194 弟は、眉間にしわをよせていた。 「本気みたい、私もそういうことにあんまりしつこく誘われて、それでほんとにけん かして別れちゃったんだもの。」 きしめんは言った。 基本的に部外者なので私はこの話をろくに聞いていなかった。ただきしめんが何か を話すたびに、何かを思い出しそうになった。 何か大切なことで、今まで忘れてしまっていたこと。 それは恋愛的なことではないのに、特別にロマンチックな気持ちだった。 「ほくをひきこもうとするんだ、離れてても。」 ア弟は言った。 のうみそ 「私の小さい脳味噌で推測すると、こわいっていうことはおまえのなかに受け皿があ るんじゃないの ? 」 私は言った。 「だって、私きっと、そのひとはこわくはないもの。おまえのなかに、ほんの少し、 自分の特殊な力をびとに知らしめたい、 という気持ちがあるんじゃない ? やつば
220 アムリ てみたし、もしかしてロック好きのコズミくんかとも田 5 い、サイバンに電話までかけ たが違った。させ子と楽しそうに電話に出てきて、私にまた一瞬、変わらずに青い空 と潮の匂いを届けてくれただけだった。 わからないまま、聞き取るために何回も聴いたその旋律だけが耳に残った。 それでも私はそこに何か、切実なものを感じた。 メッセージのようなもの。 何か感じ方が私に非常に近いひとが、私に何かを伝えたくて苦しんでいる、そうい うイメージの残像の響きが消えずに鳴り続けていた。 純子さんからはやはり何の連絡もないまま時間が過ぎていた。 彼女はこの家に住む人にとってくさびのようなものだった。「母親」というイメー ジをになっていたのは、母よりもむしろ純子さんだった。 あれ以来、母は家を空けることが多くなって、幹子はもともと学校の友達と遊び歩 いていて寝に帰ってくるようなものだったし、私は自分の家にいるよりも竜一郎の部 屋にいることが多くなった。殺風景な部屋だったが、ほっといてもらえる空気が満ち ていていやすかった。
栄子の本心の重みを。親や育ちから受け継がれた妙なまじめさを。 人間って簡単だなあ、と思った。簡単さが偉大だとも。 冬の夕方の都会、光る街並、ネオン。会社を終えてこれからでかける人々のにぎわ いの中で、ちつほけな図体の栄子が小さい声で言った。 「帰ろう、朔美、ありがとう。」 あまりにも子供じみた信頼に満ちた笑顔で、あまりにきれいだったので私は照れて タしまった。 まるで初恋の美人の先生にお花をあげて、につこりとお礼を言われて赤くなった幼 ム稚園児みたいに。 ア 夜中、居間でひとりビデオを見ていたら、弟がおりてきた。 「朔ちゃん ? 何やってんの ? 」 「映画見てんの。」 「ふーん。」 弟は台所に行って、ポットに人っている熱い麦茶を飲んでいた。私にも、と言った ずうたい
183 もそれにくらべて弟が井えてるとは私は思わない。言わないだけで彼の頭のなかでは どんなことがおこっているかわかりよ、つがない。北日あったよ、つなサイキックなことで 夜も寝られないほど混乱しているかもしれないし、まして母にそれを説明してわかっ てもらえるはずもない。そして彼はそういうことを知った上で自分からここに来ると 決めたのだから。 親切そうな男の人に連れられて、弟がやってきた。弟は行ってきます、と笑って、 受付を越えてこちらにやってきた。 「朔ちゃん、久しぶり。」 「なにか食。へに行こうよ。食。へたいものないの ? 」 ア「ケーキ、ケーキを思 、いっきり食。へたい」 ごはんはどうなの ? 」 「まあまあおいしいよ。」 「そう。」 なんとなくひそひそ声で、そういうやりとりをしてからそこを出た。 「しやばの空気はいいねえ。」 建物の外に出ると、柔らかい陽ざしのなかで弟は笑った。しやくなことに本当に前
蹴ないのを見て涙をこぼした。 私は自分が弟を好きだということを、すごくよく知った。 そしてここしはらくあったことが、思い出したのではなくものすごいスピードで空 気として私のまわりに押し寄せてきた。それはみんな弟といた空間の持っ独特の光に よみがえ 満ちていて、風景や出来事の思い出より何万倍も切実にそのす。へてを蘇らせた。 それが泣かせたのだ。 ついに弟も泣いて、半泣きのままエレベーターにみんなで乗り込んだ。弟の友達は みんないつまでもついて来たがった。 ム「おまえは何をしたの、あそこで。宗教でもやってたの ? 」 ア鼻声の母は聞いた。 「友達をつくったの、はじめて。サイ。ハンのときや、きしめんとなったみたいに、本 当に仲良くなったの。学校ではしたことなかった。」 弟は言った。 「ずっと仲良くするんだ。それにたくさんつくるんだ。これからも。」 「そうよね。」 母は言った。
