実な変化を与えていくことになるだろう 気 と田 5 一つ。 ただ僕は思うのだけれど、ものごとの正しいモーメントというものは、本来的に根本に疑 いの念を含んでいるものではないだろうか。というか、本来正当なモーメントというものは

7. やがて哀しき外国語

164 僕としてはそういう実際の一兀気な女の人を見ていると、アメリカのフェミニズムというの はこういうところから草の根的に、健全に生まれでているんだなと強く納得することにな る。僕はーーーたぶん自分が実際に体を動かして生きていた人間だからだと思うけれどーーど ちらかといえば理屈をつける人たちよりは、現実に体を動かしている人たちに引かれる傾向 がある。こういう人たちは僕に向かって「あなたはどうして男の作家たちばかり翻訳してい るのか ? そこには何か意味があるのか ? 」というような質問はまずしない。べつにそうい う質問が無意味だというのではないけれど、僕としてはできることなら、あまりそういう革 命法廷的な枝杢木節にこだわらない世界でまっとうに暮らしたいものだと思う。いずれにせ よ、掲ける思想の正否はともあれ、何かをかさにきてやたら大声を出してエバッているよう な人はーーそれがたとえ男だろうが女だろうがーー、基本的に信用できないというのが僕の考 え方なのだけれど、いかがでしよう。 後日附記 思うのだけれど、アメリカという国では「概念」というものが一度確立される と、それがどんどん大きく強くなっていって、理想主義的 (and/or) 、排他的に なる傾向があるようだ。よく「自然が芸術を模倣する」と言われるが、ここでは

8. やがて哀しき外国語

ョンに住んで、ジャガーやらに乗っていてもちっともおかしくないタイプの人々であ る。彼らはあくまで趣味で農場に住んでいるだけなのだ。実際にご主人のルイスはフィラデ ルフィアの近郊に通勤していて ( たぶん何かの専門職なのだろうと推察される ) 、アパート メントを市内に持っている。シンシアが電話で言っていたように、彼らは自分の家で馬や山 羊を飼ってはいるけれど、それで何かを生産しているわけではない。彼らにとって大事なの は「農場に住む」という姿勢なのだ。都会的な生活を離れ、自然の中で平和に暮らすという 事実なのだ。あえてカテゴライズするなら、「ポスト・ヤッピー」という一一一一口葉が彼らのライ フ・スタイルには相応しいかもしれない。ロナルド・レーガンが大統領職にあった頃の好景 気「あなたまかせ経済」時代のアメリカでは、大都市のダウンタウンに住んで高級レストラ ンやナイトクラブに通い、高級車に乗って、最先端のきらびやかな生活を送ることがアメリ 代 世力の若い世代にとってはもっともファッショナプルだったのだが ( このようなライフ・スタ 塊イルの典型を知るためにはプレット・イートン・エリスの『アメリカン・サイコ』を読んで ください。作品としての評価は完全にわかれているけれど、社会的状況資料としてこれくら 力い自己犠牲的にシニカルで本質的な小説はちょっとない。少なくとも『虚栄のかがりさは メシニカルではあっても自己犠牲的な小説ではないからね ) 、八〇年代も終わりに近づき、長 期的なリセッションにともなって都市が荒廃し、行政サーヴィスが低下し、犯罪が多発する ようになると、彼らはだんだん都市を離れていくようになる。いちばん大きな理由は、都市

9. やがて哀しき外国語

結果的に広汎なものにならざるを得ない。 しかしいったんこのような弁明サイクルに入ってしまうと、それこそ何から何まで山羊さ ん郵便的に言い訳しなくてはならない。どこまでが大並ョに必要なエクスキューズで、どこか らが・个ョには必要でないェクスキューズかという境目がだんだんわからなくなってくるから だ。だから僕は、小説家になったほとんど最初の段階で、文章を使って個人的な言い訳をす ることだけはやめようと決心した。僕はそれほど強い人間ではないから、日常においてはあ るいはついつい言い訳のようなことをしてしまうかもしれない。でもそのために文章を使う ことだけはやめようと。いささか大げさな言い方だとは思うけれど、たとえ世界中に誤解さ うれたとしてもそれはそれで仕方ないじゃないか、と基本的には僕は思っている。逆にいえば 行「小説家というのは良くも悪くも、そんなにみんなにすんなりと理解されちやかなわないだ ろう」ということである。「知はカなり」という一一 = ロ葉もあるけれど、小説家にとってはむし てろ「誤解はカなり」という方が正しいのではないか。小説の世界では理解を積みかさねて得 られた理解よりは、誤解を積み重ねて得られた理解の方が、往々にしてより強い力を持ちう 靴るのだ。 動 でもまあこういうことについて書きはじめるとキリがないし、それこそグチになってしま いそうなので、いよいよ ( 2 ) の床屋の話に移ります。実をいうと、この床屋問題こそが今 回の原稿の中心的話題なのだ。

10. やがて哀しき外国語

にそもそも彼らは、そういう人種的なフリクションが猛威を振るっているホットな環境をき らって都会を逃け出してきたわけなのだ。だから彼らの目は堕胎問題やフェミニズムといっ た女性問題ーーそう、それはまだ解決可能な差別事項なのだーー か、あるいは地域的環境保 護、地域的社会正義の実現というようなもっとミニマルな方向に向けられることになる。そ してその「地域」というのは、結果的には人口の大半が白人によって占められている社会を 意味している。 夕食の席でロスの暴動の話題が出たので、そのついでに僕は彼らにひとっ質問してみた。 この地域には非白人はどれくらいの数住んでいるのかと。すると彼らはみんなちょっと困っ た顔をした。「そういえばメキシコ人のコミュニティーがあるよ」と誰かが思い出したよう に言った。「コミュニティーとしてそれほど大きくはないけれど、あることはある。彼らは キノコを摘むためにやってきた人たちで、そのままここに定住したんだ。ペンシルヴェニア 。しいキノコが取れるからね。彼らはオーケーだよ。よく働くし、まじめだ。問題はない。 みんなここで一生縣叩働いて、その給料をメキシコに送金しているんだ。黒人はあまりいな いな」。それから話題。 まキノコのことに移った。 彼らのことを非難しようというようなつもりは僕には毛頭ない。もし僕が彼らの立場に立 ったとしても、現実的にはやはり同じようなことしかできないのではないかとも思う。残念 なことではあるけれど、アメリカという国はもう完全に、都市部のエスニックと、郊外の白