182 一連の旅行で、いまやこの家の「弟担当」は私に決定している趣がある。私はポケ ットに人ったままの「きしめん」のアドレスをさわりながら、そうだ弟に会ってみよ 、つと田 5 った。 面談は、土曜日の午後だった。 私はなんとなく金網越し : : : というのを想像していたけれど、刑務所じゃないから、 全然違った。 ごく普通のビルのワンフロアにその児童院はあった。明るいし、きれいにしてあっ て、適当に生活感があって、子供が好きそうなポスターとか、おもちゃとかがあって、 ム決して貧乏臭かったり暗い感じはしなかった。受付から見ていたら、奥の方で沢山の ア子供たちが行ったり来たりしているのが見えた。がやがやして、何だか楽しそうだっ たし、見たところそんな変わった様子の子はいなかった。 私が「姉なんですけど、連れ出してもいいですか」と聞くと受付のお姉さんがにつ こりして、「いいですよ、もし夕食もおとりになるようでしたら、七時半までにこち らに送り届けてください」と言った。 けっこ、つアバウトなので、ほっとした。 家庭で休めなくてうまくいかなくなると、ここに休みに来る子もいるのだろう。で
私は言った。 「電話してお母さんに私の知ってることをねほりはほり聞かれると思うと、こっちか らは電話もできないしさ、心配したんだからね。いったいどうしちゃったの ? 何が あったの ? 」 っふふ、と栄子は笑った。か細い声が海を越えてやってくる。 「じゃあだいたいのことはメイドさんに聞いたのね ? 私、刺されちゃったのよ。今、 タ病院の廊下から。もう、いやになっちゃう。大変。」 「それは大変だろうけど。彼は無事なの ? いなかったの ? その時。」 ム 私はたずねた。 ア「それがね、彼と借りてる部屋あるでしよう ? 彼が会社に出かけた後、そこでひと りでごはん食。へてたら突如、奥さんが刃物を持ってやってきたのよ。ピンポン、 きて、何の気なしにドアを開けたらこんにちは、ぐさってそういう感じ。驚いたー 私なんて、バスロープのまま、救急車に乗ったのよー。映画みたい、色つほいわね。 奥さん、血を見たら動揺しちゃって、救急車呼んで、って言ったら呼んでくれてんの。 助かっていいんだったら刺さなきゃい、 のにね。変なの。」 栄子はくすくす笑っていた。私は言った。
「見たかったなあ。」 「できたての彼氏みたいよ。」 無駄話をして電話を切った。 「何でもないみたい。」 私に注目している部屋のみなさんに告げた。 「寝てるって。ここの夢を見てたのかなあ。家の弟、少し変わってるの。」 私はこんな専門家達の前で、変な言い訳をした。 ) い、能力があるんだね。」 ア コズミくんが一一 = ロった。 「君が霊につきまとわれて、夢の中できっと助けを求めたんだね。だから様子を見に 来たんだよ。」 「いい子だなあ ! 遠いのに。」 びとごとみたいに私は叫んだ。何もかもが興奮のなかで、つくりごとつほくてサイ キックホラー小説を読んでいるみたいだった。 「だから、今疲れきって寝ているよ。きっと。あんなにはっきりした像をとばすのは
204 アムリ 「それもそうだ、変よね。」 「何か、突発的なことがあったんだとは思うけど。でも、言ってくれればねえ。」 「わからないね、でも、お金は ? 確かにあのひとが持って行った証拠はあるの ? 」 私は言った。やっと、この状况のリアリティに思考が慣れてきたのだ。 「これが置いてあった。」 母はテープルの上を指した。私は明かりをつけて、やっと空気が動き出したその部 屋の中でその置き手紙を見た。 「必ずかえします、純子」 純子さんの字で書いてあった。 「いやあ、人間て、わかんないもんだねえ ! 何を考えてるのか。」 「でしょー それが母と私の単なる結論だった。 それぞれがしはらく黙ってそれぞれのことをいつものようにしていた。母はひきっ づきワインを飲んだり、私は夕食にとパンを食。へたりしていたが、 釈然としない。や みそしる はり味噌汁も、おひたしも残っていた。貴重なかんじがしたし、貴重と思うと淋しく なりそうなのでそれを考えまいともした。幹子に説明して、弟に告げて、そうしたら
「そうね、考えない。」 私は言った。景色を見て、ご飯を食。へて、海で泳いで、 > を見て。それだけで満 たされる。高知でしてたやつの拡大版だ。緩み、鈍くなる。私が恐れ、憧れていたす べてだ。 「あたしなんてさあ、追われるように日本を逃げて来たから。」 させ子は言った。 タ「あっ、そうだ、そういえは私、あなたに高知で会ったように思うんだけど。 私はたずねた。 ム 「夢で。一度だけ、会う前に夢で会ったことある。あなたがまだ若い男の子と住んで アいるマンションに訪ねて行く夢見た。」 普通のことみたいにさせ子は言った。 「大筋は合ってる。」 私は言った。 「時々あるの。これから友達になる人が、夢に出てくることが。彼だってそうだった わ。午後の空港で会う夢をみたから、私空港に迎えに行ったの。見ず知らずの彼のこ と。そうしたら、彼は私を一目見て、夢で見た人だ、と思ったんだって。彼は友達と あこが
