143 「そこに行きたい、って言うのよ。」 朝、そのことを純子さんにたずねたらそういう答えが返ってきた。 「自分て : パンフレットを持ってきてね。で、今朝由紀ちゃんが見学に行ったのよ。 由ちゃんも一緒に行ったわ。」 「だって、学校はどうするのよ。そんなことは別に後で考えればいいけど。」 驚いて私は言った。 「実はね、サイバンから帰ってきてからいっぺんも学校に行ってないことが先週、わ かったの。」 ム 純子さんは言った。私はん と大声を出してしまった。 ア「休んでいたの。」 「ランドセルを持って ? 」 「そう。しかも、誰か大人か、年上の友達か、そういうひとが上手に電話をかけてい たらしいの。学校にね。それで、わかるのが遅くなったんだけど。」 「全然、知らなかった。」 「そう、でもはじめ聞いた時私たち、どうせ朔美ちゃんがかけたんだろう、今度は何 を企んでるのかしら、とか言って、あんまり深刻に考えていなかったのよ。でも、か
「 LOVE. lt means Love. 」 させ子は答えた。 : と思いながら、じりじりと背中が焼けるのを感じなが そ、つかそ、つい、つことか・ ら、そういうやり取りが遠のいてゆき、いっしかうとうと寝ていた。 波音と、店から聴こえてくる音楽との間に短く、強烈に夢が忍び込んできた。 夏。 せみの声。私は子供で家にいる。たたみにつつぶして寝ている。父のはだしの足が 目の前を横切る。黒い足、短いつめ。向こうで妹が > を見ている。すだれ、窓の外 ムの緑。妹の後ろ姿、二つに結んだ髪の毛。父の声がする、母さん、朔美寝ちゃってる 台所か アよ。何かかけてやったら。母が答える。今てんぶら揚げてて聞こえないー ! ら揚げ物の音がする、匂いもする。長い箸を持った母の後ろ姿が見える。しかたなく 父が布団を持ってきてかけてくれる。妹が振り向く、お姉ちゃん起きてる、と言う。 笑う。懐かしい八重歯。 Feed 、これがそういうことだ。私は知ってる。私の体は覚えてる。何もかも失わ れても、こうして覚え続けている。みんなそうだ、たいていの人にお父さんとお母さ んがいて、刻まれている。自分が親になるまではめったに思い出さないけれど、記憶 ふとん
アムリ すきま 完成されていて丸くて立体で、私の情の人る隙間もないほど厳密なもの。 大きな渦巻き、まわりじゅうの人々や、出来事を海みたいに取り込んで、満ちて引 いて私独自の色に染め抜かれた世界に一つしかない、あるいは皆と共通の一つのシル ェットを創る流れのらせんを感じた。 アンドロメダみたいによく知っていて、きれいで遠い姿をしていた。 そして、本から目をあげると。 タありとあらゆるものが、歴史をたたえてそこに存在していた。 さっきまでとは、世界が違ってみえた。 私の記憶の欠けていた所が戻ってきたということなのだろうか。 私は声に出してそう言ってみたけれど、何よりもさっきまでそういうのが思いだせ ない、混乱していた部分を自分が持っていたというのがもう感覚としてわからなかっ ただ、何一つ変わっていないように見える部屋のものが、突然びとっぴとっ別のデ ーターを表現しているように感じられた。 順番に、そしていっぺんに。 本棚は私が小学校にあがる時に、母が買ってくれた。父が死んだ夜、この角を見つ
266 私はたずねた。 「ここは君の頭の中で、空港とカリフォルニアと外国のイメージが混じった場所だ 私の前にこしかけ、笑いながら彼は言った。 「健康そうね。やつばり日本は肌に合わないのかしらね。」 「そうだね。太陽が足りないかな。」 メスマ氏はにこにこして一言った。 「でもあの日は、楽しかった。本当にありがとう。」 ム水着の子供たちが海に向かってかけぬけて行った。 ア ウイターが、銀のトレーに何か美しい飲み物を持って私たちの脇をすりぬけて行 私たちはしはらく黙って、静かな気持ちで海を見ていた。まぶしすぎて銀のように も金のようにも見えた。または光のかたまりのようにも。 「きしめんのことはいいの ? 」 私は言った。 「何か伝えようか ? 」 っこ 0 わき
「あたりまえだ ! 」 私は笑った。 「そう ? 」 と栄子も笑った。 「しかも、私ハワイに行くことになったの。母と叔母と一緒に。半年かな : : : 要する にほとぼりがさめるまでね。」 タ「どこまでも、お金持ちくさいね。何もかもが。」 この家の持っ心地よい圧迫感に、少し息苦しさをおぼえはじめていた。 ム 窓から射す冬の淡い陽。レースのカーテン。その向こうに整然と整えられた庭木が ア見える。わびしさに震える池の水面によぎる鯉の影が、赤すぎるほど赤いのが見える。 ここに育ち、ここで愛され、ここに飼われ、ここを巣立てない。 栄子の本当の悩みは、いつもここにあるようにさえ思えてきた。 「そう言わないでよ。別に行きたいわけじゃないんだから。行きたくないわけでもな いんだけど。 栄子は言った。 「でも、きっと気分転換にはなるよ。半年くらいなにさ。すぐたつよ。少し、頭と体
