・記憶戻る ・弟、児童院へ ・純子さん逃亡 ・きしめん、メスマ氏と友達に 文字にしてながめてみると不思議だった。 タその紙をテー。フルの上に置いておいたら、それはあたりまえだけれどテープルの上 の四角い白い単なる切れ端で、丸めて捨てても、飛んでい。てしま。ても何の意味も なのにその紙が愛しく思えたり、そこにまるでマイクロフィルムのようにこの数年 のめくるめく情報が満ちあふれては流れでて空間を染めていくように思える。 心は白紙を映像に変える。 私はその映像のなかをさまよっていつのまにか、ここにきた。 ここは恋人の家のテーブルのところ。 ところがこの旅のなかではここは明日にも敵の家になるかもしれないし、こんなに 愛しい私の歴史を記した紙が、明日にはす。 ~ て忘れ去られてしまうかもしれない。 271
122 ーズもの その小説、笠井潔というひとの「哲学者の密室」というんだけれど、シリ で、高校生の頃熱中して読んでたの。そしてその事をすっかり忘れていて、何の気な しに新作を買ってきて、どうもでてくる人々を知っているような気がしていて、そう したらぞろっと記憶が蘇ってきた。恐ろしいほどあっけなく。忘れていた部分があっ たことすら、一くに田 5 えるくらいにさりげなく。 私にとって、それはたぶん竜一郎やサイバンや弟や、いろいろなことが重なって少 タしずつはじまっていたことだとは思う。たしかに少しずつ記憶は戻ってきていた。こ の日常や、栄子や、あなたと接して。その間にもいろんな本は読んでいたし、 > で ム映画を観て「これ、子供の時観たな」って思う事もあった。でもこういう、 つながっ アた感じは得られなかった。あるいはこれも錯覚かもしれない。 まだまだ忘れてる事は あるのかもしれないし、もしかすると記憶はとっくに全部戻っていて、私がないと思 い込んでいただけかもしれない。 こればかりは人と比。へられないから。私だけの理解 だから。 ただ、直接のきっかけが昔の友人でも、家族のアルバムでもなくて、架空の世界、 架空の現実だった。それはとても興味深い事です。 つかさど 私の脳の中の、それは「見る事も触る事もできないが、たしかにある」なにかを司る
129 二人の歴史が、とても美しいことのように思えてきた。 物語のように、あたりまえに。世界中の映画や小説が言ってるのと同じように、ひ とっしかない。 そんなあたりまえの事を感じるには、記憶をなくしてから取り戻すといいみたい。 いい感じがする。秋の枯葉のかわいた匂いと色と音みたいに。古典的ないい回しで タ「何もかもが、ここにあるわけがよくわかる。」 しばらくこれを楽しんでいます。 アムリ 朔美 読みかえしてみてわかるのは、私が本当に本当に竜一郎に会いたいということだ。 私が本当に何もかもわかってくれる人として彼に何かを伝えようとしている。 この幼さも、この動揺も、私はある夜の切ない、興奮した心情の記憶として刻み込 では
130 アムリ む。 そうして生きてい そういう一場面として、私はその夜のびんせんに透ける机の 色や、ライトに照らされた自分の手を記憶する。 ストー。フの熱い空気と、火照ったほほと、階下から聞こえてくる母と純子さんの話 し声や、その日の夕食のカレーの匂いを記憶する。 そんなことを思いながら寝たのに、マスターの夢を見た。 私はべリーズのカウンターにもたれて、はやく時間が来ないかな、と思っている。 柔らかな茶の店内に、夕方がやってくる。 なぜか、夏だった。 草の匂いが窓から人ってくる。 夕方の空の、明るい青が見える。 マスターは肉を焼いている。 い音と、匂いが店にたちこめる。 お客さんはいない。 「つまみぐいするかい」
113 少し怖くなって母を見ると、母はさすがに人間だから、そして自分が胎児や幼児だ ったころの見えない、感じただけの記憶までが押し寄せてくるから、ただ大らかな巨 大な混乱が記憶の断片とともに踊るだけだった。 「どうしたの、朔美、変よ。」 母が言った。 「どこが ? 」 私は言って、母を見つめた。 「顔からカが抜けてる。こどもの頃みたいな顔してる。」 ム「寝起きなんで。」 アそう言って、私は台所に行って、思い出の洪水みたいな品々のびとっぴとつが、忘 れていたことを責めるように次々とデーターをうちだしてゆく : : : そんな気がするく らいの思い出しかたに混乱しながらコーヒーを淹れた。 よく見つめてみるとさらに頭を打ってからの思い出が微妙に、まるで。 ( ンにバタ 1 を薄くぬったみたいに香り高く自然に塗り重ねられているのがわかった。妙な気分だ った。明快すぎるし、理解できすぎる。昨日までの手探りで、勘だけで、「今」だけ でやってきたのに比。へて、自分というものが重く、百科事典を何冊も持って歩いてい