122 ーズもの その小説、笠井潔というひとの「哲学者の密室」というんだけれど、シリ で、高校生の頃熱中して読んでたの。そしてその事をすっかり忘れていて、何の気な しに新作を買ってきて、どうもでてくる人々を知っているような気がしていて、そう したらぞろっと記憶が蘇ってきた。恐ろしいほどあっけなく。忘れていた部分があっ たことすら、一くに田 5 えるくらいにさりげなく。 私にとって、それはたぶん竜一郎やサイバンや弟や、いろいろなことが重なって少 タしずつはじまっていたことだとは思う。たしかに少しずつ記憶は戻ってきていた。こ の日常や、栄子や、あなたと接して。その間にもいろんな本は読んでいたし、 > で ム映画を観て「これ、子供の時観たな」って思う事もあった。でもこういう、 つながっ アた感じは得られなかった。あるいはこれも錯覚かもしれない。 まだまだ忘れてる事は あるのかもしれないし、もしかすると記憶はとっくに全部戻っていて、私がないと思 い込んでいただけかもしれない。 こればかりは人と比。へられないから。私だけの理解 だから。 ただ、直接のきっかけが昔の友人でも、家族のアルバムでもなくて、架空の世界、 架空の現実だった。それはとても興味深い事です。 つかさど 私の脳の中の、それは「見る事も触る事もできないが、たしかにある」なにかを司る
私もなんとなくコーヒーの続きを飲みはじめた。そしてぼんやりと、窓辺に並んだ 焼物の柔らかいラインを見ていた。この店はすべての器が和物で、深煎りの豆の濃い コーヒーが出てくる。テーブルは全部木で、ゆったりと大きい。床も木だから、人が 歩くといい音がする。ケーキも生クリ ームがごっそりのった大きい奴じゃなくて、 ョ さ ーロビアンタイプで、好きな店だった。働いたあとにここでお茶を飲んで帰 るのが楽しみだった。都市生活者のささやかな喜び。 週に何回も来ていたのに、まわりの人なんて見てなかったなあ、あのひとは前から ここに来ていたのだろうか : : と思った時だった。 ム 人り口のベルが軽やかに鳴り、ウェイトレスがいらっしゃいませ、と言ってどやど アやと学生のグループが人ってきたそのあとに、影のようにひっそりと、風のように軽 す。へりこむように彼女が人ってきた。 「きしめん ! 」 と暗号のように弟は言った。 彼女は驚いた顔のあと、笑顔になった。 やつばりここにいたのね、ともいっか会えると思ってたとも取れる、明るい笑顔だ 190 っこ 0 やっ
113 少し怖くなって母を見ると、母はさすがに人間だから、そして自分が胎児や幼児だ ったころの見えない、感じただけの記憶までが押し寄せてくるから、ただ大らかな巨 大な混乱が記憶の断片とともに踊るだけだった。 「どうしたの、朔美、変よ。」 母が言った。 「どこが ? 」 私は言って、母を見つめた。 「顔からカが抜けてる。こどもの頃みたいな顔してる。」 ム「寝起きなんで。」 アそう言って、私は台所に行って、思い出の洪水みたいな品々のびとっぴとつが、忘 れていたことを責めるように次々とデーターをうちだしてゆく : : : そんな気がするく らいの思い出しかたに混乱しながらコーヒーを淹れた。 よく見つめてみるとさらに頭を打ってからの思い出が微妙に、まるで。 ( ンにバタ 1 を薄くぬったみたいに香り高く自然に塗り重ねられているのがわかった。妙な気分だ った。明快すぎるし、理解できすぎる。昨日までの手探りで、勘だけで、「今」だけ でやってきたのに比。へて、自分というものが重く、百科事典を何冊も持って歩いてい
212 アムリ 弟は言った。 「なんか、さみしいのと、うちがどうなってるのかなと思ったら眠れなくなっちゃっ て。純子さんがもし死んじゃってたらどうしようとか、お母さん泣いてるかな、と ゝ 0 「泣いてなかったよ。やけ酒飲みに行った。」 私は笑った。 「きっと、あとから泣くよ。」 泣きそうなのは弟だった。目線を追ってみると、無造作に丸めてキッチンのワゴン に押し込んであるままの純子さんのエプロンを見ていた。 「僕どうしよう、戻ってこようかなあ。そのほうがいいの ? 」 「自分の好きにしなよ。純子さんの抜けたところは純子さんでしか埋められないもの。 しばらくはどっちにしたって暗いよ。」 「お母さん、結婚かな。」 弟がいちばん気にしているのはそれだろう、と知った。 「ありうる。」 私は言った。母の年下の彼氏がこれを機会にここに住んでしまうことは考えられる。
158 私なんて、何年ぶりに会うのだろう、あの人に。緊張してしまう。わかい娘が赤の 他人をお父さんと呼んで同居して、洗濯物にも気を使って過ごした変な年月が懐かし ー刀ュ / 私たちがいろいろな中国茶を飲んで、胡麻団子なんて食。へて陽気な気分で待ってい たら、「お父さん」が人ってきた。セーターにパンで、若々しい感じだったけれど、 一緒に住んでいた頃に比。へてしわが増えて、少し小さくなっていた。 「二人して家出でもしてきたの ? 」 うれ 「お父さん」は笑った。そして弟を見て、目を細め、顔を弛めて本当に嬉しそうにし ムた。この嬉しそうな顔は、何よりもきくと思った。このために大きくなっておいてよ アかったと弟は感じただろう。遠くにいても愛している、と口に出していうまでもなく 父親は、息子にものすごく会いたかったことが伝わってきた。 「由男、大きくなったね。」 彼は言った。 「お父さん。」 弟は泣きそうだった。 「朔美ちゃん、感じが変わったね。大人っほくなった。いつ以来かな。」 ゝっこ 0 ゆる