146 私が笑いながら言うと、 「行きたくないよ、今の元気な朔ちゃんは、いるだけで僕を疲れさせるんだもの。」 と、相変わらず痛くもいやらしいところをついてきた。 こんなちびのどこに、そして何のためにこんな勘があるのだろう。大人でも持って いない人が沢山いるような、徴妙なテクニックだ。 そして、こいつにとってこの能力が何の役にたつんだろう。 タ「でも、ここにいても、おなかはすくしさ、下ではあんたについてお母さんたちが語 リり合っているし、出かけるに越したことないよ。別に何も聞かないし。学校変わりた ムいんだって ? 」 私は言った。 「学校行ってなかったんだって ? やるねえ。全然気づかなかった。」 弟は少し顔を輝かせて、自慢げに言った。 「苦労したんだよ。今度は、朔ちゃんに迷惑かけずにびとりでなんとかしようって思 「どこにいたの ? 」 素直な好奇心で聞いたら、話にのってきた。
なのなりかたをせざるをえなかったのかもしれない。 「由ちゃんにとって、いい結果になるといいわね。」 純子さんが言った。 「今度のことでいろいろ考えたわ。それに私もいつまでもここに居候しているわけに はいかないしね、そういうことも。」 「えつ、出ていっちゃうの ? 純子さんまで ? 」 私は情けない声で言った。 「急にはしないわよ。そんな子供みたいな顔しないの。」 純子さんは笑った。 いとこと、母 ア毎日のこととなると、変なことも変に思えなくなってくる。他人と、 と、私と、弟と。雑居。ごはんを食べ、それぞれの権利を持って、生活していた。そ のびずみが弟に出たのかもしれない。い や、答えはない。私の記憶のことも、関係し ていないとは言えない。べ ーズがなくなったことも、私が竜一郎とっきあったこと も、何もかもが少しずつ響き合って、こんなふうに形になって表れてくる。 変わってゆく、よくも悪くもなくて、ただ形を変え続けていく。流れてい ( そうろ・つ
蹴ないのを見て涙をこぼした。 私は自分が弟を好きだということを、すごくよく知った。 そしてここしはらくあったことが、思い出したのではなくものすごいスピードで空 気として私のまわりに押し寄せてきた。それはみんな弟といた空間の持っ独特の光に よみがえ 満ちていて、風景や出来事の思い出より何万倍も切実にそのす。へてを蘇らせた。 それが泣かせたのだ。 ついに弟も泣いて、半泣きのままエレベーターにみんなで乗り込んだ。弟の友達は みんないつまでもついて来たがった。 ム「おまえは何をしたの、あそこで。宗教でもやってたの ? 」 ア鼻声の母は聞いた。 「友達をつくったの、はじめて。サイ。ハンのときや、きしめんとなったみたいに、本 当に仲良くなったの。学校ではしたことなかった。」 弟は言った。 「ずっと仲良くするんだ。それにたくさんつくるんだ。これからも。」 「そうよね。」 母は言った。
225 「僕のあだなは、メスマです。そう言っていただければ、皆に通じます。」 彼は言った。きしめんの次はメスマ、と私はひとり思った。 「僕は、弟さんから、あなたのことを聞いて、何となくあの曲を思い出したのです。 そして、ああいう方法で興味を持ってもらえれば、僕の話を聞いてくれるかな、と思 ったんです。僕は、もうすぐ遠くに行くんだけど、弟さんにはすっかり誤解されてし まって、それを解きたくて。」 「もしかすると、あなたは、きしめんの友達でもあった人 ? 」 私はたずねた。 ム 「かなめのことですね ? 」 ア彼は言った。私はうなずいた。 「そうです、恋人でした。」 彼は言った。 「少しだけ、話聞きました。」 私は言った。そして弟はこの静かな静かな人のどこが怖かったんだろう ? と疑間 に思った。もっと若い強引な人を想像していたので、混乱した。こんな弱そうなおじ さんだなんて考えてもみなかった。でもテープをまず送ってきて気をびくテクニック
163 アムリ 「くわしくは言えるか自信がないけど、ほら、君のお父さんって、経済書とかよく読 む人だったじゃないか。成功のための本とかさ。そういう本から引用したらしいよ。 中国の古典で、僕も知っていた話だから印象にのこってるんだな。」 「どんな内容 ? 」 「昔、漢の国に東方朔っていうすごい変わり者がいて、どうしてか皇帝に気にいられ ていたんだよ。その人は、皇帝から何か賜りものがあっても、全然ありがたがらない。 布であればぞんざいに肩にかけて持ってっちゃうし、生肉なんてふところの中にその まま、べた。へたに汚して人れてっちゃうし、お金は女にみついじゃう、そういう人だ 「全然いい話じゃないじゃないの。」 「いや、ここからがいいんだよ。それで、まわりの人がおまえは変だ、変わり者だ、 いにしえのひとは深山に身を隠したが、朔のごときは と言うと彼は、『いや、違う、 朝廷に身を隠しているんだ』と言ったっていうんだ。そういうはなし。」 「やつはりよさがわからないなあ。」 私は言った。話の主旨はわかるが、真由が言いたいことがわからない。 「月の方が、ロマンチックで女らしいよね。」 っこ 0