116 「しばらくは混乱するかもしれないけど。」 弟が言った。 「すぐに、頭が整理されて落ち着いてくるよ。」 タ「アドバイスは嬉しいけれど、どうしてそんな暗い顔で言うのさ。」 私は言った。そう言ったときの弟がしめ殺される前の鶏みたいな悲壮な顔をしてい ムたからだ。 ア 「淋しくて、何だか。」 彼は言った。 「記憶がなくて、かたよっていた朔ちゃんのほうが、ばくのつらさをわかってくれた ような気がして。」 「ばかもの ! 」 私は言った。多分今朝までの私も、これに関しては同じ意見だと思う。 「素直な気持ちを言うのはい、 ことだけど、でもそんな考えからはなにも生まれない まっさらだっ と、幼稚園児の抱負みたいなものを素直に思い描けてしまうくらい
284 「えつ、取材で外国行くの ? 」 私は言った。 「だったら部屋貸しといて。」 「おまえはどうしてそうなの ? 行かないよーだ。」 「日本で書くの ? どんなの ? 売れる ? 私に何か買ってくれる ? 」 私は言った。 「うーん、どうなるか。」 竜一郎は言った。 昔と同じように、大きなグラスに人った金色のビールが運ばれてきた。乾杯をした。 ア陽は全く等しく店内と、外の道と、サルスペリを照らしていた。いすやグラスや鏡 やトレーに光を反射させて。 「モデル料は払うよ。」 「私に ? 」 「そう。記憶をなくしてとりもどした女の話なんだ。」 「そりや売れないわ。」 「全く君ってわけじゃないんだよ。あくまで君を見てて考えたこと。この門 、つっ一 ~
280 アムリ 半野外で、下がコンクリで、丸いテーブルで、誰かと : : : すごい昔。私はジ、ース を、その誰かは真昼にビールを飲んでいて : それを言うと竜一郎は「前の彼氏じゃないの ? 」とつまらなそうな顔をした。 「だって、こんな遠い街に来て、そのこと忘れたりするかなあ、私、この駅降りたの はじめてだと思うんだけど : : : 」 「もしかして、雑誌で見て来たことある気になってるんじゃない ? ここ昔からあっ て、よく本に載ってるみたいだよ。」 「わかった ! 」 かすかな記憶、その、目の前でビールを飲む人のばやけた映像をどんどんクリアー になるまで集中してつきつめていったら、ある笑顔に行き当たったのだ。 「お父さんと来たんだった。」 「亡くなった ? 」 「そう。ああ、すっきりした。」 「それって、 いくつくらいのときのこと ? 」 「十歳くらいかな : : : 」 「そうかあ。」
254 アムリ その断片は、記憶を無くした時の空間のようにこころもとない断片ではなく、やは り詩みたいに、美しいフレーズみたいにきら、きらと日本の緑と夏の海辺に舞うのだ っこ 0 「このあいだはごめんね。」 メスマ氏が一一 = ロった。 「突然、失礼ないろんなことを言ってしまって。」 「ショックで熱が出た。あのせいとしか思えない。」 私は笑った。 「ほんとう ? 」 「ほんとう。」 「ごめん。」 「でも楽しい熱だった。大人になるとなかなか大熱って出さないから。」 「あせってたんだ、なんか。はやくわかってほしくて。あの日に仲たがいしたら三人 ともと仲たがいしたままになっちゃうから、必死になりすぎてて、失礼をしてしまっ 素直な声で彼は語った。 こ 0
うね。」 とりあえず分析してみたが、この子が体で感じたことにくら。へたら、説得力はない。 弟はうなずいて、 「普通の学校にも、きっと気が合う子はいるんだ。今は探せなかっただけで、探す元 気がなくって。」 と言った。無理しないで、と言うのはやめた。必死で全身を研ぎ澄ましている彼に、 なにが言えるだろう。言えない。 ム ア行きつけの喫茶店に行って、その大きなテー。フルにすわるまで、私は「きしめん」 のことをうかつにもすっかり忘れていた。 弟がケーキを四個もたのんで、ぎよっとした私が「このまえここでどんなケーキ食 。へたつけ」と思った瞬間に記憶の底から突然浮かび上がってきたのだ。 「ごめん ! 忘れてた。」 私は言った。 「このまえ、ここで会った人から、住所と電話渡すように言われてたんだ。」