248 アムリ まだ意識がぐるぐるかけまわっていたが、肉体のほうからずどん、という感じで眠 りが落ちてきた。 朝起きたら、すごく楽しかった。 熱はすっかり下がり、生まれ変わったかのようなすがすがしさだった。 まく、りもと 枕元に、 「自宅に電話人れておきました。ゆっくり寝ててください。出かけます。夕方戻りま す。食べるものが冷蔵庫にあります。」 という竜一郎からの手紙が枕元にあった。 光がまぶしく、空気がおいしかった。 呼吸も楽だったし、空や窓枠に躍る光もいつもよりもずっとまぶしかった。 まだ体だけがすこしふらふらしていて、それもなんだか柔らかい感じに思えた。こ の世のす。へてが自分につごうよくあるような錯覚にとらわれた。 汗をたくさんかいたのがよかったらしい ふとんにひっくりかえって晴れた空を見上げながら、「今日は何をしよう」と考えた。
らに乾いた海沿いの道を北上していった。 ス ー。、ーは大きなホテルの正面にあり、外観はかなり古びていたが、その敷地のあ まりの大きさにばかばかしくなった。カートを押して迷いそうな店内を歩き回った。 色とりどりの商品はみんな極端にでつかくて、いかにも「体に悪そーう」という趣を たたえていた。ホテルのキッチンで自炊するために適当に野菜や果物をピックアップ していった。 「こういう食生活って体に悪くない ? 」 とレジで会ったさせ子に聞いたら、 ム「わたくしはもつはら『コズミズ・サンドイッチ』を食。へております。」 ア と笑った後に、 「家では、日本食が多いよ、みそ汁と魚、とか。しようゆで焼いた肉、とかね。」 し J 一一一一口った 0 「あっ、そういえば仲直りした ? あなたたち。」 突然昨夜のことを思い出してたずねたら、 「ああ、あんなのけんかのうちにはいんないわよ。よくあること。」 とあっさり言われてしまった。なるほど、こういう感じね・・・・ : と納得した。夫婦も
アムリ 「すごかったね、あの。」 弟が言った。 「夜中の、歌。」 「うん、本当に。、 ひっくりした。」 あまりに感動すると、人はそれについてやたら語り合ったりしない。そのことにつ いて弟と話すのは、帰ってきてからはじめてだった。 あの夜、サイ。ハン最後の夜。 断片が次々に浮かぶ。 私の白いワンピース、夜風と潮の匂い、ビーチバーのテーブルに投げ出された竜一 郎の真っ黒い腕。それから月、海に揺れる月光。弟の半ズボン、安くて井いカクテル。 にぎわう人々。ぼんやりと明るい砂浜。 コズミくんのへたくそだが味のある音色のギター伴奏で、させ子は次々に歌った。 たしかビリー ・ホリディの無名の歌と、とにかく古い、井い歌を何曲も。はまりす ぎていて、聞いているだけで溶けていきそうだった。それなのに心のどこかが緊張し せき て、連れていかれまいと涙をこらえるような、なっかしい、めくるめく感情の堰を、
262 「みんなも、みんなで遊びにおいで。」 そう言って、夜に消えていった。 ガトの向こうに弱い後ろ姿が消えていく。夜をさまよう飢えたシンデレラは、彼 のほうだ、と私は田 5 った。 私たちが住む町まで、きしめんは送ってくれて笑顔でばいばーい、 し」別れた。 私と弟は、二人で母と幹子が待っ家に帰った。渋谷から電話した時、 「待ってるのよ、お菓子とか幹子がたくさん買ってきちゃったから、何もいらないわ ム と母が言った。 アその時、淋しい気持ちと海の思い出が全く同じ量で少し消えた。 まだ、陽に焼けた腕がほてっているのに、靴の中はあのすばらしい場所の砂だらけ なのに。 今さっき、目を閉じれば、まだあの人たちの笑顔が波音と一緒にこんなに強く響い ているのに。 すごい子供じみた気分だった。 遠くの親戚のうちに遊びに行って、あんまり楽しかったから帰りの電車がいやでわ
199 っと淋しそうだった。子供の時、夏休みに幹子が泊まりに来て帰ってしまう時、真由 がよく泣きだして、私も何となく淋しくて何も手につかない気持ちになった。ああ、 うときみたいな雰囲気が三人を支配しはじめていた。 ラジオからは「ミッシェル」が流れていた。関連で思った。ああきっと、ビートル ズができた時、みんなこうしてただ単にはなれがたかったんだ。ジョンとヨ 晩中語りあかしてしまったあの運命のときも。世界は昔からずっと、そんな風にまわ タっていたのだ。 別れを告げて部屋を出て、エレベーターで一階まで降りて見上げると、四階の部屋 ムの窓からきしめんが小さく手を振っていた。部屋の明るさが逆光になって顔は見えな アかったけれど、きっと笑顔で、いつまでも私たちを見送っていた。 「最近、よく見送られるね。」 くつもの窓と区別がっかなくなった頃、私 角を曲がってその窓灯りが闇に浮かぶい は言った。夜風が涼しくて、淋しさも消えて、何だかすがすがしい気持ちだった。 「うん。」 弟は言った。 「はじめはね、きしめんの彼氏だったびとが二十四時間いつでもこわくて、それから